徳川の泰平のもと、大小は法度の定める身分の制服となり、需要は城下町、とりわけ江戸に集まった。工芸は二つに分かれる。目利きのための華やかな鑑賞の作と、截断の結果を金象嵌に刻む実証の刀である。
刃渡り(長さ) 69.4センチ 反り 1.1センチ 元鎬厚 7.5ミリ 元重ね6.3ミリ 先鎬厚 6.4ミリ 先重ね5.6ミリ 元幅 29.5ミリ 先幅 21.5ミリ 刀身重量805g ハバキ 銅に金色 目釘穴 2個内1埋め 刃文 湾れ調に三本杉を焼き表裏揃う 焼刃冴え匂口締る 沸出来 淡く映りたつ 匂崩れ、葉、足入り、銀筋、金筋、砂流し働く 帽子 表は地蔵 裏は火焔深く返る 鍛え 板目、杢交え詰み鎬地柾がかる 鐵良く錬られる 寸法、グラムは約でご理解ください。刃渡り・反りなど登録書を映しております。 銘文 村正 村正の評価額 500~800万円 説明 ここに画像が表示されます。(通信環境により数十秒ほどかかる場合もございます。) 1/3 ここに画像が表示されます。(通信環境により数十秒ほどかかる場合もございます。) 2/3 ここに画像が表示されます。(通信環境により数十秒ほどかかる場合もございます。) 3/3 委託販売 村正 村正について 村正は千子村正を始祖とする伊勢国桑名で活躍した刀工での一派で、妖刀村正と名高い。 日本刀名鑑には古刀期に四人(現存する刀剣)、現存しない刀剣含めると八項、新刀期には三項(慶長、寛永、寛文)記載あり。 その鋭い切れ味や表裏揃う刃文は当時から需要があるも、江戸時代になると、家康の祖父清康と父広忠が暗殺された時に村正の刀が用いられたり、 長男の信康が切腹させられた際の介錯に村正が用いられたりした経緯から、村正は徳川家で忌み嫌われたことにより、処分されたり、銘が削り取られたと言われている。 本刀、銘が消され、後銘を入れられた形跡あり、刀身重量感、姿から古刀ではなく、新古境、江戸初期寄りに見受けられます。 勉強不足で固定観念から村正=室町後期というイメージが強く、出品前まで悩んでいたところがあったのですが、資料等を見ていると、新刀期にも村正はいるとのこと 少しづつ夢がでてくるではないですか。 淡く映りがたち匂口締り、刃冴える 刀剣学では新古境ははっきり作風がわかれず混在すると言われております。 銘を隠し刀身を観れば良く切れそうな良い刀、銘を見れば云われ通りの怪しい妖刀 表裏揃う刃文 関の特徴がでており、折れず曲らず良く切れる実用的な機能美が見え隠れする御刀でございます。 一概に悪意のある偽銘とは言えない、後銘村正なのであります。 新刀期の村正が作刀し、後に後銘が入れられた刀なのかもしれないのです。 残念ながら現状の規定ではこういう後銘は保存、正真鑑定が付かないのですが、経験上、無銘ならば刀身状態良いため保存以上で合格します。 本刀、刀剣鑑賞、拵に入れれば居合、物斬り全てに対応できる一振りと存じ上げますが、約400年程前の刀剣と見受けられ、物斬りは勿体ないのでおすすめしません。 白鞘入り 無鑑現状販売 日本刀は日本の有形文化財でございます。 私たちが後世に残すべき大切な文化財です。 後世にかけて大切にしてくださる方のみご所有ください。 次の主が見つかるまでの間、一時的に弊社にてお預かりし、お世話をさせていただいております。 刀剣のお買取り、下取販売、仲介 も承っております。 刀が貴方をお待ちしております。 商品の状態 *刃切れ・刃絡み・刃こぼれ・曲がり・撓え・膨れ・匂い切れ・駆け出しなどございません。 *時代による、汚れ、細かな擦れ傷,劣化等はご了承ください。写真を参考にしてください。




相州伝 · 伊勢
