二つの朝廷が争った六十年、刀身は長大化し、長船がその需要に応えた。兼光と長義の工房は実際に戦う国人層の武士に仕え、軍勢とともに相州風が届いて相伝備前が生まれた。
日本刀 刀 伝雲次(でん うんじ) 日本美術刀剣保存協会(NBTHK) 重要刀剣 鑑定書付属 【解説】 概要 本作は、現存する作風から鎌倉時代末期から南北朝時代初期(1312年〜1336年頃)にかけて活躍した「伝雲次」と極められた名刀です。雲次は、鎌倉末期から南北朝中期にかけて備前国宇甘(うかい:現在の岡山県)の地で繁栄した「雲類(うんるい)」と称される一派に属し、同派の代表的工である雲生(うんしょう)の子と伝えられています。 雲類(宇甘派)の興り 雲類の祖は雲生です。伝承によれば、時の帝である後醍醐天皇より御剣の作刀を命じられた雲生は、納得のいく作が打てず苦心していました。ある夜、夢の中にたなびく雲が現れ、その様を刃文に写し取る着想を得たことで、ついに見事な太刀を完成させたと伝えられています。 この太刀を献上された後醍醐天皇は、その出来栄えを「刃文の働きが真の雲の如し」と賞賛され、雲生に「雲」の字を冠することを許されました。これ以降、一派の職人は皆、名に「雲」の字を用いるようになり、この一派は「雲類」と呼ばれるようになりました。雲生は乾元年間(1302年〜)に活躍しています。 また、彼らが備前国宇甘の地に居住したことから、「宇甘派」とも称されます。 雲類の作風は、山城伝の来派や備中阿江派、あるいは大和伝に通じるものがあり、一説には鎌倉末期に山城国から備前へ移住した一派とも言われています。同時期の他の備前鍛冶と比較して、山城伝の影響を強く受けているのが大きな特徴です。 本作は、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)により「重要刀剣」に指定されています。重要刀剣とは、特別保存刀剣の中でも特に出来が良く、保存状態が極めて良好で、美術品としての価値が極めて高いと認められた名品にのみ与えられる格付けです。重要刀剣の指定を受けることは非常に難しく、愛刀家にとって垂涎の的となっています。 ※刀身には一部、時代を経た黒錆が見られます。詳細なコンディションについては、お気軽にお問い合わせください。 【刀身】 長さ(Nagasa):71.2 cm 反り(Sori):1.7 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃先に現れる結晶構造 地鉄(Jihada):折り返し鍛錬によって現れる鋼の表面模様 切先(Kissaki):刀身の先端部分 茎(Nakago):刀身の柄に収まる部分 茎に付着した古錆は、柄の中での赤錆の発生を防ぐ役割を果たしています。この錆色は長い年月をかけて形成されたものであり、専門家が制作年代を特定する際の重要な指標となります。 【拵】 拵(Koshirae):鞘、柄、鍔などからなる外装一式 目貫、鍔、小柄、笄の意匠は「鶏(にわとり)」で統一されています。古代より鶏は神に捧げる儀式に用いられ、その神聖さから家紋の図案にも採用されてきました。 また、朝の訪れを告げることから「明けの鳥」と呼ばれ、新年一番に鳴くことから、邪気を払い福を呼ぶ縁起の良い鳥として尊ばれています。
大磨上無銘の刀で鵜飼派の雲次の作と伝えている。この派の刀工は、雲生・雲次・雲重などその名に雲の字を冠 するところから雲類とも称している。この派は山城に於ても作刀をしたと伝え、そのためか姿や地刃に京風の味わい がある。この刀は地刃にその特色が見られ、所伝の如くに鑑せられる。






























