戦国の世、一派は第二の主家に仕えた。小田原の後北条氏である。その庇護のもと綱広系は打刀の時代の皆焼を鍛え続け、1590年の落城とともに新刀の時代へ散った。
千子村正の重要刀剣大身槍、皆焼交じりの烈しい刃文、すこぶる健全な地刃、世界最強の大身槍、身震いする程の妖刀村正です。 愛刀家の方でなくとも、一般的に良く知られるのが千子村正、その知名度は、相州正宗、長曽祢虎徹、源清麿に勝るとも劣りません。また同工に関する様々な伝説は、その枚挙に暇がない程、数多残されています。特に徳川家との因縁は只ならぬものがあり、多くの禍をもたらしたことから、『妖刀村正』と恐れられ、同家には忌み嫌われ、一説によると、江戸時代、大名、旗本らは、村正の所持を禁じられたとも伝わっています。その一方で、徳川家に恨みを持つ外様大名達は、『無銘』又は『廣正』、『正廣』などと改鏨するなどして秘かに愛用、特に幕末期には、徳川家に祟るとの伝説から、勤皇の志士達に好まれ人気を博したとも云います。 そして何と言っても万人を魅了して止まないのはその凄まじい斬れ味、徳川家に忖度したためか、江戸時代に作られた業物位列には入っていませんが、その斬れ味は虎徹と同等かそれ以上、本来であれば間違いなく最上大業物にその名を連ねる刀工でしょう。 同銘が数代に渡っていますが、特に初二代が有名で、初代を文亀、二代を天文頃としており、その代別は、その銘振り、作風、茎仕立て等によって明確に区別することが出来ます。また、村正は、とにかく偽物が多いことでも有名、正宗でも虎徹でも、偽物が多いのは人気の目安となりますが、間違いなく村正が最も多いかと思います。 本作は、大変貴重な村正の大身槍、昭和六十年(一九八五)、第三十二回の重要刀剣指定品です。 これまでも本誌では、村正の在銘正真作を百振り程掲載致しましたが、大身槍の重要刀剣は初、茎も生ぶで地刃もすこぶる健全です。 因みに定義として、『刃長が一尺を超えるもの』を大身槍と呼び、『天下の三名槍』である『御手杵(おてぎね)(四尺六寸)』、『日本号(二尺六寸二分)』、『蜻蛉切(とんぼぎり)(一尺四寸)』も大身槍に当たります。 寸法一尺九寸九分強、塩首は六角で短く、平地に太い棒樋を角留めにし、樋中は黒塗りになっています。 板目に杢目交じりで総体的に流れて肌立つ地鉄は、地色やや黒み勝ち、小互の目乱れ主体で、互の目、丁子風の刃、尖り風の刃を交えた刃は、刃縁良く沸付いて匂い深く、やや沈み心に締まり、上半は乱れが烈しく飛び焼きを多数交えて皆焼となり、刃中小互の目足、葉入り、金筋、砂流しが掛かっています。 図譜には、『この槍は、二代村正の作で、美濃関風の尖り刃の目立つ互の目乱れを焼いており、部分的には飛び焼きが入って皆焼風となるなど華やかであり、総じて出来が優れ、蓋(けだ)し名槍と称すべきである(名槍と呼ぶに相応しいものである)。二代村正には、他に片鎌十文字槍の遺例もあり、槍の製作にも長じていたことが知られる。』とあります。 槍の類いは、消耗が激しく、滅多に良い状態で残ってないですが、流石は重要刀剣だけあって、刃が健全、元から先まで染みるような箇所は皆無です。 妖刀村正の大身槍、ある意味、武器として最強と言っても過言ではありません。 近年の刀剣ブームの火付け役、村正の人気は留まることを知らず、今後も益々価格高騰の気配です。 誠に勝手ながら、今後は、『天下の三名槍』にこれを加えて『四名槍』とさせて頂きます。
