戦国の世、一派は第二の主家に仕えた。小田原の後北条氏である。その庇護のもと綱広系は打刀の時代の皆焼を鍛え続け、1590年の落城とともに新刀の時代へ散った。





Sengo (Ise, Kuwana) · 伊勢 · 1501-1521頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位14%
現在2点販売中
村正は勢州桑名の千子派の祖にして、その名を負う作風を定めた工であり、説明はその年代を一点に確とおさえる。同銘一派を通じて現存する上限の年紀は文亀元年(一五〇一)で、第四十回重要刀剣の長銘「勢州桑名住右衛門尉藤原村正作」[[c:12]]を冠する文亀元年紀の刀がこれを伝える。居住地・俗名右衛門尉・刀工銘を完備する銘文ゆえ、説明は「同工研究上の資料価値も高い」[[c:1]]と記す。この定点から、通説は文亀を初代、天文を二代、天正を三代とする。この年紀の記録を前に、NBTHKは名高い俗説を退ける。村正は「俗に正宗の弟子と伝えられたが不当」[[c:2]]であり、「室町末期近くにはじまる刀工」[[c:3]]だという。作風は美濃・島田・末相州と共通し、なかでも「平安城長吉とは特に似る」[[c:4]]とされ、長吉とは師弟関係にあるという説をも生んでいる。
説明が繰り返し同工自身のものとして挙げる特色は、刃文の表裏が揃う点である。「彼の作風の特色は表裏の刃文が揃い、乱の谷が刃先にせまることである」[[c:5]]と一書は記す。表裏が鏡のように揃うことが村正の見どころで、説明は作ごとにこれに立ち返る。ある脇指は「表裏の刃取りがきちんと揃っている点に村正の特色を明示」[[c:13]]するがゆえに「典型」と呼ばれ、妙法蓮華経の刀では表裏を揃えて「同工の特色が顕著である」[[c:14]]とされる。身幅広く、寸つまり反り深く先反りつく刀、または平造寸延びの脇指の上に、のたれ調の互の目・大互の目を焼き、足入り、匂深く小沸厚くつき、金筋・砂流しがかかる。乱れには箱がかった刃を交え、乱れの谷が刃先にせまる。帽子は直ぐに小丸、または乱れ込んで掃きかけ、覇気ある作では返りを長く棟焼に続ける。
鍛えは板目つみてやや肌立ち、流れ肌を交えて地沸つく。説明はこれを「板目の肌立ちごころとなった鍛えは千子系に多く」[[c:15]]と記し、時に柾がかり、鉄色心持ち黒みがかって白けごころを帯びるという。優品では地鉄よく練れ、匂口明るく、「地沸の厚くつき地景を頻りに交えた鍛え」[[c:16]]となる。一方、常々の作は「匂口は締りごころで沈み、叢沸のつくのが一般である」[[c:17]]と平らかに評され、それに比して「沸や砂流しが目立ち、地刃共に冴えている」[[c:18]]一口は特筆される。彼は皆焼の工ではない。最も派手な棟焼の目立つ脇指でさえ「一種の皆焼状を呈した」[[c:19]]と記されるにとどまり、南北朝相州の飛焼を散らした総体の皆焼ではない。棟焼と箱がかった乱れは彼のものだが、総体の焼は彼のものでなく、この欠如自体が、俗説の引く広光・秋広の作風から彼を分かつ見どころとなる。
開祖の手は二様の銘と一群の信仰の作に分かれる。「勢州桑名住右衛門尉藤原村正作」[[c:12]]の長銘は文亀紀の作を冠して初代と目され、二字「村正」は無年紀で、代別は銘振りと出来から鑑せられる。文亀元年紀の刀はのたれに互の目を交えた匂勝ちの出来で、二重刃ごころを見せ、説明は「二代とされる村正とはやや趣を異にする」[[c:20]]と記す。これと別に、日蓮宗への帰依を示す一群がある。永正十年紀の重要美術品の刀は、腰に箱乱を焼き上部を直刃として表裏を揃え、刃に妙法蓮華経の題目を切る。別の脇指は梵字に蓮華・剣・八幡大菩薩の陰刻を重ね彫りにし、文亀元年の刀は表に梵字・蓮台、裏に爪附剣を彫る。これら降った年紀の作の代別は未だ定まらず、説明はしばしば「代別については未だ確固たるものはない」[[c:21]]と記して、永正・天文の充当を慎重に扱う。
