鑑定書内容:文部省 重要美術品 Agency for Cultural Affairs Art treasures 重要美術品指定、加賀本多家伝来の左行弘と信州飯田藩堀家伝来の国弘で構成された大小である。筑前国左文字は南北朝時代初期に出現し、それまでの古典的な九州物の作域から脱却して、清廉な地鉄に明るく華やかに冴えた刃文を焼く格調高い作域を確立した。その一門には安吉、行弘、吉貞、そして本作の弘行や国弘などの名工が輩出され師風を良く継いで繁栄した。本作は明治時代、伊藤博文の側近として大日本憲法の起草、制定に関わり「憲法の番人」として大いに活躍した伊東巳代治伯爵の旧蔵品である。同氏は大般若長光や包丁正宗などを所持した著名な愛刀家でもあり、一説にその蔵刀は六百振りとも云われ、その膨大な数の蔵刀全てに自筆で詳細を書き残している。本作の鞘、小札はまさにその実例であり、また名刀を購入すると、対になる作を購入して多数の大小拵を制作したとも云われており、本作の大小もそうして制作されたものであろう。明治維新後、多くの名刀が大名家の蔵より市井に放出された。鞘書に元信州飯田藩堀子爵家、元加州藩本多男爵家とある事から藩政時代には同家に伝わったこれらの名刀を同家より譲り受け、それを見立てて大小とし、拵を制作するとは流石時代に名を刻んだ大愛刀家の実に優雅な行いである。弘行と国弘はそれぞれ左一門の行弘、吉弘の小、または門下と伝えられる刀工で、在銘作の少ないことでも知られる左一門の作中、特に弘行は太刀、短刀を含めて在銘作は皆無とされている。国弘の脇差には享保四年(1719)光忠代御百貫の折紙が、弘行の刀に正徳四年(1714)に同じく光忠が代五百貫の折紙が付帯しており、また後に松平出羽守よりの依頼により金二十五枚の大枚に改められた事が本阿弥琳雅が本阿弥家留帳より書き留めて残されている。弘行の刀は上記の寸尺からは考えられない程の重量を誇る健全無比な状態を保っており、重要文化財指定の名物二筋樋貞宗を彷彿とさせる出来栄えである。これほどの感銘を受けたのは同作を手にしたとき以来であり、同作の国指定は重要美術品までであるが、管見の限りでは同一門中最高の健全さを誇る名刀である。














Chikuzen Samonji (Sa school) · 筑前 · 1346-1370頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位21%
弘行は筑前左文字、すなわち左一派の刀工で、南北朝時代中期の正平頃に活躍し、行弘の子と伝える。説明書が末左と呼ぶ、開祖大左から継がれた門人の一群に属する。左一派は南北朝初期に出現し、それまでの地刃の沈んだ鄙びた直刃仕立ての古典的な九州物の作風と決別し、相州伝を導入して地刃共に明るく冴え、地景・金筋の交じる作風を樹立した。弘行はその作風のうちに働き、その位置は剣書の伝える僅かな年紀・在銘によって定まる。すなわち正平二十年(一三六五)紀の作があるといい、父行弘には観応の年紀ある作がある。在銘の作は極めて稀で、その記録のほとんどは長大な南北朝の太刀を磨り上げ、本工と極められた大磨上無銘の刀である。
その手は刃文において最もよく読まれる。身幅広く反りの浅い刀身に、直刃を地として浅くのたれをおびた刃を焼き、互の目・角がかった互の目・小のたれ・尖り刃・小互の目を、しばしば連れごころに総じて小模様に交える。沸は厚くむらにつき、処々荒めの沸が叢となり、打のけ・湯走りを刃縁に交え、金筋・砂流しがさかんにかかって、匂口はしばしば沈みごころとなる。説明書が本工の見どころとするのは、まさにこの手である。すなわち、技倆ほぼ伯仲して個々の刀工を決し難い左一類にあって、互の目が連れて目立ち、焼の出入りがさまで目立たぬ比較的穏やかな刃こそ弘行と読まれる。数々の説明はいずれも同じ判断に結ばれ、その作を「弘行に最も擬せられるものであり」[[c:1]]と評する。
