南朝が大和国吉野に都を置いたとき、大和の諸派は最盛期にあった。包永以後の手掻、尻懸則長、そして保昌の純然たる柾目である。その技はすでに諸国へ広がりつつあった。
出ました出ました大和鍛冶はそれぞれ昔から寺院に所属していた為に、一般に市販する必要が無く、市販する為のブランド名である刀匠銘を入れる必要が全く無くほとんどが無銘の作品として残されています。しかしここに在銘が本当に少ない大和鍛冶の在銘の貴重な刀が出ました。本手掻派の包清の初代は大和手掻包永の子で鎌倉時代嘉暦頃(1326年)(700年前)の刀匠です、本刀はその約200年後の室町時代天文頃(1543年)(483年前)丁度ポルトガルから種子島に鉄砲が伝来した頃の貴重な八代目にあたる古い在銘の手掻派の和州住藤原包清です。大和五派(千手院、当麻、保昌、手掻、尻懸)の刀工の在銘作は大和の刀匠の多くはそれぞれ寺院に属しほとんど無銘で出されていたために在銘作は大変少なく貴重です。本和州住藤原包清の刀は大和伝で鎬が高く元に反りの有る腰反りで元身幅と先身幅の差の有る抜き打ちに適した刀姿を現し、地金は小板目肌に柾目肌を交えはばき元から見事な乱れ映りを現し、刃紋は匂い出来の直調の刃を焼き互の目の足を入れ上品です。500年近くの古い刀の為に風雪に耐えた痛みもありますがそれも時代のご愛嬌として大いに可愛がってやって下さい。この度古い御数寄者様から自分も年を取りましたので大切にして頂ける方にお安くお譲り下さいとお預かりした為に特別に格安にて御提供いたします。手掻派の和州住藤原包清の貴重な刀を是非お楽しみ下さいませ。
Certificate reading — 銘 和州住藤原包清
無銘 · 貞治 · 長さ 67cm · 反り 2.2cm




















Tegai (Yamato) · 大和 · 1429-1441頃
刀剣大鑑 上位26%
現在2点販売中
本コードで記録される四口の一つに、享禄二年(一五二九)の年紀をもち、大和国手搔住包清作と銘した刀がある。茎いっぱいに高く長銘を切るこの作は、本工を大和手掻派の中に明確に位置づける。手掻派は説明書が大和五派の中で最大の流派とする系で、東大寺の西の正門である転害門の外辺に一派が居住して作刀したことからこの名がおこったといわれる。包清は数代に継承された名で、伝えに初代包永の子を始めとし、銘鑑は嘉暦より天文まで同銘七代の継承を数える。本コードの手を説明書は、地刃の出来および銘振りより室町初期の応永頃に活躍した包清と見、その作はほとんどが磨上無銘の極めではなく在銘・生ぶの刀剣で知られる。
その手は華やかな乱れではなく、内から働きで動く大和の直刃である。板目、あるいは小板目つみが刃寄りに流れて柾ごころとなる地の上に、直刃調を焼いて小のたれ・連れた小互の目を交え、全体に手掻派の働きを敷く。説明書はある短刀を、直刃に小のたれや互の目を交え、刃縁にほつれ・打のけかかり、匂口締りごころに小沸つき金筋入るとし、これらの特色が「大和手掻派の作風をよく示している」[[c:1]]と結ぶ。喰違刃、二段刃風、刃中に入る湯走りも同じ作域に属する。大模様ではなく、おだやかな焼刃に織り込まれた大和の細部に見どころのある、近くで読む焼刃である。
これらを読む地鉄が要である。板目はよく練れてつむが、刃寄りでは流れて肌が立ち、ある短刀では指表が肌立って流れ柾を交えると説明書は記す。地沸厚くつき地景入り、棟寄りに白っぽい映りが立つことがあって、一作では沸映りと、末期の年紀作では地に白らけ立つ白け映りと記される。帽子は手掻派の大和の結びに従い、多くは直ぐに先尖って掃きかけ、あるいは乱れ込んで尖り返り、返りはやや深いものもある。短刀には説明書がとくに挙げる彫物、表裏に掻く素剣を添え、「彫深く、力があり、大和物に見る特色あるものである」[[c:2]]とする。