村正は室町後期の伊勢を代表する刀工で、桑名の地に在住し、現存する上限の年紀は文亀元年であり、以降同銘が相 継ぎ新刀に及んでいる。通説では文亀を初代、天文を二代、天正を三代としており、その中二代とされているものが最も 技術が優れ、茎の銘振も流暢で巧みである。この槍は二代村正の作で、関風の尖り刃の目立つ互の目乱れを焼いており、 部分的には飛焼が入って皆焼風となるなど華やかであり、総じて出来が優れ、蓋し名槍と称すべきである。二代村正には 他に片鎌十文字槍の遺例もあり、槍の製作にも長じていたことが知られる。 帽子乱れ込み、尖り



村正は室町後期の伊勢を代表する刀工で、桑名の地に在住し、現存する上限の年紀は文亀元年であり、以降同銘が相 継ぎ新刀に及んでいる。通説では文亀を初代、天文を二代、天正を三代としており、その中二代とされているものが最も 技術が優れ、茎の銘振も流暢で巧みである。この槍は二代村正の作で、関風の尖り刃の目立つ互の目乱れを焼いており、 部分的には飛焼が入って皆焼風となるなど華やかであり、総じて出来が優れ、蓋し名槍と称すべきである。二代村正には 他に片鎌十文字槍の遺例もあり、槍の製作にも長じていたことが知られる。 帽子乱れ込み、尖り
相州伝 · 伊勢
現在6点販売中
村正派は伊勢国桑名を本拠とし、室町時代後期から戦国の世にかけて栄えた一門である。現存する上限の年紀は文亀元年(一五〇一)で、「勢州桑名住右衛門尉藤原村正作」[[c:1]]と居住地・俗名・刀工銘を完備した長銘がこれを伝え、この定点から通説は文亀を初代、天文を二代、天正を三代とする。一門の祖たる初代村正がその名を負う作風を定め、技量最も優れ作刀も多く現存する天文頃の二代がこれを大成し、門には正重・正眞を出した。世に正宗の弟子と伝える俗説は早くより行われたが、年紀の記録を前に当を得ぬものとして退けられ、本派はあくまで室町末期近くにはじまる刀工と位置づけられる。その作風は美濃・島田・末相州と共通するところを持ち、なかでも京の平安城長吉と特に近く、長吉とは何らかの関係があったとも、師弟関係にあったとも説かれる。日蓮宗への帰依は鉄の上に直に読め、刃に妙法蓮華経の題目を切り、梵字・蓮台・八幡大菩薩を彫る作があることから、当時伊勢地方に同宗の信仰の少なくなかったことがうかがわれる。 本派を貫く第一の特色は、刃文の表裏が目立って揃うことである。互の目・のたれを基調に箱がかった刃を交え、乱れの谷が刃先にせまり、その乱れが表裏で鏡のように対応する。匂口は締りごころに小沸が叢につき、時に沈みごころとなって砂流しがしきりにかかる。帽子は直ぐに小丸、または乱れ込んで掃きかけ、覇気ある作では返りを深く棟焼に続ける。これを載せる姿は、平造・三ツ棟で身幅広く寸延びた短刀・小脇指、および寸の詰った先反りの強い打刀で、フクラの枯れる室町後期の典型を示す。鍛えは板目に流れ肌・柾ごころを交えてやや肌立ち、地沸つき、鉄色心持ち黒みがかって白けごころを帯びるものが多い。茎は生ぶで下半が著しく細るたなご腹となり、太鏨大振りの二字銘を切るのを常とする。一門のうちにも度合の差があり、初代村正の手が二様の銘と信仰の作に分かれるのに対し、二代はたなご腹と流暢な銘字が殊に著しい。正重は同じ千子の手をより肌立たせ、より強く沸づかせて放胆に開き、正眞はこれを引き締めて地肌が少しつむ傾向にあり、上半を穏やかな直刃に納める。皆焼はいずれの工にあっても時折の作域に止まり、本領はあくまで表裏の揃う乱れ刃にある。 