室町期の長船は二層の商いを営んだ。兵卒のための数打ち物と、注文主の俗名を銘に負う注文打ちである。末備前であっても、祐定の最上作は一派のいかなる時代の作にも劣らない。
骨董日本刀 脇差 銘 備州長船忠光 備州長船宗光(合作銘) 明応四年二月日 日本美術刀剣保存協会(NBTHK)保存刀剣鑑定書付 【解説】 本作は、室町時代後期の明応四年(1495年)二月に、忠光(ただみつ)と宗光(むねみつ)の二工によって打たれた脇差です。二人の刀工が一本の刀を共同で制作することを「合作(がっさく)」と呼び、通常は師弟や親子、あるいは一門の有力工同士で行われます。 「忠光」の名は文明から天正年間(1469年〜1591年)にかけて約120年にわたり受け継がれ、数代が存在します。本作の年紀と各代の活躍時期を照らし合わせると、明応・永正期(1492年〜1521年)に活躍した二代目忠光、通称「彦兵衛尉忠光」の手によるものと推測されます。 また、共銘(ともめい)を切る「宗光」も同じく備前長船派の刀工であり、二代忠光と同時代に活躍しました。両工の合作銘は、長船派内における緊密な協力体制を示す貴重な資料として、非常に高く評価されています。 室町時代後期(1492年〜1569年頃)に備前国(現在の岡山県)で活動した刀工群は、総称して「末備前(すえびぜん)」と呼ばれます。忠光派はその中でも長船派の主流をなす名門であり、代々隆盛を極めました。 この時期は戦国時代の真っ只中にあたり、各地の諸大名による武器の需要が急増したため、備前では数多くの刀剣が打たれました。群雄割拠の乱世に鍛えられた一振りを持つことは、歴史的にも大きな意義があります。本作も当時の武士によって注文され、実際に戦場へと携行された可能性を秘めた、実戦の気風を今に伝える逸品です。 【備前長船派の歴史】 長船派は、鎌倉時代中期の光忠(みつただ)を始祖と伝えます。備前国の中でも最大級の流派であり、時の有力大名や名だたる武将から数多くの注文を受けました。その作品は「長船物(おさふねもの)」として武士たちに深く愛されました。 歴代の刀工の中でも、長光・真長・景光の三工は「長船三作」として、また長光・兼光・長義・元重の四工は「長船四天王」として、その名を歴史に刻んでいます。 備前国が古来より刀剣造りの中心地として栄えた背景には、その地理的条件があります。中国山地から産出される良質な原料の「鉄砂(てっしゃ)」、そして作業に不可欠な水と炭を供給する吉井川の存在が、高品質な鋼の精錬を可能にしました。 備前伝の源流は平安時代末期の「古備前(こびぜん)」に遡ります。長船派はその伝統と高度な技術を継承し、鎌倉中期以降、日本刀の聖地として不動の地位を築き上げたのです。 本刀は、日本美術刀剣保存協会により「保存刀剣」として鑑定・承認された確かな真作です。
Certificate reading — 銘 忠光作宗光作 明応三年二月日























備前伝 · 備前
現在234点販売中
備前国邑久郡長船の地に興り、鎌倉時代中期から室町時代末期に至るまで連綿と鍛刀を続けた、刀剣史上最大の流派である。事実上の祖は光忠で、近忠の子と伝えるが近忠の作刀が知られないため、長船本流の起点はこの工に置かれる。古伝はその源を古備前正恒の一類が長船に移り住んだことに求め、光忠はその流れを承けて一門を興したと説く。すなわち本流派は、古備前の地盤の上に、丁子を主調とする華麗な作風をもって自立した備前鍛冶の本系である。光忠の下に長光、真長、景光らが輩出し、以後、相伝備前の兼光・長義・元重、室町初期の応永備前を経て末備前に至るまで、備前伝の中核を担い続けた。 作風は備前伝を基盤とし、よく錬れて杢を交えた板目に地沸が微塵につき、地景が細かに入り、地に乱れ映りが鮮明に立つ鍛えを共通の地とする。この乱れ映りこそ、在銘無銘を問わず一門の作を備前へ繋ぎ止める最も確かな標である。刃文には世代ごとの軸がある。草創の古長船にあって光忠は蛙子丁子を看どころとし、子の長光は頭の丸いふくらみのある丁子を加え、孫の景光は片落ち互の目を完成して逆がかりの足を看どころとした。この光忠、長光、景光の三代が長船嫡流の背骨をなし、近景がその影として景光をほぼ完璧に映し、真長は同じ地に締まる匂口の直刃を得意とした。