日本刀 刀 無銘 冬廣(天正頃) NTHK(日本刀剣保存会)鑑定書付 【解説】 本作は、室町時代末期の天正年間(1573-1592年)頃の「冬廣」と極められた一振りです。 冬廣の家系は、相州広次(二代)の子が初代と伝えられています。相州広次は相模国(現在の神奈川県)を代表する名工の一人です。初代冬廣は、師より相州伝の技術を学んだ後、寛正頃(1460年頃:室町時代中期)に若狭国(現在の福井県)へ移住しました。 当初は五ヶ伝の一つである「相州伝」を主としていましたが、次第に「備前伝」の作風を織り交ぜるようになります。古文献によれば、冬廣の名は室町時代から江戸時代末期まで十七代にわたって受け継がれました。本作の極めは、その技量を高く評価された初期の冬廣に帰せられるものと考えられます。 戦国時代、冬廣の一派はその実用性と人気の高さから、上級武士や戦国大名のために数多くの作刀を行いました。江戸時代には、若狭のみならず備前、備後、出雲、伯耆など各地で作刀した記録が残されています。 (相州伝について) 相州伝は、鎌倉時代中期に相模国(現在の神奈川県)で確立された作刀様式です。 当時、大和伝や山城伝は既に高い完成度を誇っていましたが、関東の地における作刀技術は未だ発展途上にありました。1185年に鎌倉幕府を開いた源頼朝は、政治的安定のための体制づくりを優先したため、当初は地元の鍛冶を育成する余裕がなく、武器の調達は大和や山城の鍛冶に依存していました。 しかし、幕府の基盤が固まるにつれ、御家人たちからの武器需要が爆発的に増加します。これに応えるべく、五代執権・北条時頼は、山城国から粟田口国綱、備前国から備前三郎国宗という二人の名工を招きました。さらに七代将軍・惟康親王も備前より福岡一文字助真を招聘します。 これら名工たちが相州伝の基礎を築き、粟田口国綱の養子とされる新藤五国光によってその技術は昇華されました。国光の弟子である行光、そして日本刀史上最も著名な名工の一人である正宗へと技術は継承されます。正宗によって完成された相州伝は全国的な名声を博し、後の古刀・新刀期の多くの鍛冶に多大な影響を与えました。大阪の井上真改や江戸の水心子正秀なども、その影響を受けた代表的な工として知られています。 ※刀身には一部、薄い錆が見受けられます。詳細なコンディションについては、お気軽にお問い合わせください。 【刀身】 長さ(Nagasa):73.8 cm 反り(Sori):2.2 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃先に現れる結晶構造 地鉄(Jihada):鍛錬による折り返しから生じる鋼の表面模様 茎(Nakago):刀身の柄に収まる部分



















Wakasa Fuyuhiro · 若狭 · 1521-1568頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位37%
現在1点販売中
冬広は若狭国小浜の刀工で、末室町の天文・永禄頃に活動した。永禄十一年(一五六八)の年紀作があり、十六世紀第三四半期の作刀がはっきりと裏付けられる。彼は若狭冬広の祖と位置づけられ、相州系の修業を経て若狭にその作風を伝えた地方の鍛冶である。説明書は、後に相州綱広の門に学んだと記し、「後、相州綱広の門に学んだ」[[c:1]]とある一方、別伝では相州広次の後と伝えている。いずれにせよ系譜は相州にあり、彼とともに若狭へ及んだのは当代の末相州の作風である。現存する重要刀剣五口はいずれも「冬広」と棟寄りに三字銘を切り、すべて刀であって、紙の上の記録は珍しく一貫している。
その記録を貫く手は、肌立ち流れの板目である。地鉄は肌立ちごころの板目に鍛え、地沸がつき、しばしば板目肌が流れると評される。この肌立ち・流れごころの地鉄こそ彼の刀がまず共有するもので、説明書が分けて説く二様の作風を通して現れる。その地に対し彼は二つの異なる調子で焼く。穏やかな一作では、太い直刃調に小互の目を交え、小足・葉が刃中に働き、匂口は締まりごころに小沸がつく。豊かな一作では、焼幅を広く取り、処々大のたれ調に箱がかった互の目乱れを焼き、沸よくつき、砂流し・金筋がかかり、匂口は明るい。
