長重は南北朝時代の初頭、長船にあって、説明書が兼光と並べて「相伝備前の旗頭」と称する一派、すなわち相州伝を摂取した備前の一翼に活躍した。長義との関係は永く誤り伝えられ、その訂正は記録の中でも確かな事実の一つである。古伝の一説は長重を長義の弟とするが、現存する在銘の作には建武元・二年(一三三四―三五)及び康永元年(一三四二)の年紀があり、長義には正平十五年を遡るものがないことから、今日ではむしろ長義の兄とする説が有力である。その論拠の年紀の拠り所は具体的で、備州長船住長重と銘し甲戌すなわち建武元年に年紀する短刀、かつて本阿弥光徳の指料であった一口が、本工の国宝である。
本工の典型は相伝備前の乱れであり、それは記録の大半を占める幅広の無銘の刀に最もよく見える。板目に杢・流れ肌を交えて肌立った地に、浅いのたれ又は互の目を基調に焼き、小互の目・小丁子・尖り刃を交え、足・葉繁く入る。匂口は深く明るく、小沸よくつき処々荒めの沸を交え、金筋・砂流しさかんにかかり、小模様の飛焼・湯走りを刃縁に交える。帽子は乱れ込み、突き上げて尖りに掃きかけ、又は小丸に返る。造込みは南北朝の体配そのままに、身幅広く元先の幅差少なく、重ね厚く、中鋒延びごころ又は大鋒を結び、手持ち重く堂々とする。
地鉄は、作が純然たる相州に流れぬための備前の証を負う。板目に地沸厚くつき地景よく入る地が各作に見られ、その上に乱れ映りが立ち、板目に杢の鍛えに鮮明に、他は淡き映り風に落ちる。これに対して在銘の面は鍛え締まり刃穏やかである。年紀ある太刀は小板目のよくつんだ地に細かな地沸つき、映り淡く、刃は中直刃又は直刃調に小互の目・小丁子を交え、逆足さえ交え、小沸・小足を見せる。腰元に梵字を彫る彫物が、一作ならず見られる。
説明書は本工自身の作のうちに、さらに二つの面を引く。在銘の短刀には長義以上の相州伝の作域を読み、「短刀に長義以上に相州伝を強調」と記す。平造に肌立ち、小のたれに互の目を交えて先盛んに、砂流し頻りに、尖った帽子も力強い。一口の在銘短刀は他のいずれとも異なり、片落ち互の目を主調に角互の目を交えて、長義流の乱れではなく兼光及びその一類、さらには元重を髣髴とさせ、説明書はこれを「長重としては珍しい作域」とし、本工の作域の広さを知る資料として貴ぶ。
長重を長義と分かつものは、諸作に一貫して同じように記され、それが極めの全てである。乱れは小模様で焼きはやや低いが、「地刃の沸づきが長義に優る」――この一点の拠り所によってこそ、相伝備前の刀が長重の極めに変わる。その別は、兄から借りた特徴によってではなく、より豊かに沸づいた地刃の上に置かれた小さく低き乱れという、本工自身の地刃によって担われる。子と伝える長守が、丁子を目立てつつやや小出来の手で一派を継ぐ。
藤代の極めは上々作。在銘生ぶ茎の長重は極めて少なく、記録の本体は特別重要刀剣・重要刀剣及び戦前の重要美術品に及び、その上に建武元年紀の短刀、本阿弥家に伝わる一口の国宝が立つ。数口は大名家の伝来を負い、徳川家康が尾州犬山成瀬家に下賜して同家に永く伝えた刀をはじめ、加賀前田家・佐賀鍋島家・島津家を経たものがある。特別重要刀剣・重要刀剣の級はわずかに十三口、その殆どが伝えられて商われることがなく、在銘の長重が世に出ることは稀である。私蔵の一口は――幅広の相伝備前の刀が、ことのほか沸づいた地刃の上に小模様の乱れを見せる一口は――収集家にとって注目すべきものであり、備前がいかに相州の手を摂取したかを語る証である。