四口に同じ手を室町初期の三つの時点で読む。中核は応永期の在銘の短刀で、平造・三ッ棟、重ね厚く丈夫な造込みの尋常の姿、反りなく、直刃と素剣の大和の手が最も明らかである。これに身幅広い平造の脇指が並び、応永の姿を最も読みやすく示す。身幅やや広く、身幅の割に大きく寸延び、僅かに内反りつき、直刃調が浅く湾れごころを帯び、刃縁に断続的に二重刃が現われて、説明書はこれを光強く「刃縁に光の強い二重刃が断続的にきらめく」[[c:3]]と記し、匂口は明るい。最も降るのが享禄二年紀の刀で、先反りつき中鋒延びる鎬造、板目肌に白らけ立ち、直刃調に互の目交じり小足入り、鑢目を鷹羽に切る。説明書はこれを鷹羽の鑢目等とともに「末手掻の特色をよく示したもの」と見、享禄の年紀を貴重とする。二字銘と手搔住の長銘は、その作域に同じ名跡が続くことを示す。
同派の中で本工を分かつものは、対比よりもその固有の見どころから引くのがよい。この応永の手はよく練れた板目を保ち、刃寄りでのみ流れて柾に傾き、連れた小互の目・喰違刃・光る二重刃にこそ見どころのある直刃を貫いて、大模様の乱れには出ない。南北朝の古い世代がより肌立ち沸を強くするのに対し、本工はおだやかな線を保って近くで読ませ、説明書は応永の姿と銘振りをもってその別を引く。説明書は身幅広い脇指を「室町初期手掻派の特色を顕現した典型作」[[c:4]]とし、これが本コードの支える位置である。すなわち地刃健全な応永の末手掻を代表する手であり、大和五派が事実上この一派に絞られた頃に、手掻の大和の文法を保った工である。
収集の上では記録は小さく、すべて重要刀剣の格にとどまる。本工の刀剣四口は重要の指定を受け、国宝・重要文化財・特別重要はなく、大名伝来や所蔵機関の記録も伴わないため、著名な作の連なりよりも、僅かな指定作で知られる工というのが正直なところである。四口のうち二口が広く流通しうる重要の層にあり、これは折に触れ、根気をもって市場に現れる程度を意味し、容易に見つかるということではない。在銘の短刀、寸延びの脇指、年紀の刀が、本工の遺る姿である。在銘・年紀・生ぶの末手掻はそれ自体まれであり、ことに手搔住の長銘と年紀をもつ享禄の刀は、収集家がめったに出会わず、この派の定点として手元に置く類の作である。鎌倉の大名跡のようには遠くないが、記録の残る一口は、なお意図して探し当てる類の作である。
包清の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
大和伝 · 大和
時期区分: 末手掻· 1390–1700
現在29点販売中
末手掻は、大和五派のうち最大の流派である手掻派の後期、すなわち室町時代に展開した一作風期を指す呼称である。手掻派は東大寺の西の正面たる転害門の外辺に居住して鍛刀したことからこの名がおこったと伝え、その祖を包永とし、年代は鎌倉時代後期の正応頃と伝えている。同派は南北朝時代を経て室町時代に至るまで連綿と栄え、応永頃を境として古手掻の古調から室町色を帯びた作域へと移行する。この室町期の作者群が末手掻であり、鎌倉草創期の包永一門と画然と区別される。在銘の代表的刀工としては包真・包清・包行をはじめ、包宗・包吉・包光・包貞・包久らがあり、いずれも同銘が何代か継承されて室町末期の文亀・天文の頃にまで及んでいる。