近隣の諸工のなかでの位置を、説明は借りものの比較ではなく同工自身の特色によって描く。作風は美濃・島田・末相州と共通し、平安城長吉に最も近く、表裏の揃う刃文と刃先にせまる乱れの谷が、一派を貫いてこれを際立たせる糸である。最も大胆な作は更に高みに達する。第十六回特別重要刀剣の刀は、焼幅至って広く、のたれに大互の目を交え、匂極めて深く小沸厚くつき、帽子は焼き深く一枚風となり、その規範を判者は古作の江に見る。「蓋し古作の江に倣ったものかと想われる」[[c:6]]という。初代の傑作で、「本作に限って言えば、二代村正をも上回る感があり」[[c:22]]、此の工の技術の高さを知らしめる貴重な作例だとされる。同銘は天文頃の二代、技量最も優れ作刀も多い、天正頃の三代へと続き、門に正重・正真を出した。その終焉は芸ではなく政によった。近世に至って徳川家の忌避にふれ、「その名跡は絶えている」[[c:8]]と説明は記す。
村正は藤代の極めで最上作、刀工大鑑八〇〇点を得た、室町時代後期の伊勢国を代表する刀工である。日蓮宗への帰依は鉄の上に直に読める。「南無妙法蓮華経と題目を切りつけたもの」[[c:9]]があることから同宗の信者と見られ、説明はこれを地に結びつけ「当時伊勢地方に於ても、同宗の信仰が少くない」[[c:10]]と記す。記録に遺るは特別重要刀剣・重要刀剣の級に十四口、すなわち特別重要一口・重要十三口で、これに妙法蓮華経の重要美術品の刀が加わる。その刀は茎の棟に銀象嵌「鍋信」とあり、鍋島信濃守勝茂の所持と伝え、認定時には鍋島家にあった。初代の脇指に一口、「織田信長の指料と伝え」[[c:11]]、織田木瓜紋蒔絵の合口を附したものが遺る。初代の作に最上級の文化財指定はなく、ゆえに私蔵から永く封ぜられたものはない。遺るところはほぼ特別重要・重要の級にあって、取引されるより手元に留められることが多い。年紀確かで表裏の揃う初代村正が世に現れるのは、それが現れるとき一箇の画期であり、それは時折にすぎぬ。後の世がその名を消そうとした工の作であればこそ。
村正の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
相州伝 · 伊勢
現在6点販売中
村正派は伊勢国桑名を本拠とし、室町時代後期から戦国の世にかけて栄えた一門である。現存する上限の年紀は文亀元年(一五〇一)で、「勢州桑名住右衛門尉藤原村正作」[[c:1]]と居住地・俗名・刀工銘を完備した長銘がこれを伝え、この定点から通説は文亀を初代、天文を二代、天正を三代とする。一門の祖たる初代村正がその名を負う作風を定め、技量最も優れ作刀も多く現存する天文頃の二代がこれを大成し、門には正重・正眞を出した。世に正宗の弟子と伝える俗説は早くより行われたが、年紀の記録を前に当を得ぬものとして退けられ、本派はあくまで室町末期近くにはじまる刀工と位置づけられる。その作風は美濃・島田・末相州と共通するところを持ち、なかでも京の平安城長吉と特に近く、長吉とは何らかの関係があったとも、師弟関係にあったとも説かれる。日蓮宗への帰依は鉄の上に直に読め、刃に妙法蓮華経の題目を切り、梵字・蓮台・八幡大菩薩を彫る作があることから、当時伊勢地方に同宗の信仰の少なくなかったことがうかがわれる。 本派を貫く第一の特色は、刃文の表裏が目立って揃うことである。互の目・のたれを基調に箱がかった刃を交え、乱れの谷が刃先にせまり、その乱れが表裏で鏡のように対応する。匂口は締りごころに小沸が叢につき、時に沈みごころとなって砂流しがしきりにかかる。帽子は直ぐに小丸、または乱れ込んで掃きかけ、覇気ある作では返りを深く棟焼に続ける。これを載せる姿は、平造・三ツ棟で身幅広く寸延びた短刀・小脇指、および寸の詰った先反りの強い打刀で、フクラの枯れる室町後期の典型を示す。鍛えは板目に流れ肌・柾ごころを交えてやや肌立ち、地沸つき、鉄色心持ち黒みがかって白けごころを帯びるものが多い。茎は生ぶで下半が著しく細るたなご腹となり、太鏨大振りの二字銘を切るのを常とする。一門のうちにも度合の差があり、初代村正の手が二様の銘と信仰の作に分かれるのに対し、二代はたなご腹と流暢な銘字が殊に著しい。正重は同じ千子の手をより肌立たせ、より強く沸づかせて放胆に開き、正眞はこれを引き締めて地肌が少しつむ傾向にあり、上半を穏やかな直刃に納める。皆焼はいずれの工にあっても時折の作域に止まり、本領はあくまで表裏の揃う乱れ刃にある。 