大磨上無銘の刀で鵜飼派の雲次の作と伝えている。この派の刀工は、雲生・雲次・雲重などその名に雲の字を冠 するところから雲類とも称している。この派は山城に於ても作刀をしたと伝え、そのためか姿や地刃に京風の味わい がある。この刀は地刃にその特色が見られ、所伝の如くに鑑せられる。
Ukai / Unrui (Bizen) · 備前 · 1315-1335頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位5%
現在3点販売中
鎌倉時代末期から南北朝時代の初めにかけて、備前国宇甘庄、後に鵜飼とも書かれる地に、名に皆「雲」の字を冠する雲生・雲次・雲重らの刀工が住し、鵜飼派あるいは雲類と呼ばれる。雲次は一説に初代雲生の子と伝えられ(「雲生の子或いは弟」[[c:17]]とする説明書もある)、正和・文保・建武の年紀作を遺す一派唯一の年代の拠り所であって、指定書は繰り返し「その活躍年代は明らかである」[[c:1]]と記す。雲生に年紀作がないため、一派全体の年代は正和四年(一三一五)・建武二年(一三三五)等の在銘作によって定まる。その作風は長船の主流と相違し、備前伝の中に山城風が混在し、隣国備中青江派の影響も少なからず、「備前物中異色の存在」[[c:2]]と評される。藤代の位列は上々作。
太刀は身幅尋常で反りは輪反りごころとなって京風を帯び、鎬はやや高く、生ぶのものには踏張りが残る。同時代の長船本流が丁子を焼くのに対し、雲次は直刃を基調とする。細直刃ないし中直刃に小互の目・小丁子・小乱れを交え、処々角張る刃を交え、足・葉がよく入って青江風に逆がかり、「直刃締り逆足入る出来は備中物に通じ」[[c:3]]とされる。匂口は締まりごころに小沸つき、時に沈みごころとなり、金筋・砂流し・ほつれがかかる。特別重要刀剣の説明書は「暗部の濃い独得の映りと丸く返る帽子と大筋違の鑢目に此工の見どころを示している」[[c:4]]と一文に要約し、銘字の「逆鏨」は雲次のみならず同派共通の手癖とする。これらの揃った一口を指定書は「地刃に雲次の典型かつ出色の出来口が示されている」[[c:18]]と述べる。
鍛えは板目に杢を交え、約んだものは小板目となり、処々刃寄りに流れ、地沸厚くつき地景細かに入り、鉄色はやや黒みがかる。地には雲類独特の黒い地斑が交じり、諸書に「指で押した様な黒い映り」[[c:5]]と記される古調な映りが立つ。映りは焼きに応じて消長し、沸の強い作については「地刃の沸がつよく、ために地映りは殆んど立っていない」[[c:7]]と記される。
「大別して作風は二様あって」[[c:8]]、小板目がよく約み直刃調の匂口が締まる、京物や青江に紛れる手と、板目が肌立ち直刃に逆がかる乱れを交えて沸よくつく手とがあり、映りは「前者の方が鮮明である」[[c:9]]。後者にはほつれ・砂流しがかかり帽子の掃きかける態があって、「大和風が加味されている」[[c:10]]と読まれる。これに造込みの作域が重なる。極めの中には薙刀および薙刀直しの一群が大きく、直しに際して鋒の棟を削いだため帽子は自然焼詰めとなり、「薙刀樋に添樋」の彫が残ることが多い。雲次・雲重と極められた無銘の薙刀直しが少なからず存在することから、「彼らは薙刀の製作にも巧みであったことが窺われる」[[c:11]]。完存の在銘薙刀一口が重要刀剣にあり、短刀は稀有である。
