作者の宮田信清は後藤宗家十六代光晃(みつあき・方乗同人)の門人。文化十四年(1817)京都生まれ、天保四年(1833)15歳で加茂神社社家の宮田氏養子となる。16歳で後藤光保の門人となり、天保八年19歳のとき後藤光晃門となる。25歳で師家を離れ江戸日本橋で独立。のち南部家の抱工となる。明治十七年(1884)68歳没。宮田信久は長男。作風は堅実、後藤流で高尚。本作は赤銅地に彫を加えて網代地にして枝菊を象嵌、金色絵を施す。技量があらわれた上品な縁頭。刀装小道具研究科・鑑賞家として知られる神谷紋洋氏の箱書き(昭和38年6月・癸卯水無月みずのとうみなづき)あり。2011年保存刀装具審査合格。


















江戸
武蔵
在銘
保存 (日本美術刀剣保存協会)
家彫 · 1670頃
現在2点販売中
宮田信清は、文化十四年(1817年)に京都に生まれ、旧姓を木下氏という。天保四年(1833年)に十五歳で加茂神社社家である宮田氏の養子となった。十六歳で後藤光保の門人となり、二十三歳で江戸に出府し、後藤宗家十六代光晃に入門して技を磨いた。天保十四年(1843年)に二十五歳で独立し、日本橋茅場町で開業、後に南部家の抱え工となった。鶴鳴斎、寿楽斎と号し、明治十七年(1884年)に六十八歳で没した。
信清の作風は、後藤流の格調高い彫法を基調とし、赤銅魚子地に高彫や金紋の手法を用いる。作柄は後藤家の手法を顕現し、華やかで格調高い作風を示す。魚子は上質の赤銅に見られる鳥の濡羽色を呈して深美の趣を醸し出す。金、銀、素銅などの色絵を効果的に用い、上品な色使いと意匠の巧みな配置と構図が特徴である。美濃彫風の鋤下高彫も見られ、蔦唐草に丸に三葉葵紋図などを典雅にあらわす。総金具は龍虎図、瑞雲図、四霊図などを題材とし、高彫金色絵、金小縁の彫法で品良く彫り上げている。大小拵においては、鞘塗と総金具、大小鐔など全てが四季花丸文の意匠で統一されたものも存在する。
信清の作は、下地、彫法、彩色いずれも優れ、堅実濃麗な彫技を示すと評される。金具は細密に蒔かれた魚子地や、小縁や小柄・笄の戸尻に施された金色絵が品良く引き締めている。黒に金を絶妙に交えた上品な色使いと意匠の巧みな配置と構図、金具の随所に見える優れた彫技が見どころである。現存作が比較的少なく、その作風を揃金具として完存の状態で把握できることは貴重とされる。
信清の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
家彫 · 山城
現在280点販売中
後藤派は、室町時代中期に初代祐乗が将軍足利義政に仕えて創始した彫金の宗家であり、「日本彫物の元祖」と仰がれ、「古今独歩の鏨師」と賞賛される祐乗を祖として十五代にわたり嫡流の技を継承した。祐乗の作品は東山御物として数多く取り上げられ、後世に名を残した名工は挙って後藤家の祐乗に範をとっている。四代光乗・五代徳乗は織田信長、次いで豊臣秀吉に仕え、大判・分銅・彫物の三役を担い、桃山時代の豪華美を格調高く表示した。幕末には一乗が「後藤家の掉尾を飾る名工」として家風を大成し、門下の荒木東明・中川一勝らが一派の技を継承した。 後藤派の作域は三所物・縁頭・鐔・揃金具と多岐にわたり、赤銅魚子地を基調とした高彫金色絵を家風の根幹とする。金紋裏哺金仕立の小柄笄、金無垢地容彫の目貫など、素材と技法の選択に一貫した格式が認められる。三代乗真は「大振りで力強く、量感の豊かな彫技」[[c:1]]を特徴とし、紋の肉取りが豊かで鏨使いが手強く、赤銅の色相も漆黒で麗わしい。桃山期の作には鋤出高彫に金・銀・素銅の象嵌色絵を駆使した豪華絢爛の大名道具が見られ、近世には四分一磨地や朧銀地に甲鋤毛彫・平象嵌を組み合わせた多彩な表現も展開された。龍・獅子・鶏・犀・鯰といった動物意匠から、松竹梅・桐紋・粟穂・四季草花に至るまで画題は広範であり、各代が武家好みの吉祥意匠を格調高く仕上げている。 後藤派に帰せられる作品には「気品があって格調が高く」[[c:2]]「力漲る」と評される一貫した品格が通底する。歴代の折紙制度によって初代祐乗以来の作が厳格に鑑定・伝承され、「家彫の誇りは確実に後代に伝わっている」[[c:3]]と繰り返し認められる。後藤流に熟達した門弟の作が「後藤家御家彫と見紛うまでの出来」[[c:4]]と称されることからも、その規範性の高さが窺える。日本金工史において、後藤派は赤銅魚子地高彫金色絵という技法体系を確立し、室町から明治に至る四百余年の間、彫金の最高規範として君臨した一門である。
商品到着後7日以内※①商品に手を加えた場合、②海外取引の場合は返品不可となります。