伊勢国雲林院に移住して活躍した包長のごとく、他国へ展開して末手掻の面影を伝えた者もある。 作風は、鎌倉以来の大和伝を継承しつつ、これを締めて穏やかにした趣を示す。鍛えは板目に杢目を交え、総体に流れて柾がかり、地沸がつき地景の入るものが本領で、しばしば白気映り、ないし淡く白けごころを呈する点が末手掻の標識となる。刃文は匂口の締まりごころに小沸のついた直刃調を基本とし、細直刃から広直刃まで幅があり、浅くのたれて小互の目を交え、刃縁にはほつれ・喰違刃・二重刃・打のけ・湯走りといった大和物特有の働きが現れ、金筋・砂流しを交える。帽子は直ぐに小丸となって掃きかけ、やや長く返るものが多い。姿は内反りの平造短刀を主体とし、室町後期には先反りのついた打刀の姿も加わる。茎の鑢目は檜垣を通例とする点が著しい診断要素であり、鷹の羽鑢を伴う作もある。 評価としては、地刃の冴えと古色を併せ持ち、一見南北朝期を降らぬかと思わせる出来栄えの優品もある一方、総じて個性の発露は乏しく、伝統の家風を忠実に守り伝えた保守的な作域とみなされる。在銘品は二字銘が多く、在所地や年紀、藤原姓を冠した長銘を伴うものは資料的に貴重とされる。室町初期在銘の太刀は現存稀少であり、両刃造や年紀作とともに、手掻派研究上重要な遺品として珍重される。末手掻は、大和の正統を室町の世まで律儀に伝えた一群として位置づけられている。 詳しく見る →
南朝が大和国吉野に都を置いたとき、大和の諸派は最盛期にあった。包永以後の手掻、尻懸則長、そして保昌の純然たる柾目である。その技はすでに諸国へ広がりつつあった。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトお客様ご都合による返品の場合はお客様ご負担となります。ご了承くださいませ。弊社の誤送、商品不良等による返品の場合は弊社にて負担いたします。
出ました出ました大和鍛冶はそれぞれ昔から寺院に所属していた為に、一般に市販する必要が無く、市販する為のブランド名である刀匠銘を入れる必要が全く無くほとんどが無銘の作品として残されています。しかしここに在銘が本当に少ない大和鍛冶の在銘の貴重な刀が出ました。本手掻派の包清の初代は大和手掻包永の子で鎌倉時代嘉暦頃(1326年)(700年前)の刀匠です、本刀はその約200年後の室町時代天文頃(1543年)(483年前)丁度ポルトガルから種子島に鉄砲が伝来した頃の貴重な八代目にあたる古い在銘の手掻派の和州住藤原包清です。大和五派(千手院、当麻、保昌、手掻、尻懸)の刀工の在銘作は大和の刀匠の多くはそれぞれ寺院に属しほとんど無銘で出されていたために在銘作は大変少なく貴重です。本和州住藤原包清の刀は大和伝で鎬が高く元に反りの有る腰反りで元身幅と先身幅の差の有る抜き打ちに適した刀姿を現し、地金は小板目肌に柾目肌を交えはばき元から見事な乱れ映りを現し、刃紋は匂い出来の直調の刃を焼き互の目の足を入れ上品です。500年近くの古い刀の為に風雪に耐えた痛みもありますがそれも時代のご愛嬌として大いに可愛がってやって下さい。この度古い御数寄者様から自分も年を取りましたので大切にして頂ける方にお安くお譲り下さいとお預かりした為に特別に格安にて御提供いたします。手掻派の和州住藤原包清の貴重な刀を是非お楽しみ下さいませ。
Certificate reading — 銘 和州住藤原包清
無銘 · 貞治 · 長さ 67cm · 反り 2.2cm




















Tegai (Yamato) · 大和 · 1429-1441頃