派内の見分けは父雲生との間に引かれる。或る無銘刀の指定書は「同派の雲生に比し、刃縁にほつれ等が入り沸がやや強く感ぜられ」[[c:12]]として雲次に極めた。雲次は一派の沸の手であり、流れごころの肌や砂流し・金筋の働きは父より目立ち、匂口の締まりはむしろ雲生に譲る。また「雲生・雲次は京に出て後醍醐天皇の御用を勤めたと伝え、備前物の中では最も京物に近い作風をみせている」[[c:19]]とされ、「雲次には茎に十六葉の菊花紋のある太刀がある」[[c:13]]ことが伝説の裏付けに挙げられる。代別については指定書は単に雲次と極め、年紀によって世代を分かつ。南北朝期まで同名一、二の存在が認められ、本間は「経眼した長銘の雲次は、大体初代と思われるが、二字銘には初、二代を区別し難いものがある」[[c:20]]と記す。
指定を受けた作は百三十八口。重要文化財七口・特別重要刀剣六口・重要刀剣百十二口・重要美術品十三口で、国宝はない。在銘四十七口に対し無銘八十八口、在銘はほぼ太刀で、「備前国住雲次」の長銘(年紀を添えるものがある)と「雲次」の二字銘とがあり、正和四年紀の太刀は重要文化財である。重要文化財の七口は文化財として伝え置かれ、所在の知られるものは京都国立博物館・熱田神宮・厳島神社・徳川美術館等に蔵され、戦前の認定には徳川黎明会・根津美術館・陽明文庫(近衛文麿伝来)の名が見える。伝来は備前池田家・前田家・秋元家・三井家・皇室に亙り、一口の太刀の茎には天文三年(一五三四)の武田信虎所持の切付銘があって、「銘文は資料的にも貴重である」[[c:16]]とされる。これは戦国期の所持銘であって在銘ではない。特別重要・重要の百十八口を数える雲次は雲類の中で最も手に触れ得る名であるが、その多くは秘蔵されて市に現れることは稀で、現れるのは多く無銘の刀や薙刀直し脇指であり、在銘太刀は一段と稀である。
雲次の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
備前伝 · 備前
現在7点販売中
備前国宇甘庄、後に鵜飼とも書かれた地に、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、名に皆「雲」の字を冠する刀工の一群が住した。その居住地から宇甘派あるいは鵜飼派と呼ばれ、銘字の特徴から雲類とも称される。一派の事実上の祖は雲生で、これに雲次、雲重が続く。銘鑑は雲次を雲生の子あるいは弟と伝え、雲重を二代雲生の子とする。雲生には年紀作が現存せず、一派の年代の拠り所はもっぱら雲次の正和・文保・建武の年紀作にあり、雲重に至って文和・貞治・応安の年紀が加わる。雲生・雲次の代に京に上って山城鍛冶に学び、後醍醐天皇の御番鍛冶を勤めたと伝え、雲次には茎に十六葉の菊花紋を刻した太刀があって、宮中との関係を考えさせる稀有な作とされる。その作風は同時代の長船本流と趣を異にし、備前伝の中に山城風が混在し、隣国備中青江派の影響も少なからず受けて、備前物中異色の存在と評される。 作風はいずれも直刃を基調とする点で一致し、これが丁子を焼く長船本流との分かれ目となる。太刀姿は身幅尋常で反りが輪反りごころとなり、同時代の長船物が腰反りを呈するのに対し均整のとれた反り格好を示して京風を帯び、生ぶのものには踏張りが残る。刃文は細直刃ないし中直刃に小互の目・小丁子・小乱れを交え、足・葉がよく入って青江風に逆がかり、処々に角張る刃や陰の尖り刃を見せる。匂口は締まりごころに小沸つき、時に沈みごころとなって金筋・砂流し・ほつれがかかる。帽子は丸く返って尖らず、これを雲類の見どころとする。鍛えは板目に杢を交えてやや肌立ち、約んだものは小板目となり、地沸つき地景細かに入って鉄色はやや黒みがかる。地には指の腹で押したような黒い地斑の映りが立ち、これを同派独特の見どころとする。銘は棟寄りに切り、「生」「次」等の銘字に逆鏨を用いるのが一派共通の手癖である。