この二様こそ、説明書がいう作風の二面そのものである。説明書は「その作風は末相州物のものと、末備前風のものとがあり」[[c:2]]、直刃出来と乱れ出来のものとがあって上手であると記す。末相州の側は、締まった匂口と静かな小沸を伴う穏やかな直刃調に対応し、末備前風の側は、明るく焼いた沸づく互の目乱れに対応する。帽子はその下の刃に従う。直刃の上では直ぐに深く返り、時に殆んど一枚風となり、乱れの上では乱れ込んで掃きかけとなり、一口では焼詰めごころへと走る。地刃は一口ごとに健全と判じられ、優品に至れば説明書はこれを同作中の傑出と呼ぶ。倶利迦羅と梵字を彫った広直刃の一口は「同作中の傑出の一である」[[c:3]]と称され、明るい匂口と堂々とした姿の大のたれの一口は「同作中の傑作の一口である」[[c:4]]と称される。
第三の一面は彫物である。冬広は彫物をも得意とし、直刃調の作では表に草の倶利迦羅、裏に梵字と護摩箸が見られ、備中年紀の作には角止めの棒樋がある。説明書はこの彫物について鋭い判断を下す。相州風というよりむしろ「むしろ平安城長吉などの作に近い」[[c:5]]とし、両者の間に何か関係があるのかもしれないと示唆する。この評は冬広を地方伝統の交差点に置くものであり、地鉄は系譜の上で相州ながら、鏨は京風を帯びた平安城の鍛冶へと向く。その刀は無傷のものは生ぶで三字銘を残すが、五口のうち一口は磨上げられ、本来の長い茎を詰めて、銘を茎尻寄りに切り直している。
彼の名を巡る最も論じられる問題は地理にある。説明書は、ほぼ時を同じくして若州・伯州・雲州・備前・備中などの住所銘を切った作が伝わり、これらが同人か否か検討の余地があると記し、「これ等が同人か否か検討の余地がある」[[c:6]]とする。永禄十一年紀の刀は「備中国於松山」と銘して備中松山で作られたが、地刃ともに出来がよく若狭の作と一連であって、まさにそれゆえ問題は決し難い。日本美術刀剣保存協会はこれを断定せず、多国の作を一名のもとに括りつつ疑いを明示する。系譜における彼の位置はそれに応じて祖のそれであり、相州に学んだ地方の鍛冶が末相州の作風を若狭へ伝え、銘の証す限り山陰・山陽の沿岸に及ぶ一派にその名を与えた。その一派の中で彼自身の刀を分かつものは、借り物の比較ではなく、その記述に即した肌立ち流れの地鉄と明るい沸出来の乱れにある。
冬広を巡る鑑賞は、名声の高い名工というより、上手な地方の名手のそれである。参考書は彼を藤代の位列で上作に置き、刀工大鑑で四百点とする。これは当代第一級には遠く及ばぬ、堅実で収集に値する刀工の評価である。彼に国宝はなく重要文化財もない。指定を受けた作は五口で、いずれも重要刀剣の位にあり、特別重要刀剣にはまだ上っていない。五口のいずれにも伝来の記録はなく、この資料の範囲では大名伝来は名に付かず、所持者として記録されるのも博物館や社寺ではなく私蔵家である。収集家にとってこのことは、相州・備前の大名跡とは異なり、彼を静かに手の届く存在とする。直刃の生ぶ在銘冬広刀、あるいは倶利迦羅と梵字を備えた広く明るい乱れの一口は、末室町の作として時に市場に現れ、忍耐ある眼に応えるものであり、若狭冬広の祖の手になる、地刃健全で出来のよい一刀である。それは末相州の地鉄と京風を帯びた鏨を、一人の地方の手に併せ持つ。
冬廣の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
相州伝 · 若狭
現在5点販売中
若狭冬広は、相州広次三代目の子と伝え、室町時代の康正頃に若州小浜へ移住したとされる一系である。説示によれば、その名跡は新々刀時代にまで続き、五代を数えたとも言われる。年紀のうえでは永正十二年紀に「冬広伍七三才」と銘した作が知られ、ほかに永正・天文・元亀・天正の年紀があって、室町後期から戦国期を通じての制作が確かめられる。源流は相州にあり、後には相州綱広の門に学んだと伝えるものの、相州住と銘した作は見ないとも記される。同じ頃に若州・伯州・雲州・備前・備中などと住所を切り替えた作があり、これらが同人によるものか否かは検討の余地が残るとして、説示はいずれも断を避けている。 作風として説示が繰り返し挙げるのは末相州風と末備前風の二様であり、同一の系のうちにこの両者が併存する点が判別の鍵となる。地鉄は板目に杢目・流れ肌を交え、肌立ちごころとなって地沸がつき、地景が頻りに入る。刃文は焼幅広く、のたれに小互の目・小丁子や尖り刃を交え、足・葉が盛んに入り、荒めの沸を交えて砂流し・金筋がかかり、匂口の明るいものが多い。