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村正派は伊勢国桑名を本拠とし、室町時代後期から戦国の世にかけて栄えた一門である。現存する上限の年紀は文亀元年(一五〇一)で、「勢州桑名住右衛門尉藤原村正作」[[c:1]]と居住地・俗名・刀工銘を完備した長銘がこれを伝え、この定点から通説は文亀を初代、天文を二代、天正を三代とする。一門の祖たる初代村正がその名を負う作風を定め、技量最も優れ作刀も多く現存する天文頃の二代がこれを大成し、門には正重・正眞を出した。世に正宗の弟子と伝える俗説は早くより行われたが、年紀の記録を前に当を得ぬものとして退けられ、本派はあくまで室町末期近くにはじまる刀工と位置づけられる。その作風は美濃・島田・末相州と共通するところを持ち、なかでも京の平安城長吉と特に近く、長吉とは何らかの関係があったとも、師弟関係にあったとも説かれる。日蓮宗への帰依は鉄の上に直に読め、刃に妙法蓮華経の題目を切り、梵字・蓮台・八幡大菩薩を彫る作があることから、当時伊勢地方に同宗の信仰の少なくなかったことがうかがわれる。 本派を貫く第一の特色は、刃文の表裏が目立って揃うことである。互の目・のたれを基調に箱がかった刃を交え、乱れの谷が刃先にせまり、その乱れが表裏で鏡のように対応する。匂口は締りごころに小沸が叢につき、時に沈みごころとなって砂流しがしきりにかかる。帽子は直ぐに小丸、または乱れ込んで掃きかけ、覇気ある作では返りを深く棟焼に続ける。これを載せる姿は、平造・三ツ棟で身幅広く寸延びた短刀・小脇指、および寸の詰った先反りの強い打刀で、フクラの枯れる室町後期の典型を示す。鍛えは板目に流れ肌・柾ごころを交えてやや肌立ち、地沸つき、鉄色心持ち黒みがかって白けごころを帯びるものが多い。茎は生ぶで下半が著しく細るたなご腹となり、太鏨大振りの二字銘を切るのを常とする。一門のうちにも度合の差があり、初代村正の手が二様の銘と信仰の作に分かれるのに対し、二代はたなご腹と流暢な銘字が殊に著しい。正重は同じ千子の手をより肌立たせ、より強く沸づかせて放胆に開き、正眞はこれを引き締めて地肌が少しつむ傾向にあり、上半を穏やかな直刃に納める。皆焼はいずれの工にあっても時折の作域に止まり、本領はあくまで表裏の揃う乱れ刃にある。 鑑定の勘所は、まずこの表裏の揃いと、刃先にせまる乱れの谷、締りごころの匂口と叢沸、そしてたなご腹の茎と太鏨の銘字にある。一見すると末関の兼定・兼芝に紛れ、島田物に似、平安城長吉とは酷似するため、これらと分けるにはこの見どころに立ち返らねばならない。一門内では茎が決め手となり、村正の茎棟が角に切られるのに対し、正重はいかにも丸く肉がつくとされる。切れ味の評は古来高く、後の世にその作が忌まれた一因ともなった。すなわち徳川家に祟る、持主に祟るとの妖刀伝説が行われ、その忌避にふれて銘を消されたものが多く、現存有銘の刀は比較的に稀である。名跡の行方についても、忌避にふれて絶えたとする説と、同銘相継いで新刀に及んだとする説が併存する。伝来には大名家のものが残り、妙法蓮華経の刀は茎棟に銀象嵌「鍋信」とあって鍋島信濃守勝茂の所持と伝え、初代の脇指の一口は織田信長の指料と伝えて織田木瓜紋の合口を附し、正眞の一刀は将軍より拝領して水野家に下る。この水野家の刀は伊勢を憚って「山城国正真」と国名を改めて切られ、その隠された出自そのものが妖刀の評の重さを物語る。後の世がその名を消そうとした工の作であればこそ、年紀確かで表裏の揃う村正一門の作が世に現れることは、一箇の画期として今に求められている。 詳しく見る →
江戸時代
徳川の泰平のもと、大小は法度の定める身分の制服となり、需要は城下町、とりわけ江戸に集まった。工芸は二つに分かれる。目利きのための華やかな鑑賞の作と、截断の結果を金象嵌に刻む実証の刀である。
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