鞘書: 越中松倉郷義弘 大磨上無銘而同工作ト傳フ細身・小鋒ノ姿態ヲ見セ反猶高ク地沸厚ク地景入ル肌合ニ直刃小乱ヲ焼キ沸厚ク煌メキ金筋頻リニ絡ミ砂流・湯走カゝリ相州傳上工ノ特味ヲ顕現シ就中地刃ノ冴エヤ一枚帽子ヲ勘案スレバ同工ノ所傳ハ首肯サレル優品也 刃⻑壹尺七寸八分半惟時乙⺒暦弥生探山識「花押」 越中松倉郷義弘 本作は、大磨上無銘ながら郷義弘の作と伝承される一振りです。 身幅細く小鋒となる優美な姿態を見せ、反りなお高く、地肌は地沸厚くつき地景が入り、精緻な肌合を呈します。 刃文は直刃に小乱れを焼き、沸厚く煌めき、金筋しきりに絡んで砂流し、湯走りかかるなど、相州伝上工の特色を顕著に示しています。 とりわけ地刃の冴えや一枚帽子となる点などを勘案すれば、同工との伝承も首肯される優品といえます。 刃長:一尺七寸八分半(約54.1cm) 乙巳(令和七年)三月 探山(田野辺道宏)識 + 花押




Soshu / Etchu (Matsukura Go) · 越中 · 1299-1302頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位5%
現在1点販売中
郷とは越中国松倉郷に住した義弘のことで、「正宗十哲の一人として名高い」[[c:1]]。貞宗同様に在銘の確実作を遺さず、現存するものは悉く大磨上無銘の極めであり、その作風と、これを蔵した大名家を通してのみ知られる工である。時代は鎌倉時代最末期から南北朝時代初期にあたり、正宗が大成した相州伝が越中へ西漸した頃に位置づけられる。姿は身幅尋常ないし広め、元先の幅差さまで開かず、反り浅く、中鋒延びごころに結ぶものが多く、大磨上無銘ながら堂々たる体配を示す。
鍛えは板目に杢・流れ肌を交えて肌立ちごころとなり、処々強く柾がかり、地沸が微塵に厚くつき、地景が頻りに入って、かねは明るく冴える。刃文はおおどかなのたれを主調に小のたれ・互の目を交え、足・葉入り、匂深く沸厚くつき、物打辺りで一段と刃中の働きを見せ、金筋・砂流しがさかんにかかって、匂口明るく冴える。正宗・則重に比べると地景・金筋はむしろ穏やかであるが、刃中に沸足がよく働き、「地刃が一段と明るく冴え」[[c:2]]、肌合に柾ごころを交えるところに同工の見どころがある。
帽子こそ郷の最も郷たる所で、日刀保はこれをこの工の大きな特徴と明記する。すなわち「帽子を一枚風に深く焼くのも大きな特徴とされる」[[c:3]]。ある特別重要刀剣の刀は「帽子焼深く一枚となり、総体に沸崩れ風となって掃きかける」[[c:4]]と記し、焼きが深く一枚風に締まって掃きかけ、返るところは穏やかな小丸となって、返りの長く流れるものもある。掃きかけと一枚風の深い焼きこそが見どころであって、小丸のみを以てこの工とするのは誤りである。鑑別の要は地刃の冴えにあり、その明るさが正宗その人とも、また肌立って松皮肌の勝る則重とも分かつ。藤代は最上作に列し、相州の諸工中でも至高に位置づけられる。
在銘なく遺品も少ないため、郷は最も得難い名の一つである。大久保江・兜切り江をはじめとする名物は大名家の歴史を伝え、大久保江は本阿弥の金象嵌極めを帯びて小田原大久保家に伝わり、兜切り江は水野家の旧蔵である。宇和島伊達家には台徳院(徳川秀忠)より初代藩主に下賜された一口が重宝として伝わり、ほかに前田家などの諸家を歴とする。第一級の極めに値すると判じられた一刀に接すること、それが郷に接するということである。
義弘の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
相州伝 · 相模
時期区分: 相州· 1288–1385
現在46点販売中