鑑定の勘所は、まずこの表裏の揃いと、刃先にせまる乱れの谷、締りごころの匂口と叢沸、そしてたなご腹の茎と太鏨の銘字にある。一見すると末関の兼定・兼芝に紛れ、島田物に似、平安城長吉とは酷似するため、これらと分けるにはこの見どころに立ち返らねばならない。一門内では茎が決め手となり、村正の茎棟が角に切られるのに対し、正重はいかにも丸く肉がつくとされる。切れ味の評は古来高く、後の世にその作が忌まれた一因ともなった。すなわち徳川家に祟る、持主に祟るとの妖刀伝説が行われ、その忌避にふれて銘を消されたものが多く、現存有銘の刀は比較的に稀である。名跡の行方についても、忌避にふれて絶えたとする説と、同銘相継いで新刀に及んだとする説が併存する。伝来には大名家のものが残り、妙法蓮華経の刀は茎棟に銀象嵌「鍋信」とあって鍋島信濃守勝茂の所持と伝え、初代の脇指の一口は織田信長の指料と伝えて織田木瓜紋の合口を附し、正眞の一刀は将軍より拝領して水野家に下る。この水野家の刀は伊勢を憚って「山城国正真」と国名を改めて切られ、その隠された出自そのものが妖刀の評の重さを物語る。後の世がその名を消そうとした工の作であればこそ、年紀確かで表裏の揃う村正一門の作が世に現れることは、一箇の画期として今に求められている。 詳しく見る →
室町時代の相州
戦国の世、一派は第二の主家に仕えた。小田原の後北条氏である。その庇護のもと綱広系は打刀の時代の皆焼を鍛え続け、1590年の落城とともに新刀の時代へ散った。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト刀剣、刀装具、骨董等1点ものにつきましては、キャンセル待ちのお客様がおられる場合がございますので、ご返品のご連絡は商品到着後3日以内、ご返送は8日以内にお願いいたします。ご返金は商品ご返送到着後即日に致します。
千子村正の重要刀剣大身槍、皆焼交じりの烈しい刃文、すこぶる健全な地刃、世界最強の大身槍、身震いする程の妖刀村正です。 愛刀家の方でなくとも、一般的に良く知られるのが千子村正、その知名度は、相州正宗、長曽祢虎徹、源清麿に勝るとも劣りません。また同工に関する様々な伝説は、その枚挙に暇がない程、数多残されています。特に徳川家との因縁は只ならぬものがあり、多くの禍をもたらしたことから、『妖刀村正』と恐れられ、同家には忌み嫌われ、一説によると、江戸時代、大名、旗本らは、村正の所持を禁じられたとも伝わっています。その一方で、徳川家に恨みを持つ外様大名達は、『無銘』又は『廣正』、『正廣』などと改鏨するなどして秘かに愛用、特に幕末期には、徳川家に祟るとの伝説から、勤皇の志士達に好まれ人気を博したとも云います。 そして何と言っても万人を魅了して止まないのはその凄まじい斬れ味、徳川家に忖度したためか、江戸時代に作られた業物位列には入っていませんが、その斬れ味は虎徹と同等かそれ以上、本来であれば間違いなく最上大業物にその名を連ねる刀工でしょう。 同銘が数代に渡っていますが、特に初二代が有名で、初代を文亀、二代を天文頃としており、その代別は、その銘振り、作風、茎仕立て等によって明確に区別することが出来ます。また、村正は、とにかく偽物が多いことでも有名、正宗でも虎徹でも、偽物が多いのは人気の目安となりますが、間違いなく村正が最も多いかと思います。 本作は、大変貴重な村正の大身槍、昭和六十年(一九八五)、第三十二回の重要刀剣指定品です。 これまでも本誌では、村正の在銘正真作を百振り程掲載致しましたが、大身槍の重要刀剣は初、茎も生ぶで地刃もすこぶる健全です。 