もっとも三工の間には差異もあり、雲生は焼きが低く働きがやや寂しく、雲次は焼幅広く沸強く足・葉が目立ち、雲重は大和の風情を加味してほつれ・喰違刃・打のけを交え、最も傾いた作では鍛えが殆ど柾となって帽子が焼詰めとなる。 鑑定の勘所は、まず一派が備前物の中で最も京物に近いという座標にある。直刃は来物の格に達して紛れることがあり、足は青江風に逆がかり、年紀のある静かな直刃の作はしばしば一見青江に紛れる。しかも地には鮮明な乱れ映りが立って生国備前の趣が濃く、青江気質を帯びた作でも帽子は丸く返るところに同派の証が残る。派内の見分けは焼きをもって分かたれ、雲生の力強い作は雲次に近づき、雲重は相伝の影響を受けてこれを南北朝へと押し進めた。一派は薙刀の製作にも巧みで、雲次・雲重と極められた無銘の薙刀直しが少なからず存し、直しに際して鋒の棟を削いだため帽子が自然焼詰めとなり、薙刀樋に添樋の彫が残ることが多い。主要工としては、一派の祖にして焼き低く京物に近い作風を示す雲生、正和以下の年紀作を遺して一派の年代を支え沸の働きに長じた雲次、年紀作をもって南北朝中期に確と据わり大和を加味した雲重の三工が柱をなし、ほかに雲重らに連なる工が一派を支える。在銘作は雲類の中では比較的多いものの、その大半は秘蔵されて市に現れることは稀であり、無銘の磨上や薙刀直しに対して生ぶ茎在銘の太刀は一段と稀有である。伝来の録された作は旧家や機関に伝わり、上杉景勝御手選びに数えられた菊紋の太刀、武田信虎の所持銘を切付けた雲次の太刀など、銘文の資料性において貴ばれるものが含まれる。 詳しく見る →
南北朝時代の備前
二つの朝廷が争った六十年、刀身は長大化し、長船がその需要に応えた。兼光と長義の工房は実際に戦う国人層の武士に仕え、軍勢とともに相州風が届いて相伝備前が生まれた。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.
日本刀 刀 伝雲次(でん うんじ) 日本美術刀剣保存協会(NBTHK) 重要刀剣 鑑定書付属 【解説】 概要 本作は、現存する作風から鎌倉時代末期から南北朝時代初期(1312年〜1336年頃)にかけて活躍した「伝雲次」と極められた名刀です。雲次は、鎌倉末期から南北朝中期にかけて備前国宇甘(うかい:現在の岡山県)の地で繁栄した「雲類(うんるい)」と称される一派に属し、同派の代表的工である雲生(うんしょう)の子と伝えられています。 雲類(宇甘派)の興り 雲類の祖は雲生です。伝承によれば、時の帝である後醍醐天皇より御剣の作刀を命じられた雲生は、納得のいく作が打てず苦心していました。ある夜、夢の中にたなびく雲が現れ、その様を刃文に写し取る着想を得たことで、ついに見事な太刀を完成させたと伝えられています。 この太刀を献上された後醍醐天皇は、その出来栄えを「刃文の働きが真の雲の如し」と賞賛され、雲生に「雲」の字を冠することを許されました。これ以降、一派の職人は皆、名に「雲」の字を用いるようになり、この一派は「雲類」と呼ばれるようになりました。雲生は乾元年間(1302年〜)に活躍しています。 また、彼らが備前国宇甘の地に居住したことから、「宇甘派」とも称されます。 雲類の作風は、山城伝の来派や備中阿江派、あるいは大和伝に通じるものがあり、一説には鎌倉末期に山城国から備前へ移住した一派とも言われています。同時期の他の備前鍛冶と比較して、山城伝の影響を強く受けているのが大きな特徴です。 本作は、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)により「重要刀剣」に指定されています。