保弘の太刀の一口は徳治二年(一三〇七)十月の年紀を帯び、「備前国長船住右近将監保弘造」と長銘に切って、彼を鎌倉後期の長船に定める。説明は彼を景光とほぼ同時代に長船に住したとし、正安・徳治の年紀作の現存することを述べ、右近将監・左兵衛尉を名乗ったと記す。現存作は数少ない。説明が各作で立ち返る点は、長船に在住しながらもその銘振りが長光・景光・近景ら正系とは相違することにあり、これを時代ではなく系統の相違として読む。ある重要刀剣の説明はこれを明記して、「銘振りが景光及び近景とも相違しており、正系との系例の違いが窺われる」とする。彼はかくして長船の大家たちの同時代人でありながら、これらから少しく離れて立ち、その作は正系の出来に照らしてその位を量られる。
保弘をこれらの名から分かつ要は刃文そのものにある。同世代の正系の長船が華やかな丁子・互の目の乱れを焼くのに対し、保弘は現存作の悉くを直刃を基調に焼く。代表的な長寸の太刀は物打上を直刃に小足入り、下は直刃調に小互の目・小丁子を交え、小足・葉入り、小沸つく。同じ静かな手が一口ごとに繰り返され、乱れは常に直の線の上に働いて線を崩さない。ゆえに小互の目・小丁子・互の目は、乱れそのものではなく直刃の中の働きとして読まれる。丁子主流の本流に対し、この直刃基調は、正系外の銘振りと併せて、収集家がまず読む見どころである。
板目肌に地沸つく地鉄の上に、彼は一門を定める備前の映りを立てる。代表作では乱れ映りが鮮明に立ち、磨上げの刀では淡く現れ、指表の物打辺は段映り状となる――鎌倉後期の長船の鉄の変化に富む反映である。帽子は終始直ぐに、浅く小丸に返る。鍛えそのものは彼の作を二様の手に分かつ。最も整った作では地鉄はよく錬れた小板目に締まり地景入り、匂口締まって冴え、説明はこの作域を同時代の長船正系に近接した地刃とし、肉置きよく健全とする。より個性的な作では板目に杢目を交えて肌立ち、総体に流れて柾がかり、処々刃肌立ち、金筋・砂流しが刃中に働く。かかる太刀の一口を、説明は同時代の長船正系に比して「地刃に幾ぶん野趣ある出来を現わしており、保弘の一作風を示すものとして注目される」とする。
されば少数の遺例は、時代によるよりこの二極の軸によって読むがよい。一方の極に精緻な手が立つ。締まった小板目と冴えた直刃の、説明が正系の作の傍らに置いて劣るとせぬ域であり、代表的な太刀はここに属し、造り込み・地刃共に健全と判ぜられ、「長船正系のもとに比しても劣らぬ出来ばえを示したもので、保弘の代表的優品と言える」とされる。他方の極に野趣ある手が立つ。柾がかって肌立つ板目に金筋・砂流しのかかる、説明が同工の一作風と名指す手である。両者に直交して銘が立ち、極めと系統を一挙に定める。corpusは、徳治二年の太刀のごとき官途名と年紀を備えた長銘と、保弘の二字銘とに分かれ、うち二口は磨上げられて生ぶ銘を折り返した折返銘を帯び、その一口は下の一字が不鮮明である。
その識別は、本流との対比よりも自身の確かな見どころによって最も確かに引かれる。小互の目・小丁子を交えた直刃基調、板目地に立って段映りに移る乱れ映り、小丸の帽子、そして個性的な作における柾がかりの肌立つ鍛えに金筋・砂流し――これらが丁子主調の長船本流から彼を分かつ徴である。説明は彼の位置に率直である。徳治二年の太刀について本間は、彼の技量が景光・近景に劣ると認めつつ、「技量は上記二工に劣るが、珍らしい点で採用した」とし、「徳治二年紀も資料的に貴重である」と加える。彼からの後継の系は引かれない。遺例は少なく系統も周縁的で、彼を通じて一派を後へ延ばすことはできず、彼は正系の傍らという位置にその価値を持つ独立した鎌倉後期の長船の工として読まれる。
保弘の記録される作の悉くは、私の収集家が現に遭遇し得る指定の域に列する。重要刀剣の三口と戦前の重要美術品の二口であって、国宝も重要文化財も含まれず、その名の鑑賞は美術のみならず資料の上にも立つ。伝来は薄いが確かである。代表的な太刀には享保年間の本阿弥光忠の代千貫の折紙が添えられ、戦前の重要美術品の認定は所有者として大阪の田中太介、東京の本阿弥澄雄を記す。彼の作の公の記録に所蔵の機関の名はなく、これは著名な収集を通じてよりも一握りの指定の遺作を通じて知られる刀工に相応しい。かかる収集家が遭遇し得るは、その小さな指定の作――かくも稀で年紀の明らかな手の資料として何より貴ばれる在銘の長寸の太刀、そして折返銘を帯びた磨上げの刀――に限られる。この種の作は商われるより遥かに多く秘蔵され、年紀を備え正系を外れた在銘の保弘は、鎌倉後期の長船の手の中でも市場に現れること比較的少なく、現れれば資料としての一里塚たり得る。