説明

Stock number:KA-070622Paper(Certificate):[N.B.T.H.K] Juyo TokenCountry・Era:Musashi(Tokyo)・Late Edo period 1848Blade length(Cutting edge): 69.1cmCurve(SORI): 2.0cmWidth at the hamachi(Moto-Haba): 3.15cmThickness at the Moto-Kasane: 0.73cmWide at the Kissaki(Saki-Haba): 2.30cmThickness at the Saki-Kasane: 0.55cmHabaki: Two parts, gold HabakiSword tang(Nakago):Unaltered,O-Sujikaiyasuri with Keshoyasuri file patternRivet Holes(Mekugiana): 1Registration Card: Miyazaki【Additional Information】【重要刀剣図譜より】 【In Japanese】形状鎬造、三ツ棟、身幅広く元先の幅差まで目立たず、重ねやや厚く、平肉よくつき、反りやや深く、腰反り風となり、中鋒延びる。鍛板目肌ややつみ、地沸厚くつき、地景入る。刃文総じて焼き高く、互の目丁子・互の目・小のたれ・尖りごころの刃など交じり、足太く入り、葉交え、匂口深く、沸強くつき、まま叢づき、湯走り・飛焼さかんにかかって皆焼風となり、ほつれ・砂流し・金筋・沸筋目立って入り、上半は一段と働きが強く行草に焼崩れる。帽子直ぐ調にさかんに掃きかけ、表は火焔風となり、共に尖りごころに長く返る。茎生ぶ、先丸い栗尻、鑢目大筋違に化粧つく、目釘孔一、指裏目釘孔上に年紀を二行に切り分け、目釘孔下茎中央に太鏨やや大振りの長銘と花押があり、表は註文主と駐鎚地及び刻印を二行に切り分ける。説明直胤は、安永八年に出羽国山形に生まれ、本名を庄司(荘司)箕兵衛(美濃兵衛)と称し、大慶と号した。文政四年五月には筑前大掾の受領銘があり、嘉永元年に上洛して美濃介に転じている。彼は若年の折に江戸に出て、水心子正秀の門に入り、後に、師と同様に秋元候に仕え、細川正義と共に水心子門下の逸材となった。水心子入門の時期については明らかでないが、彼が二十三歳の時の作刀に「庄司直胤 寛政十三年正月日」の銘があることから、これより二、三年前の寛政十、十一年頃と推定され、文化初年頃に独立したと考えられる。安政四年五月二十七日、七十九歳で歿している。この刀は、身幅が広く、元先の幅差まで目立たず、重ね厚で平肉がよくつき、鋒も延びるなど、時代色をよく示した重厚な造込みであり、棟を三ツ棟とし、刃文は刃中や刃境の働きが平地全体に広がって皆焼風となり、沸づきが強く、処々叢づき、帽子もさかんに掃きかけ、火焔風になるなど、相伝色を色濃く表した豪壮な一口である。本作は、美濃介受領直前と考えられる時期に京都よりさらに足を伸ばした地で作刀したもので、銘文にある太田政方は代々続く鉄山師であり、その父太田辰五郎政恭は豪農の篤志家としても知られ、飢餓救済の功労として代々の帯刀が免ぜられたと伝えられている。また、父政恭が直胤に註文した文政八年紀の刀が現存し、天保八年には直胤が備中千屋の太田政恭邸まで訪問して制作した刀が第三十回重要刀剣に指定されているなど、直胤と鉄山師太田家との緊密な関係が窺われ、本作も両者を結びつける重要な歴史資料のひとつといえ、直胤の動向を知る上でも頗る貴重な一品である。

Katana[Fujiwara Naotane(Taikei Naotane)][N.B.T.H.K] Juyo Token
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Katana[Fujiwara Naotane(Taikei Naotane)][N.B.T.H.K] Juyo Token

