二つの朝廷が争った六十年、刀身は長大化し、長船がその需要に応えた。兼光と長義の工房は実際に戦う国人層の武士に仕え、軍勢とともに相州風が届いて相伝備前が生まれた。
本備州長船秀光の太刀は福岡黒田藩52万3千石の伝来の貴重な太刀です。本太刀は備州長船秀光南北朝時代永和四年十月日(1378年)(644年前)の年紀の有る在銘のほぼ当時のままの生の姿が残った地刃健全な健やかな太刀です。太刀姿はいまだに元に充分踏ん張りがあり腰反りで反りが深く中切っ先で鎌倉時代の備前の素晴らしく良い太刀姿の再来の姿が南北朝末期永和頃の本太刀の素晴らしい良い太刀姿です。地金は板目肌に杢目肌を鍛え地沸が付き地には淡く映りを現し古調に見える地金を現し、彫は棒樋を丸留めに彫り見事です。刃紋は匂い本位に小沸の付いた小のたれに小互の目、尖り刃、腰の開いた互の目乱れ刃を焼き帽子は尖り心にはきかけて上手です。600年以上の時代の経過の為に秀光の字が不鮮明ですが特徴的な筆跡から秀光です、南北朝時代長船兼光系統以外を備前では小反り系統と呼び、秀光の太刀は国の重要文化財に指定もされている太刀も有る位上手で名工で小反り派の頭領鍛冶で代表刀工です。秀光の太刀は古来より最上大業物に選ばれており素晴らしく切れ味の良い太刀としてとして特に有名です。南北朝時代の太刀は後世に多くは寸法を短くする為にすり上げられたので在銘の生の太刀の現存作は大変少なく本秀光の太刀は貴重な太刀です。本太刀は豊臣秀吉の軍師として有名な黒田官兵衛の差料として国宝のへし切り長谷部の太刀と共に黒田家に伝わった名刀です。昔は黒田家の藤巴紋の付いた金無垢ハバキが付いていましたが残念ながら戦後の物資不足の時に金無垢のはばきのみ処分されたとのことで戦後の日本の苦しい時代の今では懐かしいエピソードです。最上大業物備州長船秀光の名刀を是非お楽しみくださいませ。




























備前伝 · 備前 · 1334-1372頃
藤代 上々作 · 刀剣大鑑 上位17%
現在1点販売中
備州長船秀光は、応安五年紀の小太刀と、本間による御物台帳に所載の明徳二年紀の太刀によって、南北朝時代末期の作が知られる。小太刀は昭和三十七年の第九回重要刀剣に指定されたもので、説明はこれを「備前小反派の秀光の小太刀である」[[c:2]]とし、「小反派の意味は明白でないが、南北朝時代の兼光門葉の人々を主とした呼称である」[[c:3]]と記す。また「秀光は応安年紀のものを初代として室町時代まで数代に及んでいるが、秀光有銘の小太刀は恐らくこの一刀に限られるであろう」[[c:4]]と述べている。
この小太刀は鎬造、三つ棟、反りやや浅く、大鋒となる。鍛えは板目肌に地沸よくつき、刃文は互の目丁子交り、小沸つき、小足入り、匂口しまりごころとなる。帽子は乱込み、先尖りごころに返る。表に棒樋と護摩箸、裏に棒樋と行の倶梨伽羅を彫り、説明は大きく延びた鋒を小太刀に必要な条件の一つとし、倶利迦羅を特色ある備前とする。銘については「銘は全体に細鏨で小さいが、これは小反物一般に通ずるやり方であり」[[c:5]]、僅かに打込んではいるが判読し得るという。
御物台帳所載の太刀は同じ小反派の家守の太刀と並べて記され、北条子爵家より明治天皇に献上されたものと伝来を記す。生ぶ茎、庵棟、先反りつき、小鋒の姿に、小板目よく詰んだ鍛えに乱れ映りが立ち、刃文は小乱に小互の目交じり、足・葉よく入り、匂深く小沸つく。表裏に棒樋を掻き、表腰に多聞天を浮彫する。解説は秀光を小反派中の上手とし、応安年紀の初代と同人の作で、その作中でも出色の一口とする。
このほか、秀光と極められた南北朝時代末期の無銘の刀一振が古刀の研究資料に収められている。
秀光の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
備前伝 · 備前
現在20点販売中