重要刀剣とは、特別保存刀剣の中でも特に出来が良く、保存状態が極めて良好で、美術品としての価値が極めて高いと認められた名品にのみ与えられる格付けです。重要刀剣の指定を受けることは非常に難しく、愛刀家にとって垂涎の的となっています。 ※刀身には一部、時代を経た黒錆が見られます。詳細なコンディションについては、お気軽にお問い合わせください。 【刀身】 長さ(Nagasa):71.2 cm 反り(Sori):1.7 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃先に現れる結晶構造 地鉄(Jihada):折り返し鍛錬によって現れる鋼の表面模様 切先(Kissaki):刀身の先端部分 茎(Nakago):刀身の柄に収まる部分 茎に付着した古錆は、柄の中での赤錆の発生を防ぐ役割を果たしています。この錆色は長い年月をかけて形成されたものであり、専門家が制作年代を特定する際の重要な指標となります。 【拵】 拵(Koshirae):鞘、柄、鍔などからなる外装一式 目貫、鍔、小柄、笄の意匠は「鶏(にわとり)」で統一されています。古代より鶏は神に捧げる儀式に用いられ、その神聖さから家紋の図案にも採用されてきました。 また、朝の訪れを告げることから「明けの鳥」と呼ばれ、新年一番に鳴くことから、邪気を払い福を呼ぶ縁起の良い鳥として尊ばれています。
大磨上無銘の刀で鵜飼派の雲次の作と伝えている。この派の刀工は、雲生・雲次・雲重などその名に雲の字を冠 するところから雲類とも称している。この派は山城に於ても作刀をしたと伝え、そのためか姿や地刃に京風の味わい がある。この刀は地刃にその特色が見られ、所伝の如くに鑑せられる。






























大磨上無銘の刀で鵜飼派の雲次の作と伝えている。この派の刀工は、雲生・雲次・雲重などその名に雲の字を冠 するところから雲類とも称している。この派は山城に於ても作刀をしたと伝え、そのためか姿や地刃に京風の味わい がある。この刀は地刃にその特色が見られ、所伝の如くに鑑せられる。
Ukai / Unrui (Bizen) · 備前 · 1315-1335頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位5%
現在3点販売中
鎌倉時代末期から南北朝時代の初めにかけて、備前国宇甘庄、後に鵜飼とも書かれる地に、名に皆「雲」の字を冠する雲生・雲次・雲重らの刀工が住し、鵜飼派あるいは雲類と呼ばれる。雲次は一説に初代雲生の子と伝えられ(「雲生の子或いは弟」[[c:17]]とする説明書もある)、正和・文保・建武の年紀作を遺す一派唯一の年代の拠り所であって、指定書は繰り返し「その活躍年代は明らかである」[[c:1]]と記す。雲生に年紀作がないため、一派全体の年代は正和四年(一三一五)・建武二年(一三三五)等の在銘作によって定まる。その作風は長船の主流と相違し、備前伝の中に山城風が混在し、隣国備中青江派の影響も少なからず、「備前物中異色の存在」[[c:2]]と評される。藤代の位列は上々作。
太刀は身幅尋常で反りは輪反りごころとなって京風を帯び、鎬はやや高く、生ぶのものには踏張りが残る。同時代の長船本流が丁子を焼くのに対し、雲次は直刃を基調とする。細直刃ないし中直刃に小互の目・小丁子・小乱れを交え、処々角張る刃を交え、足・葉がよく入って青江風に逆がかり、「直刃締り逆足入る出来は備中物に通じ」[[c:3]]とされる。匂口は締まりごころに小沸つき、時に沈みごころとなり、金筋・砂流し・ほつれがかかる。特別重要刀剣の説明書は「暗部の濃い独得の映りと丸く返る帽子と大筋違の鑢目に此工の見どころを示している」[[c:4]]と一文に要約し、銘字の「逆鏨」は雲次のみならず同派共通の手癖とする。これらの揃った一口を指定書は「地刃に雲次の典型かつ出色の出来口が示されている」[[c:18]]と述べる。