作者の宮田信清は後藤宗家十六代光晃(みつあき・方乗同人)の門人。文化十四年(1817)京都生まれ、天保四年(1833)15歳で加茂神社社家の宮田氏養子となる。16歳で後藤光保の門人となり、天保八年19歳のとき後藤光晃門となる。25歳で師家を離れ江戸日本橋で独立。のち南部家の抱工となる。明治十七年(1884)68歳没。宮田信久は長男。作風は堅実、後藤流で高尚。本作は赤銅地に彫を加えて網代地にして枝菊を象嵌、金色絵を施す。技量があらわれた上品な縁頭。刀装小道具研究科・鑑賞家として知られる神谷紋洋氏の箱書き(昭和38年6月・癸卯水無月みずのとうみなづき)あり。2011年保存刀装具審査合格。


















江戸
武蔵
在銘
保存 (日本美術刀剣保存協会)
家彫 · 1670頃
現在2点販売中
宮田信清は、文化十四年(1817年)に京都に生まれ、旧姓を木下氏という。天保四年(1833年)に十五歳で加茂神社社家である宮田氏の養子となった。十六歳で後藤光保の門人となり、二十三歳で江戸に出府し、後藤宗家十六代光晃に入門して技を磨いた。天保十四年(1843年)に二十五歳で独立し、日本橋茅場町で開業、後に南部家の抱え工となった。鶴鳴斎、寿楽斎と号し、明治十七年(1884年)に六十八歳で没した。
信清の作風は、後藤流の格調高い彫法を基調とし、赤銅魚子地に高彫や金紋の手法を用いる。作柄は後藤家の手法を顕現し、華やかで格調高い作風を示す。魚子は上質の赤銅に見られる鳥の濡羽色を呈して深美の趣を醸し出す。金、銀、素銅などの色絵を効果的に用い、上品な色使いと意匠の巧みな配置と構図が特徴である。美濃彫風の鋤下高彫も見られ、蔦唐草に丸に三葉葵紋図などを典雅にあらわす。総金具は龍虎図、瑞雲図、四霊図などを題材とし、高彫金色絵、金小縁の彫法で品良く彫り上げている。大小拵においては、鞘塗と総金具、大小鐔など全てが四季花丸文の意匠で統一されたものも存在する。
信清の作は、下地、彫法、彩色いずれも優れ、堅実濃麗な彫技を示すと評される。金具は細密に蒔かれた魚子地や、小縁や小柄・笄の戸尻に施された金色絵が品良く引き締めている。黒に金を絶妙に交えた上品な色使いと意匠の巧みな配置と構図、金具の随所に見える優れた彫技が見どころである。現存作が比較的少なく、その作風を揃金具として完存の状態で把握できることは貴重とされる。
信清の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
家彫 · 山城
現在280点販売中
後藤派は、室町時代中期に初代祐乗が将軍足利義政に仕えて創始した彫金の宗家であり、「日本彫物の元祖」と仰がれ、「古今独歩の鏨師」と賞賛される祐乗を祖として十五代にわたり嫡流の技を継承した。祐乗の作品は東山御物として数多く取り上げられ、後世に名を残した名工は挙って後藤家の祐乗に範をとっている。四代光乗・五代徳乗は織田信長、次いで豊臣秀吉に仕え、大判・分銅・彫物の三役を担い、桃山時代の豪華美を格調高く表示した。幕末には一乗が「後藤家の掉尾を飾る名工」として家風を大成し、門下の荒木東明・中川一勝らが一派の技を継承した。 後藤派の作域は三所物・縁頭・鐔・揃金具と多岐にわたり、赤銅魚子地を基調とした高彫金色絵を家風の根幹とする。金紋裏哺金仕立の小柄笄、金無垢地容彫の目貫など、素材と技法の選択に一貫した格式が認められる。三代乗真は「大振りで力強く、量感の豊かな彫技」[[c:1]]を特徴とし、紋の肉取りが豊かで鏨使いが手強く、赤銅の色相も漆黒で麗わしい。桃山期の作には鋤出高彫に金・銀・素銅の象嵌色絵を駆使した豪華絢爛の大名道具が見られ、近世には四分一磨地や朧銀地に甲鋤毛彫・平象嵌を組み合わせた多彩な表現も展開された。龍・獅子・鶏・犀・鯰といった動物意匠から、松竹梅・桐紋・粟穂・四季草花に至るまで画題は広範であり、各代が武家好みの吉祥意匠を格調高く仕上げている。 後藤派に帰せられる作品には「気品があって格調が高く」[[c:2]]「力漲る」と評される一貫した品格が通底する。歴代の折紙制度によって初代祐乗以来の作が厳格に鑑定・伝承され、「家彫の誇りは確実に後代に伝わっている」[[c:3]]と繰り返し認められる。後藤流に熟達した門弟の作が「後藤家御家彫と見紛うまでの出来」[[c:4]]と称されることからも、その規範性の高さが窺える。日本金工史において、後藤派は赤銅魚子地高彫金色絵という技法体系を確立し、室町から明治に至る四百余年の間、彫金の最高規範として君臨した一門である。
商品到着後7日以内※①商品に手を加えた場合、②海外取引の場合は返品不可となります。