
肥前国住藤原忠廣
¥12,000,000
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Kanei (1624-1644)
仕様
71.8 cm
1.2 cm
作者について
Hizen Tadahiro忠廣
この名のもとに立つのは肥前本家の二代、近江大掾藤原忠広であり、佐賀の一門が生んだ最も多作の名工である。説明書はその生涯を平明に記す。初代忠吉の嫡子で、寛永九年(一六三二)に父が歿した時は十九歳の青年であったが、同年から作刀が見られ、初代忠広当時の弟子達の協力に助けられた。寛永十八年(一六四一)に近江大掾を受領し、元禄六年(一六九三)に八十一歳で歿するまで、六十有余年に及ぶ作刀生活を送った。その間について説明書は、肥前の工のうち「肥前刀工中でも最も多くの作品を遺している」と記す。本コードには初代自身の最晩年も並び立つ。元和十年(一六二四)、五十三歳で初代忠吉が武蔵大掾を受領して名を忠広と改めたため、武蔵大掾藤原忠広と銘した晩年作は、第二の名における初代その人である。 二代の手は二様に読まれ、説明書はいずれも上手とする。ある特別重要刀剣の刀には「直刃と丁子乱れの両様があり、いずれも上手である」と記される。最も得意としたのは中直刃である。緻密に鍛えて肥前の米糠肌となった小板目に、地沸が微塵に厚く敷かれ地景の細かに入る地を置き、その上に浅くのたれごころを帯び処々に小互の目・尖りごころを交えた中直刃を焼く。足・葉よく入り、匂口は深く部分的に帯状となり、小沸厚くつき、細かな金筋・砂流しが刃縁の打のけ風とともに自然に織りなされる。総じて匂口は明るく冴え、帽子は直ぐに小丸を結ぶ。 地鉄は終始変わらぬところである。一門の米糠肌、すなわち緩みなく緻密に鍛えた小板目で、説明書はある作を一切の緩みなしと評し、地沸が微塵に厚く敷かれて潤いを帯び、かね明るい。その静かな地に対して刃は落ち着き、高ぶる時はもう一様、華やかな肥前丁子乱れとなる。互の目を交えた丁子に足・葉長く入り、匂深く小沸つき、金筋・砂流しがかかる。ある重要刀剣の太刀について説明書は、この丁子こそ父にはなかったものとし、「丁子乱は父忠吉にはない整った乱刃を焼いている」と記す。帽子は両様ともに同じ直ぐの小丸である。 二つの作域と二つの世代が作品群に形を与える。二代の直刃がその本体で、丁子はその華やかな例外であり、説明書はその丁子を父の乱れ刃に通うものとしつつ、彼がこれを我が物としたさまを述べる。年紀の入る作はその像を鋭くする。ある特別重要刀剣の刀は、寛永十八年に近江大掾を受領したまさにその日を年紀とし、受領記念作と推測されて受領銘の最初期作の一つに数えられ、その出来は「来物を写したと思われる古調な出来口」と読まれる。初代晩年の武蔵大掾の作域は第三の面をなす。沸深い丁子乱れを梨子地ごころの小板目に焼き、数口は京の師家たる埋忠明寿・埋忠七左の彫、梵字に倶利迦羅や不動明王を帯び、説明書はその彫を「錦上花を添えている」と評する。 肥前一門におけるその位置は明確である。京の埋忠の修業を佐賀に持ち帰った祖たる父と、本家へ忠吉銘を返上されて襲名し上三代中最も強く鍛える手と称される嫡子の三代との間にあって、彼は多作の中心に立つ。その明るい米糠肌の匂深い直刃は後の肥前刀を読む基準をなす。父とは、共有する直刃によってではなく父の試みなかった整った丁子によって分かたれ、肥前の下手とは、地鉄の冴えと匂口の明るさによって分けられる。常の落ち着きを越える時はそれと名指される。ある特別重要刀剣の刀について説明書は「常々の同作に比して、地刃共に力強く、放胆で迫力のある一口である」と記す。 収集の観点では、新刀の大名跡のうち比較的入手しやすい一人で、これは長く多産な生涯の自然な帰結である。藤代の極めは上々作。国宝はなく重要文化財もない。その記録は特別重要刀剣・重要刀剣の一六四口を通じ、うち三口が特別重要刀剣、初代の武蔵大掾の作には重要美術品がある。来歴は彼の仕えた家に及ぶ。鍋島家、鍋島勝茂・鍋島直朝、そして皇室に伝わる一口があり、説明書は鍋島家が同家へ納める刀に受領銘を切らせたと記す。多作ゆえに在銘の近江大掾忠広はその格の名工としては比較的見出しやすく、その直刃の刀は時に上位の各位に現れる。とはいえ指定を受けた作の多くは伝えられて市場には出ず、特別重要刀剣の一口や初代の埋忠彫の作に出会うことは稀で、一門が最も多く打った頃を語る証である。