南北朝期に入ると兼光が嫡流を承けつつのたれ主調の大模様を加え、相州伝を摂取した相伝備前の作風が現れる。長義は耳形の刃を看どころに兼光以上に相州伝を強調し、長重と兼長がこれに連なり、義景は匂口の沈むところに、元重は焼頭の揃った角ばる刃と青江気質に、それぞれ別系の個性を示した。体配もまた時代を映し、鎌倉の腰反り高い太刀から、南北朝の身幅広く大鋒の延文貞治型へ、さらに応永備前では古作への復古を志して優美な太刀姿と丁子刃が甦る。康光と盛光を双璧とする応永備前は、腰の広く開いた互の目とローソクの芯と称する尖り返る帽子を看どころとし、その腰開き互の目と棒映りは末備前へと受け継がれた。長光景光以来の梵字、三鈷剣、倶利迦羅、八幡大菩薩などの刀身彫もまた、末備前まで絶えず継承された一門の標である。 鑑定にあっては、まず鮮明な乱れ映りで一門を備前と読み、次に世代と系統の看どころで工を分かつ。蛙子丁子は光忠、丸い頭の丁子は長光、逆がかる片落ち互の目は景光、のたれと角互の目は兼光、耳形の刃は長義、角ばり逆がかる刃と蝉の羽根の肌は元重、ローソクの芯の帽子は応永備前という具合に、看どころが系統と時代を指し示す。嫡流の光忠、長光、景光、兼光は藤代の最上作に列し、なかでも長光は重要文化財の指定数が全刀工中最多で、嫡流の作には名物大般若長光や小龍景光をはじめ、織田信長、徳川家康、上杉謙信ら天下を握った者の手を経た作が多い。相伝備前の長義や兼長、応永備前の康光や盛光もそれぞれ重きをなし、別系の元重もまた南北朝備前の大きな名を保つ。嫡流の在銘作が市に現れることは稀で、大半は大磨上無銘の極めとして伝わるが、長光のごとく銘を惜しまなかった工の作はなお蒐集家の手の届く範囲にある。後世への影響は計り知れず、本流派の作風と刀身彫の伝統は末備前を通じて室町備前の主流をなし、備前伝そのものの規範となった。 詳しく見る →
室町期の長船は二層の商いを営んだ。兵卒のための数打ち物と、注文主の俗名を銘に負う注文打ちである。末備前であっても、祐定の最上作は一派のいかなる時代の作にも劣らない。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.
骨董日本刀 脇差 銘 備州長船忠光 備州長船宗光(合作銘) 明応四年二月日 日本美術刀剣保存協会(NBTHK)保存刀剣鑑定書付 【解説】 本作は、室町時代後期の明応四年(1495年)二月に、忠光(ただみつ)と宗光(むねみつ)の二工によって打たれた脇差です。二人の刀工が一本の刀を共同で制作することを「合作(がっさく)」と呼び、通常は師弟や親子、あるいは一門の有力工同士で行われます。 「忠光」の名は文明から天正年間(1469年〜1591年)にかけて約120年にわたり受け継がれ、数代が存在します。本作の年紀と各代の活躍時期を照らし合わせると、明応・永正期(1492年〜1521年)に活躍した二代目忠光、通称「彦兵衛尉忠光」の手によるものと推測されます。 また、共銘(ともめい)を切る「宗光」も同じく備前長船派の刀工であり、二代忠光と同時代に活躍しました。両工の合作銘は、長船派内における緊密な協力体制を示す貴重な資料として、非常に高く評価されています。 室町時代後期(1492年〜1569年頃)に備前国(現在の岡山県)で活動した刀工群は、総称して「末備前(すえびぜん)」と呼ばれます。忠光派はその中でも長船派の主流をなす名門であり、代々隆盛を極めました。 この時期は戦国時代の真っ只中にあたり、各地の諸大名による武器の需要が急増したため、備前では数多くの刀剣が打たれました。群雄割拠の乱世に鍛えられた一振りを持つことは、歴史的にも大きな意義があります。本作も当時の武士によって注文され、実際に戦場へと携行された可能性を秘めた、実戦の気風を今に伝える逸品です。 【備前長船派の歴史】 長船派は、鎌倉時代中期の光忠(みつただ)を始祖と伝えます。備前国の中でも最大級の流派であり、時の有力大名や名だたる武将から数多くの注文を受けました。その作品は「長船物(おさふねもの)」として武士たちに深く愛されました。 歴代の刀工の中でも、長光・真長・景光の三工は「長船三作」として、また長光・兼光・長義・元重の四工は「長船四天王」として、その名を歴史に刻んでいます。 備前国が古来より刀剣造りの中心地として栄えた背景には、その地理的条件があります。中国山地から産出される良質な原料の「鉄砂(てっしゃ)」、そして作業に不可欠な水と炭を供給する吉井川の存在が、高品質な鋼の精錬を可能にしました。 備前伝の源流は平安時代末期の「古備前(こびぜん)」に遡ります。長船派はその伝統と高度な技術を継承し、鎌倉中期以降、日本刀の聖地として不動の地位を築き上げたのです。 本刀は、日本美術刀剣保存協会により「保存刀剣」として鑑定・承認された確かな真作です。