刀剣大鑑 上位26%
現在2点販売中
本コードで記録される四口の一つに、享禄二年(一五二九)の年紀をもち、大和国手搔住包清作と銘した刀がある。茎いっぱいに高く長銘を切るこの作は、本工を大和手掻派の中に明確に位置づける。手掻派は説明書が大和五派の中で最大の流派とする系で、東大寺の西の正門である転害門の外辺に一派が居住して作刀したことからこの名がおこったといわれる。包清は数代に継承された名で、伝えに初代包永の子を始めとし、銘鑑は嘉暦より天文まで同銘七代の継承を数える。本コードの手を説明書は、地刃の出来および銘振りより室町初期の応永頃に活躍した包清と見、その作はほとんどが磨上無銘の極めではなく在銘・生ぶの刀剣で知られる。
その手は華やかな乱れではなく、内から働きで動く大和の直刃である。板目、あるいは小板目つみが刃寄りに流れて柾ごころとなる地の上に、直刃調を焼いて小のたれ・連れた小互の目を交え、全体に手掻派の働きを敷く。説明書はある短刀を、直刃に小のたれや互の目を交え、刃縁にほつれ・打のけかかり、匂口締りごころに小沸つき金筋入るとし、これらの特色が「大和手掻派の作風をよく示している」[[c:1]]と結ぶ。喰違刃、二段刃風、刃中に入る湯走りも同じ作域に属する。大模様ではなく、おだやかな焼刃に織り込まれた大和の細部に見どころのある、近くで読む焼刃である。
これらを読む地鉄が要である。板目はよく練れてつむが、刃寄りでは流れて肌が立ち、ある短刀では指表が肌立って流れ柾を交えると説明書は記す。地沸厚くつき地景入り、棟寄りに白っぽい映りが立つことがあって、一作では沸映りと、末期の年紀作では地に白らけ立つ白け映りと記される。帽子は手掻派の大和の結びに従い、多くは直ぐに先尖って掃きかけ、あるいは乱れ込んで尖り返り、返りはやや深いものもある。短刀には説明書がとくに挙げる彫物、表裏に掻く素剣を添え、「彫深く、力があり、大和物に見る特色あるものである」[[c:2]]とする。
四口に同じ手を室町初期の三つの時点で読む。中核は応永期の在銘の短刀で、平造・三ッ棟、重ね厚く丈夫な造込みの尋常の姿、反りなく、直刃と素剣の大和の手が最も明らかである。これに身幅広い平造の脇指が並び、応永の姿を最も読みやすく示す。身幅やや広く、身幅の割に大きく寸延び、僅かに内反りつき、直刃調が浅く湾れごころを帯び、刃縁に断続的に二重刃が現われて、説明書はこれを光強く「刃縁に光の強い二重刃が断続的にきらめく」[[c:3]]と記し、匂口は明るい。最も降るのが享禄二年紀の刀で、先反りつき中鋒延びる鎬造、板目肌に白らけ立ち、直刃調に互の目交じり小足入り、鑢目を鷹羽に切る。説明書はこれを鷹羽の鑢目等とともに「末手掻の特色をよく示したもの」と見、享禄の年紀を貴重とする。二字銘と手搔住の長銘は、その作域に同じ名跡が続くことを示す。
同派の中で本工を分かつものは、対比よりもその固有の見どころから引くのがよい。この応永の手はよく練れた板目を保ち、刃寄りでのみ流れて柾に傾き、連れた小互の目・喰違刃・光る二重刃にこそ見どころのある直刃を貫いて、大模様の乱れには出ない。南北朝の古い世代がより肌立ち沸を強くするのに対し、本工はおだやかな線を保って近くで読ませ、説明書は応永の姿と銘振りをもってその別を引く。説明書は身幅広い脇指を「室町初期手掻派の特色を顕現した典型作」[[c:4]]とし、これが本コードの支える位置である。すなわち地刃健全な応永の末手掻を代表する手であり、大和五派が事実上この一派に絞られた頃に、手掻の大和の文法を保った工である。