板目に杢を交えた地鉄に地沸が微塵に厚くつき、地景が頻りに織りなされて明るく冴える鍛え、これが相州(鎌倉後期から南北朝期にかけての相州伝の古典的全盛期)を貫く核である。この区分は始祖新藤五国光が粟田口由来の精緻な小板目と直刃の基盤の上に、地刃ともに沸を主体とする鍛えを据えたところに始まる。国光の門から行光、正宗、則重が出て技術が大成し、続いて正宗の系から養子貞宗、越中の郷義弘が出て、伝統が頂点に達した。さらに南北朝期に入ると相模国にあって時代的にも技術的にも貞宗の次に位置する広光と秋広が現れ、十四世紀後半まで本流が続く。鎌倉幕府の府たる鎌倉を母体とし、その滅亡から南北朝の動乱という時代背景のなかで、姿は身幅広く寸延びた豪壮なものへと推移していった。 作風は説示にいう板目に杢交じり、地沸厚くつき、地景頻りに入る鍛えを土台とし、刃文はのたれを基調に互の目を交え、匂口深く沸厚くつき、金筋・沸筋・砂流しが頻りにかかって匂口明るく冴える点にある。郷義弘の作では、正宗・則重に比べて地景・金筋は穏やかながら、刃中に沸足がよく働き、地刃が一段と明るく冴え、肌合に柾ごころを交え、帽子を一枚風に深く焼くのが見どころとされる。広光・秋広に至ると、板目が肌立ちごころとなり、丁子に互の目を交え、飛焼・棟焼を交えて皆焼となり、頭の丸い団子丁子を交える刃文がこの時代に始まる。これらは母体である粟田口の抑制された直刃の源流からは遠く隔たり、沸の働きを前面に押し出した展開である。一方、後続の末相州(室町期の継続と衰退)が、こうした皆焼や帽子の一枚焼きといった形を継承しつつ地刃の冴えと沸の質を次第に薄めていくのに対し、本区分は地刃ともに明るく冴え、働きが豊富である点で截然と区別される。秋広の彫物が後の正広・広正、さらに室町末期の相州鍛冶の先駆となったことも、本区分が型を確立した側であることを示す。 収集家がこの区分を別格とするのは、正宗を頂点に、貞宗、そして正宗十哲の筆頭に挙げられる郷義弘という頂の刀工を擁するからである。鑑定上の要点は、郷義弘・貞宗ともに在銘作が皆無であるため、地刃の明るい冴え、沸足の働き、柾ごころ、一枚風に深く焼く帽子といった作域から極めることにある。代表作には金象嵌銘の兜切り江や名物中川江があり、宇和島伊達家、小田原藩大久保家、薩摩の島津家など大名家への伝来が説示に記される。秋広には延文二年から至徳四年に及ぶ年紀作があり、銘の切り方の変遷とともに資料的価値を支えている。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト鞘書: 越中松倉郷義弘 大磨上無銘而同工作ト傳フ細身・小鋒ノ姿態ヲ見セ反猶高ク地沸厚ク地景入ル肌合ニ直刃小乱ヲ焼キ沸厚ク煌メキ金筋頻リニ絡ミ砂流・湯走カゝリ相州傳上工ノ特味ヲ顕現シ就中地刃ノ冴エヤ一枚帽子ヲ勘案スレバ同工ノ所傳ハ首肯サレル優品也 刃⻑壹尺七寸八分半惟時乙⺒暦弥生探山識「花押」 越中松倉郷義弘 本作は、大磨上無銘ながら郷義弘の作と伝承される一振りです。 身幅細く小鋒となる優美な姿態を見せ、反りなお高く、地肌は地沸厚くつき地景が入り、精緻な肌合を呈します。 刃文は直刃に小乱れを焼き、沸厚く煌めき、金筋しきりに絡んで砂流し、湯走りかかるなど、相州伝上工の特色を顕著に示しています。 とりわけ地刃の冴えや一枚帽子となる点などを勘案すれば、同工との伝承も首肯される優品といえます。 刃長:一尺七寸八分半(約54.1cm) 乙巳(令和七年)三月 探山(田野辺道宏)識 + 花押




Soshu / Etchu (Matsukura Go) · 越中 · 1299-1302頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位5%
現在1点販売中
郷とは越中国松倉郷に住した義弘のことで、「正宗十哲の一人として名高い」[[c:1]]。貞宗同様に在銘の確実作を遺さず、現存するものは悉く大磨上無銘の極めであり、その作風と、これを蔵した大名家を通してのみ知られる工である。時代は鎌倉時代最末期から南北朝時代初期にあたり、正宗が大成した相州伝が越中へ西漸した頃に位置づけられる。姿は身幅尋常ないし広め、元先の幅差さまで開かず、反り浅く、中鋒延びごころに結ぶものが多く、大磨上無銘ながら堂々たる体配を示す。
鍛えは板目に杢・流れ肌を交えて肌立ちごころとなり、処々強く柾がかり、地沸が微塵に厚くつき、地景が頻りに入って、かねは明るく冴える。刃文はおおどかなのたれを主調に小のたれ・互の目を交え、足・葉入り、匂深く沸厚くつき、物打辺りで一段と刃中の働きを見せ、金筋・砂流しがさかんにかかって、匂口明るく冴える。正宗・則重に比べると地景・金筋はむしろ穏やかであるが、刃中に沸足がよく働き、「地刃が一段と明るく冴え」[[c:2]]、肌合に柾ごころを交えるところに同工の見どころがある。
