後藤光晃は、文化十三年(1816年)に後藤宗家十五代真乗光美の三男として生まれる。幼名を光年、俗名を新二郎、のち源之丞と称した。天保六年(1835年)七月、父光美が五十六歳で隠居したのを期に家督を相続し、四郎兵衛光晃と名乗って後藤宗家十六代目となる。安政三年(1856年)六月に四十一歳で歿するまでの約二十一年間、宗家の当主を務めた。光晃は、十二代光理以降の各代にあって最も技倆が優れていると称されている。天保八年には幕命によって天保五両判を製造し、さらに大判(拾両)一八八七枚を製造したとの記録が残る。
光晃の作風は、赤銅魚子地を高彫とし、金・銀・赤銅・素銅などの色金を象嵌した色絵を特徴とする。題材は人物、故事、動植物など多岐にわたり、宮中での舞楽、寿老福禄寿、三番叟、能道具、鷹道具、懸守獅子、茘枝、四季草花色紙、塩舎、節句図、十二支など、典雅な趣の意匠を凝らした作品が多い。地金には赤銅のほか、四分一、素銅、銀なども使用され、平象嵌や毛彫も施される。特に人物の表情まで細やかに豊かに制作する点や、金銀の色絵に加え、素銅を効果的に用いて野趣を盛り込む点に特色が見られる。目貫は赤銅地、または金無垢地を容彫とし、金色絵、銀・素銅置金を施す。小柄・笄の割継削継が太細二条の帯状をなす洒落た作や、小柄・笄の裏板金の鑢地に自身銘を刻む作、地板嵌込み方式で蕨手の足が長い作など、意匠を凝らした作が見られる。
光晃の作品は、総体に典雅な趣があり、金銀の色絵が格調高く、細心の注意を払った色彩と、各所に細やかな細工がなされている点が評価されている。特に、濃やかなものを得意とし、黒一色の紋を極めて精緻に表現した作品や、人物の体毛など細かな毛彫を施した作品など、その技術の高さが窺える。後藤家の江戸居住が定められて以降の新たな御家彫の確立を見るようで、連綿と続いた金工後藤家の伝統を色濃く残しつつ、新たな作風を確立した刀工として位置づけられる。