収集の上では記録は小さく、すべて重要刀剣の格にとどまる。本工の刀剣四口は重要の指定を受け、国宝・重要文化財・特別重要はなく、大名伝来や所蔵機関の記録も伴わないため、著名な作の連なりよりも、僅かな指定作で知られる工というのが正直なところである。四口のうち二口が広く流通しうる重要の層にあり、これは折に触れ、根気をもって市場に現れる程度を意味し、容易に見つかるということではない。在銘の短刀、寸延びの脇指、年紀の刀が、本工の遺る姿である。在銘・年紀・生ぶの末手掻はそれ自体まれであり、ことに手搔住の長銘と年紀をもつ享禄の刀は、収集家がめったに出会わず、この派の定点として手元に置く類の作である。鎌倉の大名跡のようには遠くないが、記録の残る一口は、なお意図して探し当てる類の作である。
包清の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
大和伝 · 大和
時期区分: 末手掻· 1390–1700
現在29点販売中
末手掻は、大和五派のうち最大の流派である手掻派の後期、すなわち室町時代に展開した一作風期を指す呼称である。手掻派は東大寺の西の正面たる転害門の外辺に居住して鍛刀したことからこの名がおこったと伝え、その祖を包永とし、年代は鎌倉時代後期の正応頃と伝えている。同派は南北朝時代を経て室町時代に至るまで連綿と栄え、応永頃を境として古手掻の古調から室町色を帯びた作域へと移行する。この室町期の作者群が末手掻であり、鎌倉草創期の包永一門と画然と区別される。在銘の代表的刀工としては包真・包清・包行をはじめ、包宗・包吉・包光・包貞・包久らがあり、いずれも同銘が何代か継承されて室町末期の文亀・天文の頃にまで及んでいる。伊勢国雲林院に移住して活躍した包長のごとく、他国へ展開して末手掻の面影を伝えた者もある。 作風は、鎌倉以来の大和伝を継承しつつ、これを締めて穏やかにした趣を示す。鍛えは板目に杢目を交え、総体に流れて柾がかり、地沸がつき地景の入るものが本領で、しばしば白気映り、ないし淡く白けごころを呈する点が末手掻の標識となる。刃文は匂口の締まりごころに小沸のついた直刃調を基本とし、細直刃から広直刃まで幅があり、浅くのたれて小互の目を交え、刃縁にはほつれ・喰違刃・二重刃・打のけ・湯走りといった大和物特有の働きが現れ、金筋・砂流しを交える。帽子は直ぐに小丸となって掃きかけ、やや長く返るものが多い。姿は内反りの平造短刀を主体とし、室町後期には先反りのついた打刀の姿も加わる。茎の鑢目は檜垣を通例とする点が著しい診断要素であり、鷹の羽鑢を伴う作もある。 評価としては、地刃の冴えと古色を併せ持ち、一見南北朝期を降らぬかと思わせる出来栄えの優品もある一方、総じて個性の発露は乏しく、伝統の家風を忠実に守り伝えた保守的な作域とみなされる。在銘品は二字銘が多く、在所地や年紀、藤原姓を冠した長銘を伴うものは資料的に貴重とされる。室町初期在銘の太刀は現存稀少であり、両刃造や年紀作とともに、手掻派研究上重要な遺品として珍重される。末手掻は、大和の正統を室町の世まで律儀に伝えた一群として位置づけられている。 詳しく見る →
南朝が大和国吉野に都を置いたとき、大和の諸派は最盛期にあった。包永以後の手掻、尻懸則長、そして保昌の純然たる柾目である。その技はすでに諸国へ広がりつつあった。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトお客様ご都合による返品の場合はお客様ご負担となります。ご了承くださいませ。弊社の誤送、商品不良等による返品の場合は弊社にて負担いたします。