因みに定義として、『刃長が一尺を超えるもの』を大身槍と呼び、『天下の三名槍』である『御手杵(おてぎね)(四尺六寸)』、『日本号(二尺六寸二分)』、『蜻蛉切(とんぼぎり)(一尺四寸)』も大身槍に当たります。 寸法一尺九寸九分強、塩首は六角で短く、平地に太い棒樋を角留めにし、樋中は黒塗りになっています。 板目に杢目交じりで総体的に流れて肌立つ地鉄は、地色やや黒み勝ち、小互の目乱れ主体で、互の目、丁子風の刃、尖り風の刃を交えた刃は、刃縁良く沸付いて匂い深く、やや沈み心に締まり、上半は乱れが烈しく飛び焼きを多数交えて皆焼となり、刃中小互の目足、葉入り、金筋、砂流しが掛かっています。 図譜には、『この槍は、二代村正の作で、美濃関風の尖り刃の目立つ互の目乱れを焼いており、部分的には飛び焼きが入って皆焼風となるなど華やかであり、総じて出来が優れ、蓋(けだ)し名槍と称すべきである(名槍と呼ぶに相応しいものである)。二代村正には、他に片鎌十文字槍の遺例もあり、槍の製作にも長じていたことが知られる。』とあります。 槍の類いは、消耗が激しく、滅多に良い状態で残ってないですが、流石は重要刀剣だけあって、刃が健全、元から先まで染みるような箇所は皆無です。 妖刀村正の大身槍、ある意味、武器として最強と言っても過言ではありません。 近年の刀剣ブームの火付け役、村正の人気は留まることを知らず、今後も益々価格高騰の気配です。 誠に勝手ながら、今後は、『天下の三名槍』にこれを加えて『四名槍』とさせて頂きます。
村正は室町後期の伊勢を代表する刀工で、桑名の地に在住し、現存する上限の年紀は文亀元年であり、以降同銘が相 継ぎ新刀に及んでいる。通説では文亀を初代、天文を二代、天正を三代としており、その中二代とされているものが最も 技術が優れ、茎の銘振も流暢で巧みである。この槍は二代村正の作で、関風の尖り刃の目立つ互の目乱れを焼いており、 部分的には飛焼が入って皆焼風となるなど華やかであり、総じて出来が優れ、蓋し名槍と称すべきである。二代村正には 他に片鎌十文字槍の遺例もあり、槍の製作にも長じていたことが知られる。 帽子乱れ込み、尖り



村正は室町後期の伊勢を代表する刀工で、桑名の地に在住し、現存する上限の年紀は文亀元年であり、以降同銘が相 継ぎ新刀に及んでいる。通説では文亀を初代、天文を二代、天正を三代としており、その中二代とされているものが最も 技術が優れ、茎の銘振も流暢で巧みである。この槍は二代村正の作で、関風の尖り刃の目立つ互の目乱れを焼いており、 部分的には飛焼が入って皆焼風となるなど華やかであり、総じて出来が優れ、蓋し名槍と称すべきである。二代村正には 他に片鎌十文字槍の遺例もあり、槍の製作にも長じていたことが知られる。 帽子乱れ込み、尖り
相州伝 · 伊勢
現在6点販売中
村正派は伊勢国桑名を本拠とし、室町時代後期から戦国の世にかけて栄えた一門である。現存する上限の年紀は文亀元年(一五〇一)で、「勢州桑名住右衛門尉藤原村正作」[[c:1]]と居住地・俗名・刀工銘を完備した長銘がこれを伝え、この定点から通説は文亀を初代、天文を二代、天正を三代とする。一門の祖たる初代村正がその名を負う作風を定め、技量最も優れ作刀も多く現存する天文頃の二代がこれを大成し、門には正重・正眞を出した。世に正宗の弟子と伝える俗説は早くより行われたが、年紀の記録を前に当を得ぬものとして退けられ、本派はあくまで室町末期近くにはじまる刀工と位置づけられる。