中には中直刃を基調に互の目・尖り刃を交え、飛焼が頻りに加わって棟焼も総体にかかり、皆焼となる作がある。一方で太直刃調に小互の目を交える穏やかな直刃出来もみられ、直刃と乱れの両様を焼き分ける。帽子は乱れ込んで尖りごころとなり、あるいは小丸に掃きかけて返る。彫物を得意とし、草の倶利迦羅・梵字・棒樋・添樋などを施した作が伝わる。造込みは庵棟の鎬造を主とし、先反りつき大鋒に延びた豪壮なものから、反り浅い中鋒の尋常な姿まで幅がある。代の判別にあたっては、二字銘を初代の作とみるなど、銘のかたちと地刃の冴えとを併せて見るのが説示の示すところである。 鑑定の要点は、肌立つ板目鍛えに地沸・地景の加わる地鉄と、のたれ・互の目に沸を伴って砂流しのかかる刃取り、さらに皆焼を交える作のあることに置かれる。住所銘や年紀を切った作が多く、作刀地を明記した刀工銘や天正八年紀のごとく、資料としての価値の高い在銘作が伝わる点も本系の特色である。代表作には、若州小浜での所伝を裏づける在銘の刀のほか、備後国西条や備中松山など他国で鍛えた作があり、宮興盛のもとで天正五年に作刀した一口など、他国における活動を示す好資料も含まれる。彫物に長じた一面は、相州風よりむしろ平安城長吉などに近いと評され、両者の関係が問われることもある。末相州の流れを受けつつ末備前風をも併せ、若狭の地にあって戦国期から江戸期へと長く続いた一系として位置づけられる。
NTHKの中心的な鑑定書で、相応の出来を備えた作に発行されます。在銘作は銘の正真を、無銘作は審査員による刀工・流派の極めを示します。点数を記す詳細な審査表が付されます。
NTHK(日本刀剣保存会)は、NBTHK(1948年設立)に先立つ1910年に創立された、日本で最も古い刀剣鑑定団体です。長く会を率いた会長の没後、NTHKとNTHK-NPOの二つに分かれ、いずれも審査を続けています。NTHKの鑑定書は、点数と審査員の所見を併記する詳細な審査表が特徴で、特に無銘作の極めに定評があります。
Returns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.
日本刀 刀 無銘 冬廣(天正頃) NTHK(日本刀剣保存会)鑑定書付 【解説】 本作は、室町時代末期の天正年間(1573-1592年)頃の「冬廣」と極められた一振りです。 冬廣の家系は、相州広次(二代)の子が初代と伝えられています。相州広次は相模国(現在の神奈川県)を代表する名工の一人です。初代冬廣は、師より相州伝の技術を学んだ後、寛正頃(1460年頃:室町時代中期)に若狭国(現在の福井県)へ移住しました。 当初は五ヶ伝の一つである「相州伝」を主としていましたが、次第に「備前伝」の作風を織り交ぜるようになります。古文献によれば、冬廣の名は室町時代から江戸時代末期まで十七代にわたって受け継がれました。本作の極めは、その技量を高く評価された初期の冬廣に帰せられるものと考えられます。 戦国時代、冬廣の一派はその実用性と人気の高さから、上級武士や戦国大名のために数多くの作刀を行いました。江戸時代には、若狭のみならず備前、備後、出雲、伯耆など各地で作刀した記録が残されています。 (相州伝について) 相州伝は、鎌倉時代中期に相模国(現在の神奈川県)で確立された作刀様式です。 当時、大和伝や山城伝は既に高い完成度を誇っていましたが、関東の地における作刀技術は未だ発展途上にありました。1185年に鎌倉幕府を開いた源頼朝は、政治的安定のための体制づくりを優先したため、当初は地元の鍛冶を育成する余裕がなく、武器の調達は大和や山城の鍛冶に依存していました。 しかし、幕府の基盤が固まるにつれ、御家人たちからの武器需要が爆発的に増加します。これに応えるべく、五代執権・北条時頼は、山城国から粟田口国綱、備前国から備前三郎国宗という二人の名工を招きました。さらに七代将軍・惟康親王も備前より福岡一文字助真を招聘します。 これら名工たちが相州伝の基礎を築き、粟田口国綱の養子とされる新藤五国光によってその技術は昇華されました。国光の弟子である行光、そして日本刀史上最も著名な名工の一人である正宗へと技術は継承されます。正宗によって完成された相州伝は全国的な名声を博し、後の古刀・新刀期の多くの鍛冶に多大な影響を与えました。大阪の井上真改や江戸の水心子正秀なども、その影響を受けた代表的な工として知られています。 ※刀身には一部、薄い錆が見受けられます。詳細なコンディションについては、お気軽にお問い合わせください。 【刀身】 長さ(Nagasa):73.8 cm 反り(Sori):2.2 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃先に現れる結晶構造 地鉄(Jihada):鍛錬による折り返しから生じる鋼の表面模様 茎(Nakago):刀身の柄に収まる部分



