Certificate reading — 銘 忠光作宗光作 明応三年二月日























備前伝 · 備前
現在234点販売中
備前国邑久郡長船の地に興り、鎌倉時代中期から室町時代末期に至るまで連綿と鍛刀を続けた、刀剣史上最大の流派である。事実上の祖は光忠で、近忠の子と伝えるが近忠の作刀が知られないため、長船本流の起点はこの工に置かれる。古伝はその源を古備前正恒の一類が長船に移り住んだことに求め、光忠はその流れを承けて一門を興したと説く。すなわち本流派は、古備前の地盤の上に、丁子を主調とする華麗な作風をもって自立した備前鍛冶の本系である。光忠の下に長光、真長、景光らが輩出し、以後、相伝備前の兼光・長義・元重、室町初期の応永備前を経て末備前に至るまで、備前伝の中核を担い続けた。 作風は備前伝を基盤とし、よく錬れて杢を交えた板目に地沸が微塵につき、地景が細かに入り、地に乱れ映りが鮮明に立つ鍛えを共通の地とする。この乱れ映りこそ、在銘無銘を問わず一門の作を備前へ繋ぎ止める最も確かな標である。刃文には世代ごとの軸がある。草創の古長船にあって光忠は蛙子丁子を看どころとし、子の長光は頭の丸いふくらみのある丁子を加え、孫の景光は片落ち互の目を完成して逆がかりの足を看どころとした。この光忠、長光、景光の三代が長船嫡流の背骨をなし、近景がその影として景光をほぼ完璧に映し、真長は同じ地に締まる匂口の直刃を得意とした。南北朝期に入ると兼光が嫡流を承けつつのたれ主調の大模様を加え、相州伝を摂取した相伝備前の作風が現れる。長義は耳形の刃を看どころに兼光以上に相州伝を強調し、長重と兼長がこれに連なり、義景は匂口の沈むところに、元重は焼頭の揃った角ばる刃と青江気質に、それぞれ別系の個性を示した。体配もまた時代を映し、鎌倉の腰反り高い太刀から、南北朝の身幅広く大鋒の延文貞治型へ、さらに応永備前では古作への復古を志して優美な太刀姿と丁子刃が甦る。康光と盛光を双璧とする応永備前は、腰の広く開いた互の目とローソクの芯と称する尖り返る帽子を看どころとし、その腰開き互の目と棒映りは末備前へと受け継がれた。長光景光以来の梵字、三鈷剣、倶利迦羅、八幡大菩薩などの刀身彫もまた、末備前まで絶えず継承された一門の標である。 鑑定にあっては、まず鮮明な乱れ映りで一門を備前と読み、次に世代と系統の看どころで工を分かつ。蛙子丁子は光忠、丸い頭の丁子は長光、逆がかる片落ち互の目は景光、のたれと角互の目は兼光、耳形の刃は長義、角ばり逆がかる刃と蝉の羽根の肌は元重、ローソクの芯の帽子は応永備前という具合に、看どころが系統と時代を指し示す。嫡流の光忠、長光、景光、兼光は藤代の最上作に列し、なかでも長光は重要文化財の指定数が全刀工中最多で、嫡流の作には名物大般若長光や小龍景光をはじめ、織田信長、徳川家康、上杉謙信ら天下を握った者の手を経た作が多い。相伝備前の長義や兼長、応永備前の康光や盛光もそれぞれ重きをなし、別系の元重もまた南北朝備前の大きな名を保つ。嫡流の在銘作が市に現れることは稀で、大半は大磨上無銘の極めとして伝わるが、長光のごとく銘を惜しまなかった工の作はなお蒐集家の手の届く範囲にある。後世への影響は計り知れず、本流派の作風と刀身彫の伝統は末備前を通じて室町備前の主流をなし、備前伝そのものの規範となった。 詳しく見る →
室町期の長船は二層の商いを営んだ。兵卒のための数打ち物と、注文主の俗名を銘に負う注文打ちである。末備前であっても、祐定の最上作は一派のいかなる時代の作にも劣らない。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.