後藤徳乗は後藤家五代目の当主で、天文十九年(一五五〇)に四代光乗の嫡男として生まれ、寛永八年(一六三一)に没した。俗名を源次郎、後に四郎兵衛と改め、諱は光基、または正家とも称した。後藤家は初代祐乗以来足利将軍家に仕えてきたが、光乗の時に足利家が滅亡し、以後、光乗・徳乗は織田信長に、信長亡きあとは豊臣秀吉に仕え、大判(金貨)・分銅(計量)・彫物(刀装具)の三役を命ぜられた。徳乗は天正十六年に大判金・小判金を製作し、「徳乗桐と称せられた桐の極印を打ち自分の名を墨書している」。徳川の世になっても家康・秀忠に任用され、晩年は法眼に任ぜられた。
説明はその家族を詳しく記す。五男四女あり、長男は六代を継いだ栄乗正房で、次男は早逝し、三男が七代を継いだ顕乗である。四男琢乗・五男休乗は別家を興した。娘は本阿弥家、金座の後藤庄三郎光次、狩野氏信に嫁し、後藤家はこうした縁によって桃山時代の諸職の系譜の中心に立った。
作は赤銅魚子地を主とし、後藤家の掟物の基をなす細やかで密な魚子を蒔く。主たる手法は高彫金色絵で、金の色絵は厚く豪華であり、銀の色絵や裏哺金を伴うことも多い。目貫は容彫に陰陽根を備える。説明はその作域を、薄金出しで裏行が深く、表からの絞りと山高く谷低しの肉置の変化が際立ち、洗練味が高いとする。画題には這龍、布袋・韋駄天などの福神、家の掟物の意匠がある。
掟物の中でも桐紋は最も名高い。説明は、徳乗の桐紋は太閤桐や徳乗桐と呼称されて有名であり、「麦鏨と称される特殊タガネは十個打っている」とし、ある小柄のやや細身の幅に桃山の時代色を見る。後藤家上代の例に漏れず作の多くは無銘で、後代当主の折紙や金象嵌の極め銘、とりわけ十三代光孝の鑑定によって極められる。自身銘の作は稀で、後藤徳乗(花押)と銘する布袋図笄について説明は「自身銘は特に珍稀である」とする。
説明はその作に桃山時代の豪壮華麗な気風と後藤家嫡流の品格を見る。布袋の三所物について、目貫の表裏や小柄・笄で衣紋や福袋の文様を替え、節々にまで細かい鏨を効かせ、「御家彫後藤家の技術の確実さ」を十分に堪能できる出来映えとし、別の三所物を「品格を兼ね備えた後藤家の面目躍如たる作品」とし、折紙の通り徳乗の自身作と鑑せられる数少ない三所物とする。その作は、以後の後藤本家の作の格と豪華さを測る基準となっている。
指定の記録は重要刀装具三十二点である。蜂須賀家や大坂の豪商鴻池家など旧家に伝わったものがあり、鍋島家も伝来に見える。現在の所蔵機関は記録されていない。作のほとんどが無銘で、多くは揃物として伝わるため、徳乗の作が世に出るのは時折であり、在銘の作は後藤の作を蒐める者にとって最も稀な出会いの一つである。