粟田口国安は鎌倉時代初期、山城国粟田口の刀工で、国友・久国・国安・国清・有国・国綱と続く名高い六人兄弟の三男にあたり、藤三郎と称した。説明書は兄の国友・久国と共に本工を後鳥羽院の番鍛冶に数え、銘鑑は活躍期を承久(一二一九〜二二)頃と伝える。粟田口に鍛冶が在住したことは鎌倉初期の説話集「宇治拾遺物語」に見えるとされ、六人兄弟は何れも技術が高いと記される。現存する在銘作は太刀に限られながら比較的多く、第三十一回重要刀剣指定の在銘短刀は、その存在が「極めて貴重」と評される。藤代の極めは最上作である。
その作は細身で腰反り高く小鋒に結び、先に行って伏しごころを帯びる時代の姿をよく示し、ある説明書はその体配を「優しい手弱女振り」と評する。刃文は小沸出来の小乱れを主調に、直刃調に小丁子・小互の目を交えた小模様で、金筋・砂流しが細かにかかる。乱れの間は押し詰まり、「乱れの間がつまったものが多い」とされ、小互の目が連れごころとなる点に至っては、大磨上無銘の一刀について「一派の中でも国安と特定することが可能」とまで記される。匂口は「国友と同様に匂口がうるむ」点を特色とし、焼頭の上には湯走りが交じって「本工の手癖」が明らかに窺われ、別の一刀では「焼頭に雁股状の打ちのけを見せ」、刃縁の雁股状の景色と匂口のうるみに同工の特色が見出される。帽子は直ぐに小丸、時に焼詰め、先は掃きかけごころとなる。
鍛えは二様に分かれ、説明書は「肌立つものと約むもの二様あり」と明記する。約む方は小板目がよくつみ、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入り、時に鎬寄りに淡く沸映りが立って、「同派特有の梨子肌」と呼ばれる肌合を呈し、この手は「久国に近い方の作風」と読まれる。肌立つ方は板目の肌目が立ち、地斑を交え、地景の目立つもので、説明書はこれを在銘作に結びつけて「本工在銘作には比較的板目の肌立ったものが多い」と説く。
この二様は銘の有無と緩やかに対応する。無銘の極め物の多くは梨子地風の精美な手で、本阿弥光遜の金粉銘、本阿弥光忠の金象嵌、元文三年(一七三八)の本阿弥光勇折紙など、本阿弥家の極めを伴って伝わる。評価は率直である。刃のしずんだ趣について、古い説明書は「見どころと云うよりはむしろ欠点である」とまで断じ、後の説明書はうるみごころを「同工の見どころの一つである」と数える。銘は二字銘に大小があり、「いずれも安の字に特徴がある」とされ、安の字のくずしが常に同じである点が銘の鑑定上の大きな見どころとなる。また極め物の姿について本間は「ままこの刀の様に幅広のものがある」と述べ、常の細身に対し剛壮な幅広の作の存することを認める。
粟田口一派の中で本工は乱れの手である。一派はのち則国から国吉・吉光へと続いて明るい直刃に傾くが、国安は押し詰まった小乱れとうるむ匂口を守る。姿は久国同様で、約んだ鍛えは久国に紛れるほど近づくが、連れごころの小互の目は一派の中で本工に特定を許す見どころであり、乱れの間のつまりとうるみは国友とのみ分かち合う。在銘短刀への評は端的で、「則国や国吉などにくらべると刃中がよく働いて」おり、粟田口物の味わいの深さを十分に見せるという。
指定を受けた作は二十三口。重要文化財三口は何れも在銘の太刀で、ほかに重要美術品五口、特別重要刀剣二口、重要刀剣十二口を数え、特重・重刀の級は併せて十四口にのぼる。記録の上では在銘九口に対し無銘十一口である。伝来の知られる作は十一口に及び、将軍徳川綱吉から尾張家四代徳川吉通への拝領刀(元禄十年の本阿弥光忠折紙付)をはじめ、尾張徳川家・津軽家・南部家・松平家・溝口家・細川家、さらに皇室の手を経る。現所蔵の知られるものは徳川美術館・東京国立博物館・佐野美術館、また日本美術刀剣保存協会に蔵され、私蔵は僅かである。重要文化財の三口は文化財として永く守られ、市に出ることはない。級の上で取引の可能な作はおよそ十五口にとどまり、その多くも蔵されて動かない。説明書自身が国安在銘の太刀を「まま見るところ」と記す通り、後鳥羽院の番鍛冶の作に廻り合う望みが絶えているわけではないが、重要刀剣の一口が市場に現れることは稀であり、その折はひとつの出来事となる。