その作風は美濃・島田・末相州と共通するところを持ち、なかでも京の平安城長吉と特に近く、長吉とは何らかの関係があったとも、師弟関係にあったとも説かれる。日蓮宗への帰依は鉄の上に直に読め、刃に妙法蓮華経の題目を切り、梵字・蓮台・八幡大菩薩を彫る作があることから、当時伊勢地方に同宗の信仰の少なくなかったことがうかがわれる。 本派を貫く第一の特色は、刃文の表裏が目立って揃うことである。互の目・のたれを基調に箱がかった刃を交え、乱れの谷が刃先にせまり、その乱れが表裏で鏡のように対応する。匂口は締りごころに小沸が叢につき、時に沈みごころとなって砂流しがしきりにかかる。帽子は直ぐに小丸、または乱れ込んで掃きかけ、覇気ある作では返りを深く棟焼に続ける。これを載せる姿は、平造・三ツ棟で身幅広く寸延びた短刀・小脇指、および寸の詰った先反りの強い打刀で、フクラの枯れる室町後期の典型を示す。鍛えは板目に流れ肌・柾ごころを交えてやや肌立ち、地沸つき、鉄色心持ち黒みがかって白けごころを帯びるものが多い。茎は生ぶで下半が著しく細るたなご腹となり、太鏨大振りの二字銘を切るのを常とする。一門のうちにも度合の差があり、初代村正の手が二様の銘と信仰の作に分かれるのに対し、二代はたなご腹と流暢な銘字が殊に著しい。正重は同じ千子の手をより肌立たせ、より強く沸づかせて放胆に開き、正眞はこれを引き締めて地肌が少しつむ傾向にあり、上半を穏やかな直刃に納める。皆焼はいずれの工にあっても時折の作域に止まり、本領はあくまで表裏の揃う乱れ刃にある。 鑑定の勘所は、まずこの表裏の揃いと、刃先にせまる乱れの谷、締りごころの匂口と叢沸、そしてたなご腹の茎と太鏨の銘字にある。一見すると末関の兼定・兼芝に紛れ、島田物に似、平安城長吉とは酷似するため、これらと分けるにはこの見どころに立ち返らねばならない。一門内では茎が決め手となり、村正の茎棟が角に切られるのに対し、正重はいかにも丸く肉がつくとされる。切れ味の評は古来高く、後の世にその作が忌まれた一因ともなった。すなわち徳川家に祟る、持主に祟るとの妖刀伝説が行われ、その忌避にふれて銘を消されたものが多く、現存有銘の刀は比較的に稀である。名跡の行方についても、忌避にふれて絶えたとする説と、同銘相継いで新刀に及んだとする説が併存する。伝来には大名家のものが残り、妙法蓮華経の刀は茎棟に銀象嵌「鍋信」とあって鍋島信濃守勝茂の所持と伝え、初代の脇指の一口は織田信長の指料と伝えて織田木瓜紋の合口を附し、正眞の一刀は将軍より拝領して水野家に下る。この水野家の刀は伊勢を憚って「山城国正真」と国名を改めて切られ、その隠された出自そのものが妖刀の評の重さを物語る。後の世がその名を消そうとした工の作であればこそ、年紀確かで表裏の揃う村正一門の作が世に現れることは、一箇の画期として今に求められている。 詳しく見る →
室町時代の相州
戦国の世、一派は第二の主家に仕えた。小田原の後北条氏である。その庇護のもと綱広系は打刀の時代の皆焼を鍛え続け、1590年の落城とともに新刀の時代へ散った。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト刀剣、刀装具、骨董等1点ものにつきましては、キャンセル待ちのお客様がおられる場合がございますので、ご返品のご連絡は商品到着後3日以内、ご返送は8日以内にお願いいたします。ご返金は商品ご返送到着後即日に致します。