肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
Stock number:KA-020623Paper(Certificate): [N.B.T.H.K] Tokubetsu Hozon TokenCountry(Kuni)・Era(Jidai): Hizen(Saga)・Edo era 1624~Blade length(Cutting edge): 74.6cmCurve(SORI): 2.0cmWidth at the hamachi(Moto-Haba): 2.96cmThickness at the Moto-Kasane: 0.65cmWide at the Kissaki(Saki-Haba):2.45cmThickness at the Saki-Kasane: 0.55cmLength of Koshirae : about 104cmHabaki: Two parts, gold foil HabakiSword tang(Nakago):Unaltered,Sujikaiyasuri file pattern file patternRivet Holes(Mekugiana): 1Shape(Taihai): Chu-kissaki, Shinogizukuri, IorimuneJigane(Hada): ItameTemper patterns(Hamon): Gunome and MidareTemper patterns in the point(Bohshi): MaruRegistration Card: Kanagawa【Additional Information】本作の正廣は河内大掾正廣の二字銘の作品です。正廣は初代肥前国忠吉の孫にあたる人で、佐賀、鍋島藩により特別に御贔屓された刀工です。寛永元年に初代忠吉が忠廣と改名したのを期に忠吉銘を襲名しましたが、寛永二年、十九歳の時に藩主鍋島勝茂の命により正廣と改名しています。寛永五年、二十二歳の時に河内大掾を受領しました。初代忠吉の没後は二代近江大掾忠廣を後見し代作も務めたと伝えられる腕前確かな刀工として知られています。河内大掾正廣を名乗るのは初代だけです。二代(寛文頃)、四代(正徳頃)、七代(文久頃)は、肥州河内守藤原正廣と銘を切っております。この刀は二字銘の初代作で稀少な御刀になります。本刀は薫山先生の鑑刀日々抄に所載された現物です。この御刀体配は、刃長が2.45尺、長寸で身幅は尋常。反りがやや深く利いた肥前刀らしい姿の美しい御刀です。地鉄は板目肌で地沸がつき地景がはいります。刃紋は匂深く小沸が付く大湾れに互の目と丁子心のが交り華やかに乱れる冴えた刃です。刃中には足入り、砂流しが盛んにかかり金線が走ります。帽子は横手で焼き深く、直ぐとなり先掃きかけて中丸へ返ります。茎は生ぶで状態は良好です。附の拵はお写真の通りでございます。牡丹獅子を中心とした意匠のすっきりと纏まった拵がついております。本刀は素直で出来が良い、正廣の作域の特徴が顕著に示された拵付き刀の優品です。白鞘、附 黒呂塗鞘打刀拵、金着せ二重はばき、特別保存刀剣鑑定書。







Hizen Tadayoshi, waki-Hizen (Saga) · 肥前 · 1624-1655頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位23%
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正広は吉信の子で、吉信は初代忠吉の門人にしてその女婿であったから、本工は初代忠吉の孫にあたり、出羽守行広の兄である。初銘を正永といい、寛永二年十一月に正広と改めた。初代忠吉歿後は二代近江大掾忠広の側近としてその助手を勤め、説明書は「初代忠吉歿後は二代忠広を助け、良き協力者として大いに活躍した」[[c:2]]と記す。また本工を「傍肥前の中でも最も技量が優れており」[[c:3]]と評している。寛文五年、五十九歳で歿したという。
河内大掾の受領年については、説明書は慎重である。古来寛永五年の受領と伝えるが、寛永十六年紀の作までは「肥前国佐賀住正広」[[c:4]]あるいは「肥前国正広」と銘し、寛永十八年八月紀の作刀から河内大掾を冠したものが見られる。そこで近年は寛永十八年頃の受領とする説が有力であり、これは二代忠広の近江大掾受領の直後にあたって、本工があくまでも本家の助手として働き続けたとする所伝とも符合する。受領前と受領後の銘字の特色を併せ含む一口の重要刀剣は、受領後間もない頃の作と想定され、同工を研究する上で資料的価値が高いとされる。
その作風は本家と対照をなす。本家が直刃を得意とするのに対し、本工は乱れ刃を好み、説明書は端的に「作風は乱れた刃を好んで焼き」[[c:5]]と記す。典型の刃文は丁子に互の目・小のたれなどを交えるもので、その丁子は武蔵大掾忠広に見るようなものとされる。元に直ぐの焼出しを見せ、乱れと乱れの間を焼の低い浅いのたれの繋ぎの刃で結ぶものがあり、これらは傍肥前の刀工たちの乱れ刃の大きな見どころとされる。焼に高低を表し、足・葉よく入り、匂口深く明るく、乱れの谷に沸が厚く凝る。金筋・砂流しがかかり、刃中の金筋が長く目立つ作も特筆される。頭の丸い互の目を交える点は刃取りの見どころとされ、焼幅を広めに取って華やかな丁子乱れを展開するところは「正に彼の独壇場である」[[c:6]]と評される。
地鉄は肥前の精良な鍛えで、小板目肌がよくつみ、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入る。帽子は直ぐに小丸に返って掃きかけ、時に僅かに乱れ込む。姿は身幅広く寸の延びたものが多く、鋒の大きく延びた一刀は動勢に富んで力強く豪壮と評される。説明書はその作を「本家忠吉家の作よりも自然、覇気のある作が多く」[[c:7]]と読む。
直刃もよくしたが、その作は比較的少ない。匂深の中直刃に小沸がむらなくよくつき、匂口の明るく冴えた一口の脇指は、同作中でも特に優れた直刃出来とされ、説明書は「乱れ刃のみならず、直刃に於ても初代正広の技量の高さを窺うことが出来る」[[c:1]]と結ぶ。寛永十一年紀の互の目に小丁子交じりの刀については「この刀はその白眉である」[[c:8]]と記される。本家との弁別として説明書は二点を挙げる。刀は皆指裏に銘を切ること、そして鑢目が本家と異なって筋違を用い、初期作では茎先が細って大筋違となることである。銘字は晩年になるに従い小振りとなる。
藤代の極めは上々作。国宝・重要文化財はなく、その記録は重要刀剣の位にあって、指定を受けた作は三十口である。年紀作は僅かながら残り、寛永九年から慶安元年、承応四年を経て、最晩年の寛文四年紀の薙刀に及ぶ。数口には同国の吉長による彫物があり、ある脇指の腰樋中に浮彫された指月布袋は肥前刀の作品中でも極めて珍らしい図柄とされ、類例は吉長の手による武蔵大掾忠広の脇指に一口を見るのみという。また柳生拵に納まり、柳生連也斎厳包の所持銘を有する脇指もある。来歴の記録はそのほか乏しい。在銘の正広の重要刀剣は、時を得て折々世に現れ、傍肥前随一の技量の工に接する機会となる。
正廣の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新刀 · 肥前
現在132点販売中
肥前派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。 詳しく見る →
肥前 藩営の刀
肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトNo cooling-off period or returns; refund only if the purchased sword is proven fake, capped at purchase price (excludes commission sales, accessories, auction items).