陸奥守忠吉は肥前本家の三代で、二代近江大掾忠広の嫡子である。寛永十四年に生まれ、通称を新三郎といい、万治三年に陸奥大掾を受領、翌寛文元年に陸奥守に転じ、貞享三年、父に先立つこと七年、五十歳で歿した。忠吉の名は、土佐守忠吉の歿後に土佐守家が本家へ返上したことにより襲名したものである。作品が比較的少ない理由について、説明書は作刀期間の短さと併せて「父の代作に任じていたためであろう」とする。
その典型は中直刃にある。説明書は「彼が最も得意とした中直刃」と評し、匂深く小沸がよくつき、小足が入り、細かに金筋・砂流しがかかって匂口が明るく冴える。姿は長寸で身幅広く重ね厚く、反り深く中鋒延びて手持ち重い。説明書はこれを父ならぬ祖父の手と読み、「父よりもむしろ祖父の初代忠吉を想わせる」と繰り返す。帽子は小丸で棟に寄って深く返り堅く止まり、説明書は「帽子の小丸は初二代よりも深い」点を見どころとする。
声価の拠るところは地鉄である。小板目肌がよくつみ地沸が微塵に厚くついて肥前の米糠肌となり、地景が細かに入って強いかねを呈する。説明書はその鍛えを「上三代の中で最も強く精美」とし、「鍛えの良さは彼の真骨頂」と記す。特別重要刀剣の一口については、直刃の「刃の細かな働きが初代をしのぐ程」とまで評している。
作域は説明書自体が描く幾つかの面に分かれる。初期作は茎先の形で知られ、「茎先が入山形である点と、その銘振りから、同工の初期作と鑑せられる」もので、すでに強い地鉄と深い帽子の返りを備える。直刃の傍らには丁子乱れの作域がある。丁子を主調に互の目・角がかった刃・尖りごころの刃などを交えて総体に小模様、乱れに多少の高低があり、「焼頭に小さな飛焼がかかるものがよく見られる」。脇指には父忠広譲りの足長丁子を焼くものがあり、ある太刀の丁子は「父近江の丁子乱に見紛うもの」と評される。年紀作は少なく、説明書は「同工の作には年紀のあるものが極めて稀であり」とし、寛文二年紀と延宝四年紀の刀を陸奥守銘を知る資料とする。
その記録の一部は父の名を負う。「肥前国住近江大掾藤原忠広」銘の五口が説明書により三代の作と鑑せられ、いずれも「本刀は三代忠吉の代作と察知されるものである」と結ばれる。根拠は彼自身の手くせで、父の行儀よい足長丁子より小模様で変化のある丁子、常々の二代より微塵に厚い地沸と目立つ地景、深い帽子の返り、浅い勝手上がりの鑢目、銘字の鏨である。説明書はこれらを「三代が父二代忠広の代作を行った作域を知る上」で貴重な資料とする。また二代正広との合作刀があり、説明書は「三代忠吉と正広の合作は本作以外には見ない」とし、焼入れは恐らく三代であろうとする。
さらに二つの鑑定が彼の記録を形づくる。「肥前国忠吉」五字銘のみの稀な刀は、銘の鏨使い・目釘孔の位置・作風により初代ではなく三代に帰せられ、説明書は「同工の五字忠銘は極めて珍しく」とする。また本家は刀の場合に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とするため、「刀銘の場合は特に真偽について注意すべきである」と戒めている。
藤代は上々作に位置づける。国宝・重要文化財はなく、特別重要刀剣九口、重要刀剣およそ五十口、さらに御物二口がその声価を支える。特別重要刀剣の刀数口は三代最高の出来映えと評され、うち一口は「藩政時代は鍋島家に伝来した」。陸奥守の在銘作は相応の数が残り、重要刀剣の作は時折市場に現れるが、最上の米糠肌に直刃を焼いた刀は稀にしか世に出ず、出れば一つの事件となる。