鑑定の勘所は、まずこの表裏の揃いと、刃先にせまる乱れの谷、締りごころの匂口と叢沸、そしてたなご腹の茎と太鏨の銘字にある。一見すると末関の兼定・兼芝に紛れ、島田物に似、平安城長吉とは酷似するため、これらと分けるにはこの見どころに立ち返らねばならない。一門内では茎が決め手となり、村正の茎棟が角に切られるのに対し、正重はいかにも丸く肉がつくとされる。切れ味の評は古来高く、後の世にその作が忌まれた一因ともなった。すなわち徳川家に祟る、持主に祟るとの妖刀伝説が行われ、その忌避にふれて銘を消されたものが多く、現存有銘の刀は比較的に稀である。名跡の行方についても、忌避にふれて絶えたとする説と、同銘相継いで新刀に及んだとする説が併存する。伝来には大名家のものが残り、妙法蓮華経の刀は茎棟に銀象嵌「鍋信」とあって鍋島信濃守勝茂の所持と伝え、初代の脇指の一口は織田信長の指料と伝えて織田木瓜紋の合口を附し、正眞の一刀は将軍より拝領して水野家に下る。この水野家の刀は伊勢を憚って「山城国正真」と国名を改めて切られ、その隠された出自そのものが妖刀の評の重さを物語る。後の世がその名を消そうとした工の作であればこそ、年紀確かで表裏の揃う村正一門の作が世に現れることは、一箇の画期として今に求められている。 詳しく見る →
室町時代の相州
戦国の世、一派は第二の主家に仕えた。小田原の後北条氏である。その庇護のもと綱広系は打刀の時代の皆焼を鍛え続け、1590年の落城とともに新刀の時代へ散った。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトIf the item fails to meet the description, it may be eligible for a return (at the seller's discretion). Item(s) must be shipped back only via FedEx or UPS within 48 hours of receipt, in original undamaged state. Costs are the purchaser's responsibility.





Sengo (Ise, Kuwana) · 伊勢 · 1501-1521頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位14%
現在2点販売中
村正は勢州桑名の千子派の祖にして、その名を負う作風を定めた工であり、説明はその年代を一点に確とおさえる。同銘一派を通じて現存する上限の年紀は文亀元年(一五〇一)で、第四十回重要刀剣の長銘「勢州桑名住右衛門尉藤原村正作」[[c:12]]を冠する文亀元年紀の刀がこれを伝える。居住地・俗名右衛門尉・刀工銘を完備する銘文ゆえ、説明は「同工研究上の資料価値も高い」[[c:1]]と記す。この定点から、通説は文亀を初代、天文を二代、天正を三代とする。この年紀の記録を前に、NBTHKは名高い俗説を退ける。村正は「俗に正宗の弟子と伝えられたが不当」[[c:2]]であり、「室町末期近くにはじまる刀工」[[c:3]]だという。作風は美濃・島田・末相州と共通し、なかでも「平安城長吉とは特に似る」[[c:4]]とされ、長吉とは師弟関係にあるという説をも生んでいる。
説明が繰り返し同工自身のものとして挙げる特色は、刃文の表裏が揃う点である。「彼の作風の特色は表裏の刃文が揃い、乱の谷が刃先にせまることである」[[c:5]]と一書は記す。表裏が鏡のように揃うことが村正の見どころで、説明は作ごとにこれに立ち返る。ある脇指は「表裏の刃取りがきちんと揃っている点に村正の特色を明示」[[c:13]]するがゆえに「典型」と呼ばれ、妙法蓮華経の刀では表裏を揃えて「同工の特色が顕著である」[[c:14]]とされる。身幅広く、寸つまり反り深く先反りつく刀、または平造寸延びの脇指の上に、のたれ調の互の目・大互の目を焼き、足入り、匂深く小沸厚くつき、金筋・砂流しがかかる。乱れには箱がかった刃を交え、乱れの谷が刃先にせまる。帽子は直ぐに小丸、または乱れ込んで掃きかけ、覇気ある作では返りを長く棟焼に続ける。