地鉄はその両様に通じて変わらぬところである。杢・流れ肌を交えて肌立つ板目に、処々大板目を交え、地沸厚くつき、地景よく入り、かね色はやや黒みを帯びて白ける。これは相州伝に発する左の地鉄で、明るくつんだ備前の地に冴える映りではなく、開いて沸の強い鋼であり、映りが立つとしてもせいぜい淡い沸映り風か白けごころにとどまる。互の目の目立つ線の傍らに、説明書は同じ手のより静かな一面を読む。すなわち浅くのたれをおびた中直刃に小互の目・角がかった刃を控えめに交え、総じて小模様となり、刃縁細かにほつれ、匂口の沈む手である。帽子は放胆な作では乱れ込み、突き上げて先尖り、さかんに掃きかけ、穏やかな手では直ぐに小丸となる。
この二様は、刀がいかに極められたかに応じている。互の目の目立つ放胆な刀は一派の覇気を帯び、ある特別重要刀剣は「放胆で覇気に溢れた出来口」[[c:2]]と評される。一方、本阿弥家の入れた金粉銘を伴うことの多い静かな中直刃調の作は、広直刃にほつれかかり匂口の沈む、鑑定家が古来弘行と読んだ刃を見せる。説明書はこの極めの限界に率直である。本工を末左に列して「作風を区別することは困難である」[[c:3]]とし、本工の作に見る金粉銘は明治以後に本阿弥家が始めたものとする。ある一口については「左弘行とまで断定し得るか否か」[[c:4]]には問題があると認めつつ、「南北朝期の左の一派の作であることには異論がない」[[c:5]]とする。
弘行を分かつものは、それゆえ私的な銘ではなく、伯仲した一派の中の程度の差である。本工自身の地に即した見どころ、すなわち小模様で直刃に寄った刃の連れる互の目、黒みを帯びた沸の強い肌立つ板目、突き上げて尖る帽子は、大左から継がれた末左の安吉・行弘・吉貞・国弘・弘安・貞吉らの傍らに本工を置く。説明書はその技倆をこの一群のうちに保ち、無銘の極めを時代と一派から首肯し、その比較的穏やかな直刃寄りの手を、その名を負う左伝の一面とする。本工は開祖の一代下に立ち、一派の最初の名手の華やかさを求めるよりも、明るく沸の豊かな作域において南北朝盛期の豪壮な体配を打った工である。
収集の観点では、弘行は近代の上位の指定級に名を連ねる、確かに記録された左の名である。藤代の極めは上作。その記録は特別重要刀剣の刀二口、うち一口は本阿弥琳雅の金粉銘を伴い、戦前の重要美術品二口、重要刀剣二十九口を通じ、特別重要刀剣と重要刀剣の級を併せて三十一口に及ぶ。その作は大名家の伝来に根ざし、彦根の井伊家には丸に橘紋の打刀拵を附した特別重要刀剣が伝わり、鍋島家にも一口があり、さらに土浦の土屋家・徳川家を経たものや、市立博物館に蔵されるものもある。記録のほとんどが無銘で旧家に伝わるため、弘行が世に出ることは稀であり、現れるとすれば重要刀剣・特別重要刀剣の級からで、根気よく待つ収集家は折にふれてその一口に出会い得る。それは左一派が明るい相州伝の作風を南北朝第二世代へと伝えた、健全で迫力ある証である。
弘行の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
相州伝 · 筑前
時期区分: 末左· 1338–1450
現在16点販売中
末左とは、大左の後を承けた左文字派の後代を総称する呼び名である。説明文がたびたび繰り返すように、筑前国左文字は南北朝時代初期に出現し、それまでの古典的な九州物の作域から脱皮して地刃の明るく冴えた作風を確立したが、その一門は末左と汎称され、安吉・行弘・吉貞・国弘・弘行・弘安・貞吉らが師風をよく受け継いで活躍した。これらの諸工は大左の子あるいは門人と伝えられる。安吉は大左の子で、後に筑前から長州へ移住したと伝え、その移住は正平十七年紀の「長州住安吉」の銘振りが常々の安吉銘と一致することから首肯される。弘安は行弘の子と伝え、現存作に正平二十年紀、『埋忠押形』所載のものに正平十三年紀がある。国弘は吉弘の子とも定行の子とも伝え、貞国は左国弘の子で時代を応安頃とする。世代は南北朝盛期から末期、降って室町初期の応永にまで及び、安吉の作には永和・応永年紀のものが遺って代替りの存在も窺われる。 作風の上では、末左は大左が確立した相州伝を一代隔てて受け継いでいる。鍛えは板目に小板目・杢を交え、肌立ちごころとなって地沸が厚くつき、地景が細かに頻りに入り、淡く沸映りが立つ。刃文はのたれを基調に互の目・小互の目・尖りごころの刃を交え、足・葉が入り、匂が深く小沸が厚くついて、金筋・砂流しが細かにかかる。帽子は乱れ込んで突き上げ、先が尖りごころとなって掃きかけ、長く返る。これらは左一類の特徴であり、無銘の刀を左一類と鑑る拠りどころとなる。ただし大左の地刃に見られる際立った冴えに対し、末左ではその度合いがやや劣り、匂口が沈みごころとなる作も少なくない。作柄は一門の諸工に比して特に際立った個性を見出し難く、定型化の傾きをもつ。なかには安吉のように刃沸が弱く匂勝ちで、刃近くに棒映りを現して備前気質を交える手もあり、大左の純然たる相州伝からの隔たりを示している。 末左を大左と分かつ鑑定の要点は、地刃の冴えの度合いと、作風の定型化の度合いにある。明るく冴えた地と突き上げて尖る帽子という見どころは共有しつつも、末左ではその冴えが一段退く。無銘極めにおいては、互の目の目立つものは弘安に、最も華やかに大模様へ乱れたものは国弘に擬する、というのが本阿弥家以来の見方である。主要工としては、行弘が大左に最も接近する弟子として一群の頭に立ち、安吉・国弘・弘安・貞国らが続く。在銘作は一様に頗る稀で、太刀の弘安在銘や安吉の生ぶ在銘短刀のごときは資料的価値が極めて高く、その多くは大磨上無銘の同工極めを通じて世に伝わる。伝来も豊かで、弘安の刀には黒田家・高須松平家・久松家に伝わったものがあり、本阿弥光忠・光温らの折紙を伴う。貞国の短刀は毛利家に伝わり、吉弘の太刀は備前池田家に伝来して、八代将軍吉宗より池田継政が拝領したと考えられている。
国(政府)がその高い美術的・歴史的価値を認めて認定した刀剣で、重要刀剣に相当する格を持ちます。輸出が制限され、重要美術品は日本国内にとどめられ、国外へ持ち出されると認定を失います。
重要美術品の認定は、世界恐慌下で日本の貴重な文化財が海外へ流出するのを防ぐために制定された、昭和8年(1933年)の「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」に始まります。当時はまだ民間所有品を対象とする重要文化財・国宝の制度が整っておらず、文部大臣の認定によって国宝に準ずるもの(准国宝)として国外への持ち出しを禁じました。制度の終了までに約8,300件が認定され、うち刀剣は約1,000口でした。昭和25年(1950年)の文化財保護法に引き継がれ、価値の高いものは重要文化財へ昇格し、その他は重要美術品の認定を保持しています。以後、新たな認定は行われていません。
お客様都合による返品は作品到着後二日以内にお申し出ください。※お品物に手を加えた物等は対応できません※返品送料はお客様のご負担となります※お品代以外の費用(振込手数料、代引手数料等)は返金できません。※お届け先が海外の場合は返品や返金は出来ません
鑑定書内容:文部省 重要美術品 Agency for Cultural Affairs Art treasures 重要美術品指定、加賀本多家伝来の左行弘と信州飯田藩堀家伝来の国弘で構成された大小である。筑前国左文字は南北朝時代初期に出現し、それまでの古典的な九州物の作域から脱却して、清廉な地鉄に明るく華やかに冴えた刃文を焼く格調高い作域を確立した。その一門には安吉、行弘、吉貞、そして本作の弘行や国弘などの名工が輩出され師風を良く継いで繁栄した。本作は明治時代、伊藤博文の側近として大日本憲法の起草、制定に関わり「憲法の番人」として大いに活躍した伊東巳代治伯爵の旧蔵品である。同氏は大般若長光や包丁正宗などを所持した著名な愛刀家でもあり、一説にその蔵刀は六百振りとも云われ、その膨大な数の蔵刀全てに自筆で詳細を書き残している。本作の鞘、小札はまさにその実例であり、また名刀を購入すると、対になる作を購入して多数の大小拵を制作したとも云われており、本作の大小もそうして制作されたものであろう。明治維新後、多くの名刀が大名家の蔵より市井に放出された。鞘書に元信州飯田藩堀子爵家、元加州藩本多男爵家とある事から藩政時代には同家に伝わったこれらの名刀を同家より譲り受け、それを見立てて大小とし、拵を制作するとは流石時代に名を刻んだ大愛刀家の実に優雅な行いである。弘行と国弘はそれぞれ左一門の行弘、吉弘の小、または門下と伝えられる刀工で、在銘作の少ないことでも知られる左一門の作中、特に弘行は太刀、短刀を含めて在銘作は皆無とされている。国弘の脇差には享保四年(1719)光忠代御百貫の折紙が、弘行の刀に正徳四年(1714)に同じく光忠が代五百貫の折紙が付帯しており、また後に松平出羽守よりの依頼により金二十五枚の大枚に改められた事が本阿弥琳雅が本阿弥家留帳より書き留めて残されている。弘行の刀は上記の寸尺からは考えられない程の重量を誇る健全無比な状態を保っており、重要文化財指定の名物二筋樋貞宗を彷彿とさせる出来栄えである。これほどの感銘を受けたのは同作を手にしたとき以来であり、同作の国指定は重要美術品までであるが、管見の限りでは同一門中最高の健全さを誇る名刀である。














Chikuzen Samonji (Sa school) · 筑前 · 1346-1370頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位21%
弘行は筑前左文字、すなわち左一派の刀工で、南北朝時代中期の正平頃に活躍し、行弘の子と伝える。説明書が末左と呼ぶ、開祖大左から継がれた門人の一群に属する。左一派は南北朝初期に出現し、それまでの地刃の沈んだ鄙びた直刃仕立ての古典的な九州物の作風と決別し、相州伝を導入して地刃共に明るく冴え、地景・金筋の交じる作風を樹立した。弘行はその作風のうちに働き、その位置は剣書の伝える僅かな年紀・在銘によって定まる。すなわち正平二十年(一三六五)紀の作があるといい、父行弘には観応の年紀ある作がある。在銘の作は極めて稀で、その記録のほとんどは長大な南北朝の太刀を磨り上げ、本工と極められた大磨上無銘の刀である。
その手は刃文において最もよく読まれる。身幅広く反りの浅い刀身に、直刃を地として浅くのたれをおびた刃を焼き、互の目・角がかった互の目・小のたれ・尖り刃・小互の目を、しばしば連れごころに総じて小模様に交える。沸は厚くむらにつき、処々荒めの沸が叢となり、打のけ・湯走りを刃縁に交え、金筋・砂流しがさかんにかかって、匂口はしばしば沈みごころとなる。説明書が本工の見どころとするのは、まさにこの手である。すなわち、技倆ほぼ伯仲して個々の刀工を決し難い左一類にあって、互の目が連れて目立ち、焼の出入りがさまで目立たぬ比較的穏やかな刃こそ弘行と読まれる。数々の説明はいずれも同じ判断に結ばれ、その作を「弘行に最も擬せられるものであり」[[c:1]]と評する。