小反は、南北朝時代末期から室町時代初期にかけて備前長船の地に働いた一群の刀工を、血脈ではなく除外によって括った呼称である。すなわち兼光一門、長義、元重、大宮一門といった当時の長船の主立った系統のいずれにも直接の師弟関係を結ばぬ周縁の手を、まとめて一名のもとに集めたものであり、その名の意味するところは今日なお漠然としていると本会は率直に記す。秀光、家助、成家、家守、師光、守助らがこれに数えられ、銘鑑はおのおのを数代に立てて初代を鎌倉後期から建武・暦応の頃に置くが、確たる初代作を経眼せず、現存の有銘作はおおむね文和・貞治から永徳・明徳を経て応永一桁代に及ぶ。それゆえ各遺例は一手に確定的に帰すよりも、作風と年紀によって読まれるのを常とする。師光が倫光の子にして応永備前の盛光の父と伝えられ、家助が畠田派を承けて応永備前の一角をなすように、この一群は長船嫡流の華やかな本流とその次代の応永備前との間に、静かな周縁の地帯をなして横たわる。 この一派を貫く手は小模様の乱れである。兼光一門が太く円い互の目を焼くのに対し、小反の工はおおむね同じ趣を小さくこずんだ刃に収め、小のたれを本位として小互の目を連れごころに焼き、これに尖り刃、角ばる刃、腰の開いた互の目を交え、処々逆ごころを見せて、総じて小さくこずむ。足・葉よく入り、匂を主調にわずかに小沸つき、金筋・砂流しが細かに働き、丁子を交えてもなお控えめにとどまる。地鉄は板目に杢を交えて流れごころとなり、肌やや立って地沸細かにつき、地景が黒く沈み、時に地斑を交え、その上に淡い、あるいは鮮明な乱れ映りが立つ。短刀・平造の作では棒映り、直ぐ状の映りとなるものも見え、いずれにせよこの映りが、同時代の相州風の手から一派を分かち、備前の地に繋ぎ止める最も確かな標となる。帽子は刃文に従って乱れ込み尖りごころに掃きかけ、あるいは小丸に結ぶ。棒樋を掻き、梵字、護摩箸、倶利迦羅などを彫る作もある。一派の常を越えて、師光の至徳の太刀のように腰の開いた互の目に高低を見せて華やかに乱れ、応永備前を予兆させる作もあり、家守の応永の太刀のごとく重ね厚く先反りを加えて次代の姿に近づくものもある。 収集の観点から小反の物が求められるのは、何よりそれが資料として明瞭であるからである。鑑定の勘所は二つの敷居を分かつことにある。一つは兼光本流との別で、模様の小さくこずむ点と、やや控えめな作位とによってこれを読み、いま一つは応永備前との別で、腰の開いた互の目と棒映りのうちに次代の萌芽を見ながら、なお南北朝の古調の姿と抑えた焼きにとどまる点をもって分かつ。主要な工の格はおのずから別れ、師光は上々作に位し、秀光、家助、成家、守助、家守らは中上作の位を占める。在銘の作はおおむね生ぶで年紀を備えた太刀として遺り、成家のように大磨上無銘の刀によって主に知られる工もあるが、いずれの場合も、年紀の確かな南北朝の備前として頗る貴重とされる。伝来は概して薄いが確かで、黒田家、加賀前田家、庄内酒井家、皇室の手を経た作や、林原美術館、東京国立博物館、京都国立博物館、春日大社に伝わる作が知られ、その多くは伝持されて市場に現れることは稀である。在銘有年紀の小反物が世に出るのは折に触れてに過ぎず、根気を要するが、現れればそれは、長船派が南北朝の世をいかに閉じ、応永の再興へといかに身を運んだかを、一年一年読みうる確かな文書となる。 詳しく見る →
南北朝時代の備前
二つの朝廷が争った六十年、刀身は長大化し、長船がその需要に応えた。兼光と長義の工房は実際に戦う国人層の武士に仕え、軍勢とともに相州風が届いて相伝備前が生まれた。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,348口(約202口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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