鍛えは板目つみてやや肌立ち、流れ肌を交えて地沸つく。説明はこれを「板目の肌立ちごころとなった鍛えは千子系に多く」[[c:15]]と記し、時に柾がかり、鉄色心持ち黒みがかって白けごころを帯びるという。優品では地鉄よく練れ、匂口明るく、「地沸の厚くつき地景を頻りに交えた鍛え」[[c:16]]となる。一方、常々の作は「匂口は締りごころで沈み、叢沸のつくのが一般である」[[c:17]]と平らかに評され、それに比して「沸や砂流しが目立ち、地刃共に冴えている」[[c:18]]一口は特筆される。彼は皆焼の工ではない。最も派手な棟焼の目立つ脇指でさえ「一種の皆焼状を呈した」[[c:19]]と記されるにとどまり、南北朝相州の飛焼を散らした総体の皆焼ではない。棟焼と箱がかった乱れは彼のものだが、総体の焼は彼のものでなく、この欠如自体が、俗説の引く広光・秋広の作風から彼を分かつ見どころとなる。
開祖の手は二様の銘と一群の信仰の作に分かれる。「勢州桑名住右衛門尉藤原村正作」[[c:12]]の長銘は文亀紀の作を冠して初代と目され、二字「村正」は無年紀で、代別は銘振りと出来から鑑せられる。文亀元年紀の刀はのたれに互の目を交えた匂勝ちの出来で、二重刃ごころを見せ、説明は「二代とされる村正とはやや趣を異にする」[[c:20]]と記す。これと別に、日蓮宗への帰依を示す一群がある。永正十年紀の重要美術品の刀は、腰に箱乱を焼き上部を直刃として表裏を揃え、刃に妙法蓮華経の題目を切る。別の脇指は梵字に蓮華・剣・八幡大菩薩の陰刻を重ね彫りにし、文亀元年の刀は表に梵字・蓮台、裏に爪附剣を彫る。これら降った年紀の作の代別は未だ定まらず、説明はしばしば「代別については未だ確固たるものはない」[[c:21]]と記して、永正・天文の充当を慎重に扱う。
近隣の諸工のなかでの位置を、説明は借りものの比較ではなく同工自身の特色によって描く。作風は美濃・島田・末相州と共通し、平安城長吉に最も近く、表裏の揃う刃文と刃先にせまる乱れの谷が、一派を貫いてこれを際立たせる糸である。最も大胆な作は更に高みに達する。第十六回特別重要刀剣の刀は、焼幅至って広く、のたれに大互の目を交え、匂極めて深く小沸厚くつき、帽子は焼き深く一枚風となり、その規範を判者は古作の江に見る。「蓋し古作の江に倣ったものかと想われる」[[c:6]]という。初代の傑作で、「本作に限って言えば、二代村正をも上回る感があり」[[c:22]]、此の工の技術の高さを知らしめる貴重な作例だとされる。同銘は天文頃の二代、技量最も優れ作刀も多い、天正頃の三代へと続き、門に正重・正真を出した。その終焉は芸ではなく政によった。近世に至って徳川家の忌避にふれ、「その名跡は絶えている」[[c:8]]と説明は記す。
村正は藤代の極めで最上作、刀工大鑑八〇〇点を得た、室町時代後期の伊勢国を代表する刀工である。日蓮宗への帰依は鉄の上に直に読める。「南無妙法蓮華経と題目を切りつけたもの」[[c:9]]があることから同宗の信者と見られ、説明はこれを地に結びつけ「当時伊勢地方に於ても、同宗の信仰が少くない」[[c:10]]と記す。記録に遺るは特別重要刀剣・重要刀剣の級に十四口、すなわち特別重要一口・重要十三口で、これに妙法蓮華経の重要美術品の刀が加わる。その刀は茎の棟に銀象嵌「鍋信」とあり、鍋島信濃守勝茂の所持と伝え、認定時には鍋島家にあった。初代の脇指に一口、「織田信長の指料と伝え」[[c:11]]、織田木瓜紋蒔絵の合口を附したものが遺る。初代の作に最上級の文化財指定はなく、ゆえに私蔵から永く封ぜられたものはない。遺るところはほぼ特別重要・重要の級にあって、取引されるより手元に留められることが多い。年紀確かで表裏の揃う初代村正が世に現れるのは、それが現れるとき一箇の画期であり、それは時折にすぎぬ。後の世がその名を消そうとした工の作であればこそ。
村正の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
相州伝 · 伊勢
現在6点販売中
