浜野政随 (Hamano Shōzui)、 初代。浜野派の祖である政随は、前ページの系図に記載された奈良利寿(Toshinaga)の門人でした。幼名は「太郎兵衛」(Tarōbei)で、元禄9年(1696)に生まれました。利寿のもとでの修行を終えた後、彼は奈良派を離れ、自身のキャリアにおいて大きな成功を収めました。彼の流派は、門人の数や町彫運動への影響力において、横谷派に比肩するほどの実力を持っていました。端的に言えば、彼は横谷派と奈良派の様式に杉浦乗意の解釈を組み合わせました。つまり、高彫色絵や象嵌を用いながらも、奈良派よりも大きなモチーフを扱い、薄肉彫や肉合彫を加えて豊かに表現しました。題材の選択に関しては、様々な歴史的、叙事的、世俗的、人物的な主題のほか、多種多様な動植物を選びました。奈良三作(奈良利寿、杉浦乗意、土屋安親)に加えて、政随は奈良派が生み出した四番目の偉大な名人、いわゆる「奈良四天王」の一人に数えられています。しかし、政随と乗意は、同時代の利寿や安親とは約30年の開きがあるため、このグループの中ではやや離れた一対を成していたことは言及しておく必要があります。銘に関しては、「浜」(Hama)には常に旧字体の(濱)を用い、「随」(zui)もまた簡略化されていない字体(隨)で切られています。『刀装小道具講座』では、「政随」の文字は当時おそらく和訓の「Masayuki」と読まれており、音読みが広く普及したのは近年のことではないかと推測しています。ちなみに、『刀装小道具講座』は1972年に出版されました。しかしながら、後続の各代の名は通常、和訓で引用されます。 政随は「乙柳軒」(Otsuryūken)*49、「味墨」(Miboku)、「龝峰斎」(Shūhōsai)、「遊壷亭」(Yūkotei)、「圭竇」(Keitō)、「圭竇林」(Keitōrin)など、十数以上の号を使用しました。「乙柳軒」と「味墨」の号は、後に浜野宗家の絵師たちにも使用されましたが、門人がこれらの号を銘打つことは許されていなかったと言われています。浜野政随は明和6年(1769)10月26日、74歳で没しました。彼は東京の台東区にある永久寺(Eikyū-ji)に葬られています。伝承によれば2代兼随によって建てられたという浜野家の墓石は、今も現存しています。図13:浜野政随 13.2 浜野兼随(Hamano Kaneyuki)、2代
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町彫 · 武蔵
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浜野政隨は、元禄九年(1696)に生まれ、奈良利寿門の逸材で、通称を太郎兵衛という。多くの子弟を育成し、浜野派という町彫の主要な門流を形成して一家をなした。嫡流は二代目兼隨、三代目鋪隨、四代目政信、五代目政芳と続き、また矩随をはじめとする有力な門人を多数養成した。乙柳軒・味墨・閑径・驪風堂・遊壺亭・穐峰斎・半圭子・一瞬庵など多くの別号を持ち、明和六年(1769)に七十四歳で没した。当時の江戸金工界にあっては横谷派と拮抗する門流として栄えた。
政隨の作風は、師である利寿の作風を継承しながらも乗意、安親の作風を取り入れて多岐にわたる。人物などを大図に描写した高肉彫を得意とし、大胆と細心を併用し、肉置きも主題の高肉彫に乗意風の肉合彫を加えるなど独得の彫法をあみだしている。作域は広く、鉄地、赤銅、四分一、素銅、朧銀など多様な素材を用い、高彫、鋤出彫、肉合彫、片切彫、石目地など、卓越した技術であらゆる彫技をこなす。晩年のものは豪快な高彫りを駆使した政隨独自というべき雄渾な作品を多く残している。鐔においては、竪丸形、撫角形、変り形など、さまざまな形状を手がけ、金、銀、赤銅、素銅、山銅などを用いた象嵌色絵を施し、その表現は写実的で、細部に至るまで鏨がよく行き届いている。小柄においては、朧銀地、素銅地、赤銅石目地などを用い、高彫色絵を施し、老松に繋がれた猛牛、流水に時鳥、老木に月など、趣のある題材を力強く表現している。目貫においては、素銅地、金地などを用い、容彫、色絵を施し、香木に銘を記してその品位を誇るなど、趣向を凝らした作品も見られる。拵においては、虫尽し金具など、意匠を凝らした総金具の作例があり、研出鮫鞘を用いて華麗に纏められている。
『江戸金工名譜』に「世に雷鳴す」とあるように、『奈良四天王』の一人として利寿・乗意・安親と並んで高名を馳せ、その技術は高く評価されている。装剣奇賞には「手強きを好みて気象を現わし、さっぱりとして勢あり」[[c:1]]と評されるように、大胆な構図と繊細な彫技を融合させた作風は、江戸趣味ともいえる情緒豊かな作風として高く評価されている。
政随の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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町彫 · Edo
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浜野派は江戸時代中期に奈良利寿の門人であった浜野政隨を祖とする装剣金工の一派である。政隨は通称を太郎兵衛といい、奈良四天王の一人として高名を馳せ、江戸金工名譜に「世に雷鳴す」と評される逸材であった。乙柳軒・味墨・閑径・驪風堂・遊壺亭・穐峰斎・半圭子・一瞬庵など多くの別号を有し、多数の門人を育成して町彫の主要な門流を形成し一家をなした。四代正信は乙柳軒味墨の号を継承し、政隨の伝統を継承している。また越後村上出身の桂野赤文は、青年時代に出府して浜野家に学び、のちに遊洛斎の号を用いたことから京都での修業も推測され、庄内藩酒井家の抱え工として活躍した。 浜野派の技術は大胆な高肉彫・鋤出彫・肉合彫・片切彫等あらゆる技法に長じており、その技量は極めて高く評価される。政隨の作には金銀の芋継地に容彫で韋駄天疾駆鬼を表したものや、金無垢地に銀と赤銅の置金を施した容彫で仁王像を表したものがあり、肉取りが巧みで量感に富み、題材の力強さを見事に表現している。その彫口には後藤上代の作を範としたとみられる落ち着きある品格が備わっている。四代正信の作には虫尽総金具の大小拵があり、銀四分一の石目地に高彫と据文色絵を施した各種の虫の図が揃っており、華麗かつ入念な仕上がりを示している。 桂野赤文の作風は土屋安親を手本として研鑽を積んだことが知られ、鐔を多く制作し、鉄と赤銅の地金に高肉彫形式で色絵を施すことを得意とした。片切彫・肉合彫・象嵌等の技法も用い、銘文には郷里越後の書家亀田鵬斎流の草書体を用いている。波千鳥図鐔では安親を手本とした題材を鉄地に鋤出による高肉彫で堂々と表し、千鳥の眼と足にのみ金銀の象嵌を施して画面全体に締まりと動きを与えている。柔軟な鏨使いながらも力強さを感じさせるその彫口は赤文独特のものであり、桂野家史に「生気躍動」「巧緻」と評されるその作風を顕示している。 詳しく見る →
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