長光の在銘作は、鎌倉時代の刀工の中で他の何人よりも多く遺る。説明書はその記録を「現存する在銘の作品は鎌倉時代の刀工の中でも最も多い」という一文で開き、続けて、いずれも「出来にむらがなく」、技術の充実していたことが知られると記す。長船派の祖・光忠の子にして長船二代目であり、「父光忠と並ぶ名手」と評される。ここに集う記録では在銘一七三口に対し無銘六三口、銘は「二字銘が最も多く」、永仁二年紀の「備前国長船住左近将監長光造」銘の生ぶ太刀のような年紀作が、同時代の刀工にはまず許されぬ確かさでその年代を定める。
作風について説明書は、数十年の指定を通じて同じ二様を繰り返す。一は父光忠風を継承した感のある豪壮な造込みに、華やかな丁子主調の乱れを焼いたもの。他は身幅尋常か細身の姿に、直刃調に丁子足の入った比較的穏和な出来口である。華やかな手では丁子乱れに互の目が交じり、足・葉が盛んに入る。匂勝ちに小沸がつき、金筋・砂流しが細かにかかり、匂口は明るい。出典が彼独自のものとして挙げるのは「頭の丸いむっくりとした丁子」であり、このふくらみのある焼頭は父の作には見られない。帽子は小丸が圧倒的に多く、説明書は繰り返し「帽子浅くのたれ、先小丸に短く返る」と記す。動きの強い作では「帽子乱れ込み」と入ってから返り、一部には「焼き詰める」ものもあり、全体として「いわゆる三作帽子の風情を呈す」。
鍛えは板目、処々肌立ちごころとなり、多くの作では小板目につんで精美となる。地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入り、鮮明な乱れ映りが立つ。映りは作の大半に現れ、最も頼りになる見どころの一つである。在銘の後期太刀について説明書は、よくつんだ板目に微塵の地沸と細かな地景を交えた「精緻と美麗とを兼ね備えた鍛え」と特筆し、地刃の明るく冴えることを繰り返し記している。
この記録には三つの段階が辿れる。最初期は父に最も近く、丁子主調の焼刃に蛙子を交え、「まさに光忠を髣髴とさせる出来ばえ」と評される。典型期は前述の頭の丸い丁子に互の目、鮮やかな映りと三作帽子を備える。穏やかな直刃調の手は後期に集まり、左近将監の官銘や長銘の作の周りに見られる。室町・江戸期の伝書類は初二代を分かち、将監銘を二代としたが、NBTHKは「銘字の上から初二代の差異を見出すことはできず」と観じ、近時は「将監長光は長光の後期から晩年作と考える説が浮上し有力視されている」。この後期の短刀には片落ち互の目の萌芽が現れ、子・景光がこれを完成する。
備前の中で、その華やかな作は一見一文字派にも紛れるが、説明書は彼自身の特徴によって線を引く。すなわち「丁子主調となる一文字派の乱れに比しては互の目が目立ち」、物打より上で乱れが穏やかになって焼が一段と低くなり、帽子は三作の形に収まる。父との別も同じ仕方で立つ。頭の丸いふくらみのある丁子と、初期作の華やぎに対して落ち着きを保つ焼刃である。下流では、晩年の直刃調と短刀の片落ちの萌芽がそのまま景光に開き、光忠・長光・景光の三代が長船嫡流の背骨をなす。長光はその広く安定した中核である。
藤代の極めで最上作。重要文化財二十六口は全刀工中最も多く、国宝六口がこれに並び、その下に特別重要刀剣二十八口・重要刀剣百四十四口、両級で百七十二口を数え、指定を受けた作は二百五十三口に及ぶ。伝来は国を握った者の手を経る。名物『大般若長光』は足利義輝から三好長慶を経て織田信長・徳川家康に渡り、ひろく明智光秀・豊臣秀吉、芸州浅野家・肥後細川家・備前池田家・上杉家・前田家、水戸・尾張・紀州の徳川家、皇室の名が録される。国宝・重要文化財の作は、東京国立博物館・京都国立博物館・徳川美術館・熱田神宮・厳島神社などに護られた文化財である。しかし銘を惜しまなかったがゆえに、特別重要刀剣・重要刀剣の級の遺例は厚い。在銘の長光が市に現れることは稀で、常にその頂にあるとはいえ、大磨上無銘でのみ伝わる名工たちとは異なり、忍耐ある蒐集家にとって全く手の届かぬものではない。一口が現れるとき、それは出来事である。