Wakasa Fuyuhiro · 若狭 · 1521-1568頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位37%
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冬広は若狭国小浜の刀工で、末室町の天文・永禄頃に活動した。永禄十一年(一五六八)の年紀作があり、十六世紀第三四半期の作刀がはっきりと裏付けられる。彼は若狭冬広の祖と位置づけられ、相州系の修業を経て若狭にその作風を伝えた地方の鍛冶である。説明書は、後に相州綱広の門に学んだと記し、「後、相州綱広の門に学んだ」[[c:1]]とある一方、別伝では相州広次の後と伝えている。いずれにせよ系譜は相州にあり、彼とともに若狭へ及んだのは当代の末相州の作風である。現存する重要刀剣五口はいずれも「冬広」と棟寄りに三字銘を切り、すべて刀であって、紙の上の記録は珍しく一貫している。
その記録を貫く手は、肌立ち流れの板目である。地鉄は肌立ちごころの板目に鍛え、地沸がつき、しばしば板目肌が流れると評される。この肌立ち・流れごころの地鉄こそ彼の刀がまず共有するもので、説明書が分けて説く二様の作風を通して現れる。その地に対し彼は二つの異なる調子で焼く。穏やかな一作では、太い直刃調に小互の目を交え、小足・葉が刃中に働き、匂口は締まりごころに小沸がつく。豊かな一作では、焼幅を広く取り、処々大のたれ調に箱がかった互の目乱れを焼き、沸よくつき、砂流し・金筋がかかり、匂口は明るい。
この二様こそ、説明書がいう作風の二面そのものである。説明書は「その作風は末相州物のものと、末備前風のものとがあり」[[c:2]]、直刃出来と乱れ出来のものとがあって上手であると記す。末相州の側は、締まった匂口と静かな小沸を伴う穏やかな直刃調に対応し、末備前風の側は、明るく焼いた沸づく互の目乱れに対応する。帽子はその下の刃に従う。直刃の上では直ぐに深く返り、時に殆んど一枚風となり、乱れの上では乱れ込んで掃きかけとなり、一口では焼詰めごころへと走る。地刃は一口ごとに健全と判じられ、優品に至れば説明書はこれを同作中の傑出と呼ぶ。倶利迦羅と梵字を彫った広直刃の一口は「同作中の傑出の一である」[[c:3]]と称され、明るい匂口と堂々とした姿の大のたれの一口は「同作中の傑作の一口である」[[c:4]]と称される。
第三の一面は彫物である。冬広は彫物をも得意とし、直刃調の作では表に草の倶利迦羅、裏に梵字と護摩箸が見られ、備中年紀の作には角止めの棒樋がある。説明書はこの彫物について鋭い判断を下す。相州風というよりむしろ「むしろ平安城長吉などの作に近い」[[c:5]]とし、両者の間に何か関係があるのかもしれないと示唆する。この評は冬広を地方伝統の交差点に置くものであり、地鉄は系譜の上で相州ながら、鏨は京風を帯びた平安城の鍛冶へと向く。その刀は無傷のものは生ぶで三字銘を残すが、五口のうち一口は磨上げられ、本来の長い茎を詰めて、銘を茎尻寄りに切り直している。
彼の名を巡る最も論じられる問題は地理にある。説明書は、ほぼ時を同じくして若州・伯州・雲州・備前・備中などの住所銘を切った作が伝わり、これらが同人か否か検討の余地があると記し、「これ等が同人か否か検討の余地がある」[[c:6]]とする。永禄十一年紀の刀は「備中国於松山」と銘して備中松山で作られたが、地刃ともに出来がよく若狭の作と一連であって、まさにそれゆえ問題は決し難い。日本美術刀剣保存協会はこれを断定せず、多国の作を一名のもとに括りつつ疑いを明示する。系譜における彼の位置はそれに応じて祖のそれであり、相州に学んだ地方の鍛冶が末相州の作風を若狭へ伝え、銘の証す限り山陰・山陽の沿岸に及ぶ一派にその名を与えた。その一派の中で彼自身の刀を分かつものは、借り物の比較ではなく、その記述に即した肌立ち流れの地鉄と明るい沸出来の乱れにある。