地鉄はその両様に通じて変わらぬところである。杢・流れ肌を交えて肌立つ板目に、処々大板目を交え、地沸厚くつき、地景よく入り、かね色はやや黒みを帯びて白ける。これは相州伝に発する左の地鉄で、明るくつんだ備前の地に冴える映りではなく、開いて沸の強い鋼であり、映りが立つとしてもせいぜい淡い沸映り風か白けごころにとどまる。互の目の目立つ線の傍らに、説明書は同じ手のより静かな一面を読む。すなわち浅くのたれをおびた中直刃に小互の目・角がかった刃を控えめに交え、総じて小模様となり、刃縁細かにほつれ、匂口の沈む手である。帽子は放胆な作では乱れ込み、突き上げて先尖り、さかんに掃きかけ、穏やかな手では直ぐに小丸となる。
この二様は、刀がいかに極められたかに応じている。互の目の目立つ放胆な刀は一派の覇気を帯び、ある特別重要刀剣は「放胆で覇気に溢れた出来口」[[c:2]]と評される。一方、本阿弥家の入れた金粉銘を伴うことの多い静かな中直刃調の作は、広直刃にほつれかかり匂口の沈む、鑑定家が古来弘行と読んだ刃を見せる。説明書はこの極めの限界に率直である。本工を末左に列して「作風を区別することは困難である」[[c:3]]とし、本工の作に見る金粉銘は明治以後に本阿弥家が始めたものとする。ある一口については「左弘行とまで断定し得るか否か」[[c:4]]には問題があると認めつつ、「南北朝期の左の一派の作であることには異論がない」[[c:5]]とする。
弘行を分かつものは、それゆえ私的な銘ではなく、伯仲した一派の中の程度の差である。本工自身の地に即した見どころ、すなわち小模様で直刃に寄った刃の連れる互の目、黒みを帯びた沸の強い肌立つ板目、突き上げて尖る帽子は、大左から継がれた末左の安吉・行弘・吉貞・国弘・弘安・貞吉らの傍らに本工を置く。説明書はその技倆をこの一群のうちに保ち、無銘の極めを時代と一派から首肯し、その比較的穏やかな直刃寄りの手を、その名を負う左伝の一面とする。本工は開祖の一代下に立ち、一派の最初の名手の華やかさを求めるよりも、明るく沸の豊かな作域において南北朝盛期の豪壮な体配を打った工である。
収集の観点では、弘行は近代の上位の指定級に名を連ねる、確かに記録された左の名である。藤代の極めは上作。その記録は特別重要刀剣の刀二口、うち一口は本阿弥琳雅の金粉銘を伴い、戦前の重要美術品二口、重要刀剣二十九口を通じ、特別重要刀剣と重要刀剣の級を併せて三十一口に及ぶ。その作は大名家の伝来に根ざし、彦根の井伊家には丸に橘紋の打刀拵を附した特別重要刀剣が伝わり、鍋島家にも一口があり、さらに土浦の土屋家・徳川家を経たものや、市立博物館に蔵されるものもある。記録のほとんどが無銘で旧家に伝わるため、弘行が世に出ることは稀であり、現れるとすれば重要刀剣・特別重要刀剣の級からで、根気よく待つ収集家は折にふれてその一口に出会い得る。それは左一派が明るい相州伝の作風を南北朝第二世代へと伝えた、健全で迫力ある証である。
弘行の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
相州伝 · 筑前
時期区分: 末左· 1338–1450
現在16点販売中