売却済

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仕様

長さ

69.1 cm

反り

2 cm

元幅

3.15 cm

先幅

2.3 cm

作者について

Suishinshi Masahide Naotane直胤

3 重要美術品1 御物1 特別重要刀剣35 重要刀剣

大慶直胤は水心子正秀第一の門人にして、師に次ぐ新々刀の中心的存在である。安永に出羽国山形に生まれ、通称を庄司箕兵衛、号を大慶といい、若年の折に江戸に出て正秀の門に入り、師同様に秋元侯に仕え、細川正義と共に水心子門下の逸材となった。二十三歳の作刀に「庄司直胤」と寛政十三年の年紀があることから、説明書は入門をこれより数年前、独立を文化初年頃とする。文政四年頃に筑前大掾を受領し、嘉永元年に上洛して美濃介に転じ、約五十年に亘る作刀ののち安政四年七十九歳で歿した。正秀が復古刀論の理論家であったのに対し、直胤はその実践者であり、説明書はその技術が師を凌ぐに至ったと評し、ある相州伝の刀について「その技術が師を凌ぐと評せられた」と記す。 本工の本領は備前伝で、説明書はこれを彼の得意とするところとし、端的に「丁子乱れの巧みさは新々刀第一の定評がある」と述べる。よくつんだ小板目、時に梨子地風の地に丁子乱れを焼き、これに角張った角互の目・尖り刃・互の目を交え、足は長く、しばしば刃先に抜けるほどに入る。総体に後期長船の逆がかりを示して丁子も逆足も寝かせ、匂勝ちに小沸つき、匂口明るく冴える。姿は鎌倉の太刀を彷彿とさせ、腰反りないしやや高く中鋒となり、説明書はその角がかった刃と逆がかりを、鎌倉後期長船の景光・兼光を意識した範と読む。 この刃の下にあって終始変わらぬのが地鉄である。よくつんだ小板目に地沸つき、最上の備前伝では腰元に乱れ映りが鮮明に立ち、上作では映りが刃の焼頭に繋がる。新々刀には本来の古刀の映りはなく、ゆえに乱れ映りを意図して甦らせたこと自体が古備前への遡りの証で、説明書はこれを長船をねらいとした証として特筆する。同時に、これが古刀ではなく新々刀である所以についても明快で、兼光・景光に倣ったと極められた備前伝の刀について「純然たる匂出来ではな」く、全体に沸づくとし、これを「古作と新々刀との相達」と評する。帽子は乱れ込んで先尖りごころに掃きかけ返り、あるいは直ぐに小丸となる。 直胤は古刀各伝を手がけ、その記録は明瞭な調子に分かれる。賞される第二の手は相州伝で、備前伝より稀にして正宗・貞宗・志津に範を求める。流れて大杢目を交えた板目、上作では独特の渦巻肌を交えた地に、説明書がこれを相伝の見どころとする地に、湾れに互の目を交え、地沸厚く地景入り、沸荒めに叢となり、砂流し・沸筋縞がかって金筋長く入る。ある相州伝の脇指を説明書は放胆として、その叢づく沸と頻りなる掃きかけに「野趣が感ぜら」れるとする。第三の小調子として、より穏やかな大和の手と直刃が残る。ある天保の刀を本工に比較的珍しいとし、直刃調を浅くのたれて小互の目を交えるとし、真田家伝来の大小では大を大和伝の総柾鍛えに相州伝の湾れ・互の目を加味したものとして、一刀に二伝を交える。在銘にして年紀の多い工ゆえ、直胤における鑑定の問題は極めにあらず、その位置にある。 彼を分かつのは、極めの自ら言うところである。明るい乱れ映り、角互の目と逆足を伴う逆がかりの丁子、そして意図的な長船写しが、映りも逆がかりも持たぬ一般の新々刀から彼の備前伝を分かち、相州伝は独特の渦巻肌と叢づき縞がかる沸の働きによって示される。彼は正秀の直下に立ち、自らの門人の先に立つ。刀身の彫物はしばしば水心子門下の彫物師本庄義胤の手になり、高弟澤原重胤らがその大慶の作風を幕末へと伝える。説明書はその上作を同工の筆頭に置き、ある備前伝の刀を「彼の備前伝の作中の筆頭に置くべきものである」とし、茎に和歌を切った一刀を傑作中の傑作と称え、天保の相州伝の刀を同工の右翼として師の相州伝をも凌ぐとする。 収集の観点では、直胤は新々刀復古の在銘の大名跡である。藤代の極めは最上作、刀剣銘鑑の位列もその上位近くにある。国宝・重要文化財はなく、その指定は戦前の重要美術品と現代の特別重要刀剣・重要刀剣を通じ、約四十口の指定作がいずれも在銘で文化から嘉永の年紀をもって残る。その作は来歴と銘文の確かな名家に伝わる。真田家伝来の大小、太政殿下の台命により造られて皇室に伝わる御太刀の副作、津藩の渡辺脩が注文した刀、そして製鉄業の太田政恭のために良質の原材料を吟味して鍛えられ、説明書が「会心の一口」と称える一刀がある。戦前の重要美術品には井手慶四郎・須藤宗次郎・鈴木清助の旧蔵がある。指定文化財として封じられた作はなく、また作刀が多いため、在銘の直胤は古刀の大名跡よりは世に出やすいが、その最上の特別重要刀剣・重要刀剣はなお取引されるより秘蔵されることが多い。私蔵の一口が収集家の前に現れるのは時折のことであり、説明書が新々刀第一とする備前伝の確かな傑作ともなれば、世に出れば一個の画期である。

刀剣商

銀座誠友堂

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