冬広を巡る鑑賞は、名声の高い名工というより、上手な地方の名手のそれである。参考書は彼を藤代の位列で上作に置き、刀工大鑑で四百点とする。これは当代第一級には遠く及ばぬ、堅実で収集に値する刀工の評価である。彼に国宝はなく重要文化財もない。指定を受けた作は五口で、いずれも重要刀剣の位にあり、特別重要刀剣にはまだ上っていない。五口のいずれにも伝来の記録はなく、この資料の範囲では大名伝来は名に付かず、所持者として記録されるのも博物館や社寺ではなく私蔵家である。収集家にとってこのことは、相州・備前の大名跡とは異なり、彼を静かに手の届く存在とする。直刃の生ぶ在銘冬広刀、あるいは倶利迦羅と梵字を備えた広く明るい乱れの一口は、末室町の作として時に市場に現れ、忍耐ある眼に応えるものであり、若狭冬広の祖の手になる、地刃健全で出来のよい一刀である。それは末相州の地鉄と京風を帯びた鏨を、一人の地方の手に併せ持つ。
冬廣の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
相州伝 · 若狭
現在5点販売中
若狭冬広は、相州広次三代目の子と伝え、室町時代の康正頃に若州小浜へ移住したとされる一系である。説示によれば、その名跡は新々刀時代にまで続き、五代を数えたとも言われる。年紀のうえでは永正十二年紀に「冬広伍七三才」と銘した作が知られ、ほかに永正・天文・元亀・天正の年紀があって、室町後期から戦国期を通じての制作が確かめられる。源流は相州にあり、後には相州綱広の門に学んだと伝えるものの、相州住と銘した作は見ないとも記される。同じ頃に若州・伯州・雲州・備前・備中などと住所を切り替えた作があり、これらが同人によるものか否かは検討の余地が残るとして、説示はいずれも断を避けている。 作風として説示が繰り返し挙げるのは末相州風と末備前風の二様であり、同一の系のうちにこの両者が併存する点が判別の鍵となる。地鉄は板目に杢目・流れ肌を交え、肌立ちごころとなって地沸がつき、地景が頻りに入る。刃文は焼幅広く、のたれに小互の目・小丁子や尖り刃を交え、足・葉が盛んに入り、荒めの沸を交えて砂流し・金筋がかかり、匂口の明るいものが多い。中には中直刃を基調に互の目・尖り刃を交え、飛焼が頻りに加わって棟焼も総体にかかり、皆焼となる作がある。一方で太直刃調に小互の目を交える穏やかな直刃出来もみられ、直刃と乱れの両様を焼き分ける。帽子は乱れ込んで尖りごころとなり、あるいは小丸に掃きかけて返る。彫物を得意とし、草の倶利迦羅・梵字・棒樋・添樋などを施した作が伝わる。造込みは庵棟の鎬造を主とし、先反りつき大鋒に延びた豪壮なものから、反り浅い中鋒の尋常な姿まで幅がある。代の判別にあたっては、二字銘を初代の作とみるなど、銘のかたちと地刃の冴えとを併せて見るのが説示の示すところである。 鑑定の要点は、肌立つ板目鍛えに地沸・地景の加わる地鉄と、のたれ・互の目に沸を伴って砂流しのかかる刃取り、さらに皆焼を交える作のあることに置かれる。住所銘や年紀を切った作が多く、作刀地を明記した刀工銘や天正八年紀のごとく、資料としての価値の高い在銘作が伝わる点も本系の特色である。代表作には、若州小浜での所伝を裏づける在銘の刀のほか、備後国西条や備中松山など他国で鍛えた作があり、宮興盛のもとで天正五年に作刀した一口など、他国における活動を示す好資料も含まれる。彫物に長じた一面は、相州風よりむしろ平安城長吉などに近いと評され、両者の関係が問われることもある。末相州の流れを受けつつ末備前風をも併せ、若狭の地にあって戦国期から江戸期へと長く続いた一系として位置づけられる。
NTHKの中心的な鑑定書で、相応の出来を備えた作に発行されます。在銘作は銘の正真を、無銘作は審査員による刀工・流派の極めを示します。点数を記す詳細な審査表が付されます。
NTHK(日本刀剣保存会)は、NBTHK(1948年設立)に先立つ1910年に創立された、日本で最も古い刀剣鑑定団体です。長く会を率いた会長の没後、NTHKとNTHK-NPOの二つに分かれ、いずれも審査を続けています。NTHKの鑑定書は、点数と審査員の所見を併記する詳細な審査表が特徴で、特に無銘作の極めに定評があります。
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