末左とは、大左の後を承けた左文字派の後代を総称する呼び名である。説明文がたびたび繰り返すように、筑前国左文字は南北朝時代初期に出現し、それまでの古典的な九州物の作域から脱皮して地刃の明るく冴えた作風を確立したが、その一門は末左と汎称され、安吉・行弘・吉貞・国弘・弘行・弘安・貞吉らが師風をよく受け継いで活躍した。これらの諸工は大左の子あるいは門人と伝えられる。安吉は大左の子で、後に筑前から長州へ移住したと伝え、その移住は正平十七年紀の「長州住安吉」の銘振りが常々の安吉銘と一致することから首肯される。弘安は行弘の子と伝え、現存作に正平二十年紀、『埋忠押形』所載のものに正平十三年紀がある。国弘は吉弘の子とも定行の子とも伝え、貞国は左国弘の子で時代を応安頃とする。世代は南北朝盛期から末期、降って室町初期の応永にまで及び、安吉の作には永和・応永年紀のものが遺って代替りの存在も窺われる。 作風の上では、末左は大左が確立した相州伝を一代隔てて受け継いでいる。鍛えは板目に小板目・杢を交え、肌立ちごころとなって地沸が厚くつき、地景が細かに頻りに入り、淡く沸映りが立つ。刃文はのたれを基調に互の目・小互の目・尖りごころの刃を交え、足・葉が入り、匂が深く小沸が厚くついて、金筋・砂流しが細かにかかる。帽子は乱れ込んで突き上げ、先が尖りごころとなって掃きかけ、長く返る。これらは左一類の特徴であり、無銘の刀を左一類と鑑る拠りどころとなる。ただし大左の地刃に見られる際立った冴えに対し、末左ではその度合いがやや劣り、匂口が沈みごころとなる作も少なくない。作柄は一門の諸工に比して特に際立った個性を見出し難く、定型化の傾きをもつ。なかには安吉のように刃沸が弱く匂勝ちで、刃近くに棒映りを現して備前気質を交える手もあり、大左の純然たる相州伝からの隔たりを示している。 末左を大左と分かつ鑑定の要点は、地刃の冴えの度合いと、作風の定型化の度合いにある。明るく冴えた地と突き上げて尖る帽子という見どころは共有しつつも、末左ではその冴えが一段退く。無銘極めにおいては、互の目の目立つものは弘安に、最も華やかに大模様へ乱れたものは国弘に擬する、というのが本阿弥家以来の見方である。主要工としては、行弘が大左に最も接近する弟子として一群の頭に立ち、安吉・国弘・弘安・貞国らが続く。在銘作は一様に頗る稀で、太刀の弘安在銘や安吉の生ぶ在銘短刀のごときは資料的価値が極めて高く、その多くは大磨上無銘の同工極めを通じて世に伝わる。伝来も豊かで、弘安の刀には黒田家・高須松平家・久松家に伝わったものがあり、本阿弥光忠・光温らの折紙を伴う。貞国の短刀は毛利家に伝わり、吉弘の太刀は備前池田家に伝来して、八代将軍吉宗より池田継政が拝領したと考えられている。
国(政府)がその高い美術的・歴史的価値を認めて認定した刀剣で、重要刀剣に相当する格を持ちます。輸出が制限され、重要美術品は日本国内にとどめられ、国外へ持ち出されると認定を失います。
重要美術品の認定は、世界恐慌下で日本の貴重な文化財が海外へ流出するのを防ぐために制定された、昭和8年(1933年)の「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」に始まります。当時はまだ民間所有品を対象とする重要文化財・国宝の制度が整っておらず、文部大臣の認定によって国宝に準ずるもの(准国宝)として国外への持ち出しを禁じました。制度の終了までに約8,300件が認定され、うち刀剣は約1,000口でした。昭和25年(1950年)の文化財保護法に引き継がれ、価値の高いものは重要文化財へ昇格し、その他は重要美術品の認定を保持しています。以後、新たな認定は行われていません。
お客様都合による返品は作品到着後二日以内にお申し出ください。※お品物に手を加えた物等は対応できません※返品送料はお客様のご負担となります※お品代以外の費用(振込手数料、代引手数料等)は返金できません。※お届け先が海外の場合は返品や返金は出来ません