後藤栄乗は、後藤家六代目を務めた刀装金工である。五代徳乗の嫡男として天正五年(1577年)に生まれ、幼名を亀市、俗名を源四郎、諱を正房と称した。文禄三年(1594年)に18歳で家督を相続し、四郎兵衛正光と改名して宗家を継いだ。若年の頃より父祖と共に豊臣秀吉に仕えたが、豊臣家滅亡後は一時期浪人生活を送る。元和二年(1616年)、叔父である長乗の推薦により徳川家に仕えることとなり、将軍秀忠より分銅、大判及び彫物の役に任命され、山城国の旧領二百五十石と江戸詰料二十人扶持を支給された。しかし、翌元和三年(1617年)に41歳の若さで病没した。金工銘は初め正房、のち正光、剃髪してからは栄乗と切った。
栄乗の作風は、五代徳乗の作風を受け継ぎつつ、乗真に似て少し大振りなものが多いとされる。しかし、細工は乗真よりも細やかに出来ているものが多いとも評される。作風の特徴としては、高彫、色絵を得意とし、赤銅魚子地、金無垢地などを用いた作品が多く見られる。題材は人物、動物、故事など多岐にわたり、羅城門図、牛若弁慶図、獅子図、倶利伽羅龍図など、後藤家が得意とする画題を多く手掛けている。また、金紋を施した作品も多く、その重厚な肉取りにより存在感や躍動感を表現している。地金には薄金に括り出したものが見られ、陰陽根などの技法も用いている。作風は総じて華やかであり、桃山時代の後藤家の特徴が表れているとされる。
栄乗の作品は、その出来栄えの高さから後藤家の中でも特に評価が高い。重要刀装具指定の説示においては、「姿形の肉取り、配置などに工夫を凝らして、それぞれの情景描写を繰り広げており、生き生きとした動きは背景を含めた鏨の妙技によって更に昇華して、見事な三所物に仕上がっている」と評されている。また、「贅沢にも金無垢という素材で堂々たる倶利伽羅を画面一杯に、見事に彫り上げている。その彫法はおおらかでありながらも力強い肉取りであり、角や手首の三角鏨も確りと、鱗をはじめ姿態の細部にまで神経が行き届いている。栄乗ならではの醍醐味が存分に感じられる出色」と評されるように、素材の選択、彫技の高さ、意匠の面白さなど、総合的な完成度の高さが評価されている。自身銘の作品は現存数が少ないため貴重であり、後藤家宗家における桃山時代の作風を代表する刀工として位置づけられている。