鍛えは板目に杢を交え、約んだものは小板目となり、処々刃寄りに流れ、地沸厚くつき地景細かに入り、鉄色はやや黒みがかる。地には雲類独特の黒い地斑が交じり、諸書に「指で押した様な黒い映り」[[c:5]]と記される古調な映りが立つ。映りは焼きに応じて消長し、沸の強い作については「地刃の沸がつよく、ために地映りは殆んど立っていない」[[c:7]]と記される。
「大別して作風は二様あって」[[c:8]]、小板目がよく約み直刃調の匂口が締まる、京物や青江に紛れる手と、板目が肌立ち直刃に逆がかる乱れを交えて沸よくつく手とがあり、映りは「前者の方が鮮明である」[[c:9]]。後者にはほつれ・砂流しがかかり帽子の掃きかける態があって、「大和風が加味されている」[[c:10]]と読まれる。これに造込みの作域が重なる。極めの中には薙刀および薙刀直しの一群が大きく、直しに際して鋒の棟を削いだため帽子は自然焼詰めとなり、「薙刀樋に添樋」の彫が残ることが多い。雲次・雲重と極められた無銘の薙刀直しが少なからず存在することから、「彼らは薙刀の製作にも巧みであったことが窺われる」[[c:11]]。完存の在銘薙刀一口が重要刀剣にあり、短刀は稀有である。
派内の見分けは父雲生との間に引かれる。或る無銘刀の指定書は「同派の雲生に比し、刃縁にほつれ等が入り沸がやや強く感ぜられ」[[c:12]]として雲次に極めた。雲次は一派の沸の手であり、流れごころの肌や砂流し・金筋の働きは父より目立ち、匂口の締まりはむしろ雲生に譲る。また「雲生・雲次は京に出て後醍醐天皇の御用を勤めたと伝え、備前物の中では最も京物に近い作風をみせている」[[c:19]]とされ、「雲次には茎に十六葉の菊花紋のある太刀がある」[[c:13]]ことが伝説の裏付けに挙げられる。代別については指定書は単に雲次と極め、年紀によって世代を分かつ。南北朝期まで同名一、二の存在が認められ、本間は「経眼した長銘の雲次は、大体初代と思われるが、二字銘には初、二代を区別し難いものがある」[[c:20]]と記す。
指定を受けた作は百三十八口。重要文化財七口・特別重要刀剣六口・重要刀剣百十二口・重要美術品十三口で、国宝はない。在銘四十七口に対し無銘八十八口、在銘はほぼ太刀で、「備前国住雲次」の長銘(年紀を添えるものがある)と「雲次」の二字銘とがあり、正和四年紀の太刀は重要文化財である。重要文化財の七口は文化財として伝え置かれ、所在の知られるものは京都国立博物館・熱田神宮・厳島神社・徳川美術館等に蔵され、戦前の認定には徳川黎明会・根津美術館・陽明文庫(近衛文麿伝来)の名が見える。伝来は備前池田家・前田家・秋元家・三井家・皇室に亙り、一口の太刀の茎には天文三年(一五三四)の武田信虎所持の切付銘があって、「銘文は資料的にも貴重である」[[c:16]]とされる。これは戦国期の所持銘であって在銘ではない。特別重要・重要の百十八口を数える雲次は雲類の中で最も手に触れ得る名であるが、その多くは秘蔵されて市に現れることは稀で、現れるのは多く無銘の刀や薙刀直し脇指であり、在銘太刀は一段と稀である。
雲次の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
備前伝 · 備前
現在7点販売中
