肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
番号:25569 刀:白鞘入り、拵付き(NBTHK 特別保存刀剣) 銘:肥前国住陸奥守忠吉 弊社では刀剣の出来を最上作、上々作、上作、普通作の四段階に分類しております。 本作は肥前国住陸奥守忠吉の作品の中でも、上々作にランクされる逸品です。 ハバキ:真鍮一重 長さ:71.2 cm (2.35 尺) 反り:1.1 cm (0.36 寸) 目釘穴:3個(内1個埋め) 元幅:3.00 cm 先幅:2.05 cm 重ね:0.66 cm 刀身重量:740 g 時代:江戸時代初期(17世紀後半頃) 体配:身幅、重ね共に標準的で、反り浅く、切先が鋭く結んだ体配。 地鉄:小板目肌よく詰み、精良な肥前地鉄となる。 刃文:小沸出来の直刃で、匂口深く明るく冴える。帽子は丸く返る。 特徴: 肥前国住陸奥守忠吉は近江大掾忠広の嫡子で、忠吉家三代にあたります。万治3年(1660年)に陸奥大掾、翌寛文元年(1661年)に陸奥守を受領しました。貞享3年(1686年)に没しています。作刀期間が短く、また父・忠広の代作も多く手掛けていたため、自身の銘が切られた作品は希少です。その作風は初代忠吉を彷彿とさせ、特に地鉄の美しさは高く評価されています。 拵: 鍔:真鍮地、鴨の図を彫る。 縁頭:赤銅魚子地、鯉の図を高彫り。 小柄:赤銅地、鰻の図を高彫り。小刀付き。 目貫:赤銅地、鯰の図を高彫り。 NBTHK 特別保存刀剣鑑定書 葵美術評価鑑定書:全身押し形 ※価格に送料は含まれません。 価格:2,750,000円 注文フォーム 関連作品: 刀:肥前国住近江大掾藤原忠広(NBTHK 特別保存刀剣) 刀:肥前国河内守藤原正広(二代)(NBTHK 特別保存刀剣) 刀:肥前国住近江大掾藤原忠広(裁断銘あり)(NBTHK 特別保存刀剣) 刀:肥前国





Hizen (Saga) · 肥前 · 1660-1686頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位8%
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陸奥守忠吉は肥前本家の三代で、二代近江大掾忠広の嫡子である。寛永十四年に生まれ、通称を新三郎といい、万治三年に陸奥大掾を受領、翌寛文元年に陸奥守に転じ、貞享三年、父に先立つこと七年、五十歳で歿した。忠吉の名は、土佐守忠吉の歿後に土佐守家が本家へ返上したことにより襲名したものである。作品が比較的少ない理由について、説明書は作刀期間の短さと併せて「父の代作に任じていたためであろう」[[c:1]]とする。
その典型は中直刃にある。説明書は「彼が最も得意とした中直刃」[[c:2]]と評し、匂深く小沸がよくつき、小足が入り、細かに金筋・砂流しがかかって匂口が明るく冴える。姿は長寸で身幅広く重ね厚く、反り深く中鋒延びて手持ち重い。説明書はこれを父ならぬ祖父の手と読み、「父よりもむしろ祖父の初代忠吉を想わせる」[[c:3]]と繰り返す。帽子は小丸で棟に寄って深く返り堅く止まり、説明書は「帽子の小丸は初二代よりも深い」[[c:4]]点を見どころとする。
声価の拠るところは地鉄である。小板目肌がよくつみ地沸が微塵に厚くついて肥前の米糠肌となり、地景が細かに入って強いかねを呈する。説明書はその鍛えを「上三代の中で最も強く精美」[[c:5]]とし、「鍛えの良さは彼の真骨頂」[[c:6]]と記す。特別重要刀剣の一口については、直刃の「刃の細かな働きが初代をしのぐ程」[[c:7]]とまで評している。
作域は説明書自体が描く幾つかの面に分かれる。初期作は茎先の形で知られ、「茎先が入山形である点と、その銘振りから、同工の初期作と鑑せられる」[[c:8]]もので、すでに強い地鉄と深い帽子の返りを備える。直刃の傍らには丁子乱れの作域がある。丁子を主調に互の目・角がかった刃・尖りごころの刃などを交えて総体に小模様、乱れに多少の高低があり、「焼頭に小さな飛焼がかかるものがよく見られる」[[c:9]]。脇指には父忠広譲りの足長丁子を焼くものがあり、ある太刀の丁子は「父近江の丁子乱に見紛うもの」[[c:10]]と評される。年紀作は少なく、説明書は「同工の作には年紀のあるものが極めて稀であり」[[c:11]]とし、寛文二年紀と延宝四年紀の刀を陸奥守銘を知る資料とする。
その記録の一部は父の名を負う。「肥前国住近江大掾藤原忠広」[[c:18]]銘の五口が説明書により三代の作と鑑せられ、いずれも「本刀は三代忠吉の代作と察知されるものである」[[c:12]]と結ばれる。根拠は彼自身の手くせで、父の行儀よい足長丁子より小模様で変化のある丁子、常々の二代より微塵に厚い地沸と目立つ地景、深い帽子の返り、浅い勝手上がりの鑢目、銘字の鏨である。説明書はこれらを「三代が父二代忠広の代作を行った作域を知る上」[[c:13]]で貴重な資料とする。また二代正広との合作刀があり、説明書は「三代忠吉と正広の合作は本作以外には見ない」[[c:14]]とし、焼入れは恐らく三代であろうとする。
さらに二つの鑑定が彼の記録を形づくる。「肥前国忠吉」五字銘のみの稀な刀は、銘の鏨使い・目釘孔の位置・作風により初代ではなく三代に帰せられ、説明書は「同工の五字忠銘は極めて珍しく」[[c:15]]とする。また本家は刀の場合に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とするため、「刀銘の場合は特に真偽について注意すべきである」[[c:16]]と戒めている。
藤代は上々作に位置づける。国宝・重要文化財はなく、特別重要刀剣九口、重要刀剣およそ五十口、さらに御物二口がその声価を支える。特別重要刀剣の刀数口は三代最高の出来映えと評され、うち一口は「藩政時代は鍋島家に伝来した」[[c:17]]。陸奥守の在銘作は相応の数が残り、重要刀剣の作は時折市場に現れるが、最上の米糠肌に直刃を焼いた刀は稀にしか世に出ず、出れば一つの事件となる。
忠吉の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新刀 · 肥前
現在132点販売中
肥前派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。 詳しく見る →
肥前 藩営の刀
肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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