粟田口則国の記録の中心には、生ぶ茎二字有銘の太刀が立つ。附帯する古鞘の由緒書きには北畠顕家が後醍醐天皇より拝領した旨が記され、平成十年に重要刀剣、同十二年に特別重要刀剣の指定を受けた。則国は藤馬允と称し、粟田口六人兄弟の長兄国友の子にして左兵衛尉国吉の父、年代は嘉禎頃(一二三五〜三八)と伝える。父や叔父たちの御番鍛冶の世代と、国吉・吉光の短刀の時代とを繋ぐ世代であり、戦前の認定記録には「隠岐の番鍛治を勤めたという」所伝も見える。各説明書が一様に説くところはひとつ、有銘確実な遺例は太刀・短刀ともに僅少であるということである。
現存の大半を占める短刀は、平造・三ッ棟、身幅尋常にして内反りがつく。鍛えはよく約んだ小板目で、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入る。その上に小沸の穏やかな直刃を匂深く焼き、小互の目や浅いのたれ、小足を交える。刃中には金筋・砂流しが細かにかかり、帽子は直ぐに品よく小丸に返り、時に掃きかける。表裏には護摩箸を彫り、素剣を伴うことが多い。その護摩箸は間隔が狭く棟に寄って彫られ、説明書はこれを「一派の各工に共通する手癖」と述べる。やや大振りの二字銘を負う黒田家伝来の短刀は、出来映のみならず地・刃・姿態共に健やかな「同工屈指の優品」と評された。
地鉄はまさに一派の名を負う。第四十六回重要の生ぶ無銘太刀について、説明書は小板目が極く約み、微塵の地沸によって「潤いのある梨子地状の肌合」となり、沸映りが立ってかねがよく冴えると記す。在銘太刀は板目に杢を交えて肌合がやや大きいが、総体によく錬れて温潤であり、「流石に粟田口物の地がねの美点をよく表し」ていると述べられ、地には淡い地斑映り風が立つ。
説明書は作風を形で分ける。太刀には直刃調に小乱れの交じるものがあるが、短刀は「穏雅な直刃が一般的」である。稀な在銘太刀の手はこうである。細身で腰反り高く、踏張りがついて小鋒に結ぶ典雅な姿に、区上を僅かに焼落す。働きは中程より下半に集まり、小乱れに小丁子・小互の目を交え、上は穏やかな直刃、帽子はほぼ直ぐに焼詰めごころとなる。佩表の細く短い腰樋は古来「忘れ樋」と称され、鎌倉期の太刀にしばしば見られるものである。銘は二字、短刀にはやや大振りに切り、銘字の国が子の国吉に近似する点が鑑定上注目される。記録には本阿弥家の極めが連なる。寛永十六年の光温折紙、正徳三年の光忠折紙、十九代忠明と思われる朱銘であり、これらは後世の鑑定家による極めであって在銘ではない。幕末の石堂運寿是一が則国作を磨上げた旨を茎に切り付けて残した刀も、「資料的に大変珍重される」一口と評される。
同門の中での位置は、向きの異なる二つの観察で定まる。短刀の作風について説明書は「国吉、吉光に共通しているが、比較的沸が強い」と述べ、朱銘の一口についても「刃中の沸が強い」と記す。しかしその強さが刃文を乱すことはない。無銘の極めはむしろ抑制から導かれ、第四十六回の太刀については「刃文の状がさまで小模様に複雑に乱れない点が同工の有銘作に繋がる」と説かれた。一派の乱れの手は叔父国安にあり、則国自身の小乱れは太刀の、それも下半にのみ現れる。黒田家伝来の第二十回特別重要短刀が、直ぐ調に浅くのたれて小互の目を交えた乱れ主調の出来として特筆されるのは、それが例外なるがゆえであり、同工の作域を知る好資料とされる。
指定を受けた作は十五口。稀な在銘太刀のうち三口が重要文化財に指定され、内一口は国宝に昇格した。ほかに特別重要刀剣三口、重要刀剣六口、戦前の重要美術品三口を数え、刀工大鑑の評価額は三〇〇〇(上限三五〇〇)に及ぶ。国宝・重要文化財の三口は公の財として永く伝えられ、市場に出ることはない。記録ある所蔵には熱田神宮・京都国立博物館が見える。伝来もまた重い。在銘太刀の後醍醐天皇より北畠顕家拝領の古伝、藤巴紋散らしの合口拵を伴う筑前黒田家、寛永十六年の折紙を伴う伊予西条藩主松平家、戦前の重美短刀二口を蔵した毛利元道、さらに池田家の名が連なる。特別重要・重要の級は併せて九口に過ぎず、その多くは久しく同じ手に伝えられてきた。則国の作が市に現れることは稀であり、在銘の一口であれば、蒐集家が出会いうる最も稀な機会のひとつとなる。