粟田口国綱は鎌倉時代前期の京の工で、国友を長兄とする粟田口六人兄弟の末弟、藤六左近と称した。諸書は、後に北条氏の招きにより鎌倉に下向し、備前の国宗・助真とともに相州鍛冶草創の一人となったと伝える。同時にその遺例の乏しさをも記し、「現存する有銘確実なものは極めて少く、かの名物鬼丸国綱が代表的のもの」とする。銘は二字に「国綱」と切り、長大な大太刀には「鎌倉住藤六左近国綱」と切り「建長五年八月日」と年紀するものがあって、鎌倉期の唯一の年紀を伝える。
諸書は同工を一門の他工と截然と分かつ。粟田口物は一般に優美が真面目であるが、彼の姿態・鍛え・刃文は異色で、太刀姿は腰反り高く先で伏さらず、鍛えは板目が大きく肌立って地沸を厚く敷き、刃文は焼幅広く乱れに変化があって「刃沸が目立って強い」。「地刃がよく働く様は正に彼の真骨頂である」と評され、兄弟たちが精錬を旨とするところを、国綱は沸を前へ押し出し、来たるべき相模の力強い作風へ傾く。これが鑑別の核である。
地は締まった粟田口の鋼に地沸・地景を厚く湛え、大板目に肌立ち、研溜より水影が立って地斑映り風の乱れ映りに繋がる。刃は直刃調の浅いのたれに小乱れ・丁子・小互の目を交え、太い足・葉が入り、匂深く刃中厚く沸づき、金筋頻りに、砂流しかかり、処々刃縁ほつれ、打のけ・湯走りを交える。帽子は旧稿の要訂正点で、単なる穏やかな小丸ではない。特別重要刀剣の太刀では「帽子直ぐに小丸に僅かに返り、先少しく掃きかける」とあり、金象嵌銘の刀では掃きかけて焼詰めごころとなり、ものによっては乱れ込んで尖りごころに返る。掃きかける沸崩れの先こそ肌立ちと並ぶ同工の見どころである。
諸書は同工に二様ありとする。粟田口風のものと、それとは趣を異にして「姿が剛壮で地がねの肌立った」ものとである。鬼丸は後者の剛健な出来に属し、現存の在銘太刀の多くは前者で、鍛えは細かな小板目に締まり、刃も静かな直刃調となって公家の伝統を色濃く残す。鑑別では両様に通じる核がある。目立つ刃沸、烈しい金筋・砂流し、乱れ映り、そして掃きかける帽子である。静かな太刀の沈みごころの匂口は明るい備前と分かち、強い沸と肌立ちは兄弟たちの粟田口直刃と分かつ。
名声の核は鬼丸国綱である。その後の伝来は権力の歴史そのもので、諸家を歴て皇室に納まり、御物・天下五剣の一つとしてほとんど人目に触れぬまま伝わる。これと並んで諸書は、西高辻子爵家旧蔵の特別重要刀剣、会津松平家旧蔵の重要美術品を挙げ、重要文化財として日枝神社蔵の太刀を数える。磨上無銘の刀に施された本阿弥光遜らの金象嵌・金粉の極めは、本阿弥家が国綱極めをいかに重んじたかを物語る。
収集の観点では、国綱は粟田口の名の中でも屈指の稀少である。藤代の極めは最上作、白眉は諸家の重宝として伝わり、土佐山内家は金象嵌銘の刀を、仙台伊達家は近衛基熙より受けた太刀を秘蔵した。特別重要刀剣・重要刀剣の級はわずかで、重要文化財も少なく、白眉たる鬼丸は御物として動かない。個人蔵の在銘国綱は、鎌倉初期の刀を学ぶ者が出会いを望みうる最も稀なものの一つであり、その稀少さこそ、新藤五国光から相州の系へと続いたと伝える彼の相模下りの重みを物語る。