村正派は伊勢国桑名を本拠とし、室町時代後期から戦国の世にかけて栄えた一門である。現存する上限の年紀は文亀元年(一五〇一)で、「勢州桑名住右衛門尉藤原村正作」[[c:1]]と居住地・俗名・刀工銘を完備した長銘がこれを伝え、この定点から通説は文亀を初代、天文を二代、天正を三代とする。一門の祖たる初代村正がその名を負う作風を定め、技量最も優れ作刀も多く現存する天文頃の二代がこれを大成し、門には正重・正眞を出した。世に正宗の弟子と伝える俗説は早くより行われたが、年紀の記録を前に当を得ぬものとして退けられ、本派はあくまで室町末期近くにはじまる刀工と位置づけられる。その作風は美濃・島田・末相州と共通するところを持ち、なかでも京の平安城長吉と特に近く、長吉とは何らかの関係があったとも、師弟関係にあったとも説かれる。日蓮宗への帰依は鉄の上に直に読め、刃に妙法蓮華経の題目を切り、梵字・蓮台・八幡大菩薩を彫る作があることから、当時伊勢地方に同宗の信仰の少なくなかったことがうかがわれる。 本派を貫く第一の特色は、刃文の表裏が目立って揃うことである。互の目・のたれを基調に箱がかった刃を交え、乱れの谷が刃先にせまり、その乱れが表裏で鏡のように対応する。匂口は締りごころに小沸が叢につき、時に沈みごころとなって砂流しがしきりにかかる。帽子は直ぐに小丸、または乱れ込んで掃きかけ、覇気ある作では返りを深く棟焼に続ける。これを載せる姿は、平造・三ツ棟で身幅広く寸延びた短刀・小脇指、および寸の詰った先反りの強い打刀で、フクラの枯れる室町後期の典型を示す。鍛えは板目に流れ肌・柾ごころを交えてやや肌立ち、地沸つき、鉄色心持ち黒みがかって白けごころを帯びるものが多い。茎は生ぶで下半が著しく細るたなご腹となり、太鏨大振りの二字銘を切るのを常とする。一門のうちにも度合の差があり、初代村正の手が二様の銘と信仰の作に分かれるのに対し、二代はたなご腹と流暢な銘字が殊に著しい。正重は同じ千子の手をより肌立たせ、より強く沸づかせて放胆に開き、正眞はこれを引き締めて地肌が少しつむ傾向にあり、上半を穏やかな直刃に納める。皆焼はいずれの工にあっても時折の作域に止まり、本領はあくまで表裏の揃う乱れ刃にある。 鑑定の勘所は、まずこの表裏の揃いと、刃先にせまる乱れの谷、締りごころの匂口と叢沸、そしてたなご腹の茎と太鏨の銘字にある。一見すると末関の兼定・兼芝に紛れ、島田物に似、平安城長吉とは酷似するため、これらと分けるにはこの見どころに立ち返らねばならない。一門内では茎が決め手となり、村正の茎棟が角に切られるのに対し、正重はいかにも丸く肉がつくとされる。切れ味の評は古来高く、後の世にその作が忌まれた一因ともなった。すなわち徳川家に祟る、持主に祟るとの妖刀伝説が行われ、その忌避にふれて銘を消されたものが多く、現存有銘の刀は比較的に稀である。名跡の行方についても、忌避にふれて絶えたとする説と、同銘相継いで新刀に及んだとする説が併存する。伝来には大名家のものが残り、妙法蓮華経の刀は茎棟に銀象嵌「鍋信」とあって鍋島信濃守勝茂の所持と伝え、初代の脇指の一口は織田信長の指料と伝えて織田木瓜紋の合口を附し、正眞の一刀は将軍より拝領して水野家に下る。この水野家の刀は伊勢を憚って「山城国正真」と国名を改めて切られ、その隠された出自そのものが妖刀の評の重さを物語る。後の世がその名を消そうとした工の作であればこそ、年紀確かで表裏の揃う村正一門の作が世に現れることは、一箇の画期として今に求められている。 詳しく見る →
室町時代の相州
戦国の世、一派は第二の主家に仕えた。小田原の後北条氏である。その庇護のもと綱広系は打刀の時代の皆焼を鍛え続け、1590年の落城とともに新刀の時代へ散った。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトIf the item fails to meet the description, it may be eligible for a return (at the seller's discretion). Item(s) must be shipped back only via FedEx or UPS within 48 hours of receipt, in original undamaged state. Costs are the purchaser's responsibility.