備前国宇甘庄、後に鵜飼とも書かれた地に、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、名に皆「雲」の字を冠する刀工の一群が住した。その居住地から宇甘派あるいは鵜飼派と呼ばれ、銘字の特徴から雲類とも称される。一派の事実上の祖は雲生で、これに雲次、雲重が続く。銘鑑は雲次を雲生の子あるいは弟と伝え、雲重を二代雲生の子とする。雲生には年紀作が現存せず、一派の年代の拠り所はもっぱら雲次の正和・文保・建武の年紀作にあり、雲重に至って文和・貞治・応安の年紀が加わる。雲生・雲次の代に京に上って山城鍛冶に学び、後醍醐天皇の御番鍛冶を勤めたと伝え、雲次には茎に十六葉の菊花紋を刻した太刀があって、宮中との関係を考えさせる稀有な作とされる。その作風は同時代の長船本流と趣を異にし、備前伝の中に山城風が混在し、隣国備中青江派の影響も少なからず受けて、備前物中異色の存在と評される。 作風はいずれも直刃を基調とする点で一致し、これが丁子を焼く長船本流との分かれ目となる。太刀姿は身幅尋常で反りが輪反りごころとなり、同時代の長船物が腰反りを呈するのに対し均整のとれた反り格好を示して京風を帯び、生ぶのものには踏張りが残る。刃文は細直刃ないし中直刃に小互の目・小丁子・小乱れを交え、足・葉がよく入って青江風に逆がかり、処々に角張る刃や陰の尖り刃を見せる。匂口は締まりごころに小沸つき、時に沈みごころとなって金筋・砂流し・ほつれがかかる。帽子は丸く返って尖らず、これを雲類の見どころとする。鍛えは板目に杢を交えてやや肌立ち、約んだものは小板目となり、地沸つき地景細かに入って鉄色はやや黒みがかる。地には指の腹で押したような黒い地斑の映りが立ち、これを同派独特の見どころとする。銘は棟寄りに切り、「生」「次」等の銘字に逆鏨を用いるのが一派共通の手癖である。もっとも三工の間には差異もあり、雲生は焼きが低く働きがやや寂しく、雲次は焼幅広く沸強く足・葉が目立ち、雲重は大和の風情を加味してほつれ・喰違刃・打のけを交え、最も傾いた作では鍛えが殆ど柾となって帽子が焼詰めとなる。 鑑定の勘所は、まず一派が備前物の中で最も京物に近いという座標にある。直刃は来物の格に達して紛れることがあり、足は青江風に逆がかり、年紀のある静かな直刃の作はしばしば一見青江に紛れる。しかも地には鮮明な乱れ映りが立って生国備前の趣が濃く、青江気質を帯びた作でも帽子は丸く返るところに同派の証が残る。派内の見分けは焼きをもって分かたれ、雲生の力強い作は雲次に近づき、雲重は相伝の影響を受けてこれを南北朝へと押し進めた。一派は薙刀の製作にも巧みで、雲次・雲重と極められた無銘の薙刀直しが少なからず存し、直しに際して鋒の棟を削いだため帽子が自然焼詰めとなり、薙刀樋に添樋の彫が残ることが多い。主要工としては、一派の祖にして焼き低く京物に近い作風を示す雲生、正和以下の年紀作を遺して一派の年代を支え沸の働きに長じた雲次、年紀作をもって南北朝中期に確と据わり大和を加味した雲重の三工が柱をなし、ほかに雲重らに連なる工が一派を支える。在銘作は雲類の中では比較的多いものの、その大半は秘蔵されて市に現れることは稀であり、無銘の磨上や薙刀直しに対して生ぶ茎在銘の太刀は一段と稀有である。伝来の録された作は旧家や機関に伝わり、上杉景勝御手選びに数えられた菊紋の太刀、武田信虎の所持銘を切付けた雲次の太刀など、銘文の資料性において貴ばれるものが含まれる。 詳しく見る →
南北朝時代の備前
二つの朝廷が争った六十年、刀身は長大化し、長船がその需要に応えた。兼光と長義の工房は実際に戦う国人層の武士に仕え、軍勢とともに相州風が届いて相伝備前が生まれた。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.