片落ち互の目という一様式を完成させた景光をひとつの到達点として、古長船は鎌倉時代中後期(おおむね一二三八年から一三三五年)の長船派草創の核を成す。光忠を初代とし、その子長光、そして真長を加えた三作の世代がまず作風の幅を定め、続いて長光の子で嫡流三代目の景光がこれを受け継いだ。景光の年紀は嘉元から建武までの三十余年に及び、説示にも元応・元亨・正中・元徳・元弘・建武といった在銘紀年作が並ぶ。武家社会の中枢で太刀が需められた鎌倉末期にあって、この草創世代は長船の鍛法と銘の様式を確立し、のちの南北朝期相伝備前や室町応永備前が分岐していく母体を準備した。逆鏨を多用する近景の代銘が景光在銘作に交じる事実も、すでに一門が複数の手で量産しうる工房へ育っていたことを示している。
作風は地鉄に古長船の眼目がある。板目に杢を交えて総じてよく錬れて緩みなく詰み、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入る。映りは乱れ映りまたは棒映りが鮮明に立ち、景光の太刀では暗帯部が逆がかって青江の段映りに通じる筋映りを表裏下半に現すものまで見える。刃文は華やかな丁子乱れを基調とした世代の作と、直刃調に小互の目・小丁子・角ばる刃を交えて逆がかり、片落ち互の目を主調とする景光の穏やかな出来とが併存し、足・逆足・葉がよく入り、匂勝ちに小沸がつき、匂口は明るく冴える。帽子は乱れ込んで先尖りごころに返る三作帽子を見せる。古備前が地斑映りと厚い沸を残す素朴な源流であったのに対し、古長船は映りを意識的に立て、鍛えを精緻に詰めた点で一線を画する。さらに後続の南北朝期相伝備前が相州伝の強い沸や飛焼を取り込んで大模様に乱れ込むのに対し、また応永備前が腰開きの互の目と尖り帽子へ向かうのに対し、古長船は匂本位の締まった作域にとどまり、映りの鮮明さと地鉄の精良さで識別される。
収集家が古長船をひとつの章として区別するのは、後続の相伝備前や応永備前とは別の鑑定上の指標が立つからである。要点は三つある。第一に、暗帯部の逆がかる地斑映りや筋映りといった、後代には薄れる映りの強さ。第二に、片落ち互の目と直刃調に小乱れを交えた匂勝ちの穏やかな焼刃で、これは長光の華やかさと相州色の濃い南北朝期の双方から本区分を分かつ。第三に、景光に多く現存する短刀の存在で、細直刃から片落ち互の目まで小振りの姿に一門の特質が凝縮される。説示には元応元年紀の生ぶ茎太刀、正中・元徳・元弘・建武紀の短刀、筑前黒田家伝来の一口など、紀年と伝来の確かな作例が並び、古長船を年代の定点として捉える基盤を与えている。