帽子こそ郷の最も郷たる所で、日刀保はこれをこの工の大きな特徴と明記する。すなわち「帽子を一枚風に深く焼くのも大きな特徴とされる」[[c:3]]。ある特別重要刀剣の刀は「帽子焼深く一枚となり、総体に沸崩れ風となって掃きかける」[[c:4]]と記し、焼きが深く一枚風に締まって掃きかけ、返るところは穏やかな小丸となって、返りの長く流れるものもある。掃きかけと一枚風の深い焼きこそが見どころであって、小丸のみを以てこの工とするのは誤りである。鑑別の要は地刃の冴えにあり、その明るさが正宗その人とも、また肌立って松皮肌の勝る則重とも分かつ。藤代は最上作に列し、相州の諸工中でも至高に位置づけられる。
在銘なく遺品も少ないため、郷は最も得難い名の一つである。大久保江・兜切り江をはじめとする名物は大名家の歴史を伝え、大久保江は本阿弥の金象嵌極めを帯びて小田原大久保家に伝わり、兜切り江は水野家の旧蔵である。宇和島伊達家には台徳院(徳川秀忠)より初代藩主に下賜された一口が重宝として伝わり、ほかに前田家などの諸家を歴とする。第一級の極めに値すると判じられた一刀に接すること、それが郷に接するということである。
義弘の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
相州伝 · 相模
時期区分: 相州· 1288–1385
現在46点販売中
板目に杢を交えた地鉄に地沸が微塵に厚くつき、地景が頻りに織りなされて明るく冴える鍛え、これが相州(鎌倉後期から南北朝期にかけての相州伝の古典的全盛期)を貫く核である。この区分は始祖新藤五国光が粟田口由来の精緻な小板目と直刃の基盤の上に、地刃ともに沸を主体とする鍛えを据えたところに始まる。国光の門から行光、正宗、則重が出て技術が大成し、続いて正宗の系から養子貞宗、越中の郷義弘が出て、伝統が頂点に達した。さらに南北朝期に入ると相模国にあって時代的にも技術的にも貞宗の次に位置する広光と秋広が現れ、十四世紀後半まで本流が続く。鎌倉幕府の府たる鎌倉を母体とし、その滅亡から南北朝の動乱という時代背景のなかで、姿は身幅広く寸延びた豪壮なものへと推移していった。 作風は説示にいう板目に杢交じり、地沸厚くつき、地景頻りに入る鍛えを土台とし、刃文はのたれを基調に互の目を交え、匂口深く沸厚くつき、金筋・沸筋・砂流しが頻りにかかって匂口明るく冴える点にある。郷義弘の作では、正宗・則重に比べて地景・金筋は穏やかながら、刃中に沸足がよく働き、地刃が一段と明るく冴え、肌合に柾ごころを交え、帽子を一枚風に深く焼くのが見どころとされる。広光・秋広に至ると、板目が肌立ちごころとなり、丁子に互の目を交え、飛焼・棟焼を交えて皆焼となり、頭の丸い団子丁子を交える刃文がこの時代に始まる。これらは母体である粟田口の抑制された直刃の源流からは遠く隔たり、沸の働きを前面に押し出した展開である。一方、後続の末相州(室町期の継続と衰退)が、こうした皆焼や帽子の一枚焼きといった形を継承しつつ地刃の冴えと沸の質を次第に薄めていくのに対し、本区分は地刃ともに明るく冴え、働きが豊富である点で截然と区別される。秋広の彫物が後の正広・広正、さらに室町末期の相州鍛冶の先駆となったことも、本区分が型を確立した側であることを示す。 収集家がこの区分を別格とするのは、正宗を頂点に、貞宗、そして正宗十哲の筆頭に挙げられる郷義弘という頂の刀工を擁するからである。鑑定上の要点は、郷義弘・貞宗ともに在銘作が皆無であるため、地刃の明るい冴え、沸足の働き、柾ごころ、一枚風に深く焼く帽子といった作域から極めることにある。代表作には金象嵌銘の兜切り江や名物中川江があり、宇和島伊達家、小田原藩大久保家、薩摩の島津家など大名家への伝来が説示に記される。秋広には延文二年から至徳四年に及ぶ年紀作があり、銘の切り方の変遷とともに資料的価値を支えている。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト