肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
特別重要刀剣等指定制度に基づき、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)より「保存刀剣」に鑑定された、初代信濃大掾忠国による傑作脇差です。 江戸時代、寛文〜延宝頃(1660〜1680年頃) 銘:平安城住人忠国(初代信濃大掾忠国) 本作は「平安城住人忠国」と銘があり、日本美術刀剣保存協会により、肥前忠吉派の京都における名工、初代信濃大掾忠国の真作と鑑定されています。令和7年(2025年)交付の保存刀剣鑑定書に加え、昭和39年(1964年)交付の広島県登録証が付属。研ぎの状態も極めて健全であり、江戸時代の面影を色濃く残す、格調高い時代拵に収められています。 【作者:初代信濃大掾忠国について】 初代忠国は、江戸時代を通じて最も栄えた流派の一つである肥前忠吉家の門人です。名門の技術を修得した後、古都・平安城(京都)へ移住し、独自の作風を確立しました。初期の作には、京都居住を意味する「平安城住」あるいは「平安城住人忠国」と銘を切り、後に「信濃大掾」を受領してからは「信濃大掾藤原忠国」と銘じました。藤代義雄氏の評価では「上々作」に列せられ、さらに「和歌山(業物)」としても知られており、その芸術的な美しさと実用的な切れ味の両面で高く評価されています。 【刀身の様態】 本作は、忠国一派の真髄とも言える洗練された特徴を顕著に示しています。 地鉄:板目肌に木目交じり、地沸厚くつく精良な鍛え。 刃文:ゆったりとしたのたれに、小互の目が交じる落ち着いた構成。 帽子:端正な小丸に、僅かに返る。 保存状態:研ぎの状態は非常に良く、地鉄の美しさと刃中の働きを存分に鑑賞いただけます。 茎:生(うぶ)、形状は栗尻。目釘孔一個。銘は表側に力強く深く刻まれており、信濃大掾受領前の初期作としての特徴をよく示しています。 【拵(外装)】 江戸時代に制作された、非常に質の高い一作拵に収められています。 (以下、拵の詳細記述へ続く)



























Hizen Tadayoshi (Saga / Ogi) · 肥前 · 1648-1652頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位21%
現在11点販売中
忠國は、播磨大掾、のち播磨守を冠した藤原忠国の初代である。初銘を広則といい、寛永十一年、三十七歳で播磨大掾を受領して名を忠国と改めた。播磨大掾を冠した作で最も年代の溯る年紀作は寛永十三年である。肥前一門の祖たる初代忠吉の門人で、橋本家の相右衛門吉家の子であり、祖と同じ橋本姓であるところから、説明書は一族であろうと判じ、本家の二代近江大掾忠広よりよほど早く受領したことを記す。佐賀鍋島家の三支藩の一つである小城藩に抱えられ、小城藩工として活躍した。晩年は入道して休鉄と号し、その作は天和年間に及ぶ。
説明書はその手を二様に読み、いずれも上手とするが、本領は華やかな乱れ刃にあるとする。互の目丁子・丁子乱れで、焼幅は総じて広く、丁子頭は時に丸く、互の目に角ばる刃・矢筈風の刃や飛焼を交える。足長く頻りに入り葉を交え、匂深く小沸よくつく。就中この工を名づけるのは砂流しである。説明書はある一刀について「刃中に砂流しがさかんにかかり」[[c:1]]、しかも一門の中でこれが最も顕著であるとして、「一派の中でも最もそれが目立つ」[[c:2]]と記す。これに金筋を交え、匂口は明るく冴える。丁子の作のもう一つの常は足の長さで、乱刃の場合は「足長丁子に特色がある」[[c:3]]と説明書はいう。
両様の地となるのは、よくつんだ肥前の小板目に地沸ついた地で、一門の知られる鍛えである。上作では地沸が微塵に厚く敷かれ地景の入る精美な地となり、かね明るく冴え、晩年の直刃の作には刃寄りに僅かな流れごころを交えるものがあると説明書は記す。その地の上のもう一つの面は静かな作域である。中直刃、時に広直刃を焼き、匂深く足・葉よく入り、細かに金筋・砂流しがかかり、刃縁に二重刃風を交える。説明書はこれを端的に「直刃、乱刃ともに上手」[[c:4]]と記し、ある晩年の直刃の刀については、常の手くせに反してここでは「さまで砂流しが目立たず」[[c:5]]、総じて穏やかな出来口に仕上げて、この比較的少ない直刃の作域をあらわすとする。帽子はいずれも直ぐに小丸、しばしば掃きかける。
その記録は年代よりも作域によって分かれるが、年紀作が晩年を読ませる。播磨大掾銘がその作の本体を担い、播磨守銘は転任以後、寛文・延宝、そして天和に及ぶ晩年の刀を標す。延宝二年紀の一刀は、変化ある大のたれ乱れを主調として丁子風の刃や飛焼を交え、沸・匂ともに深く、説明書がこれを放胆で覇気あふれた作風と評する。最も意欲的な丁子の作では焼幅を一段と広く大丁子乱れに荒沸を交えて僅かに棟焼を交じえ、これ程焼の高いものは同作中珍しいとして、説明書は初代忠国が「古作の一文字あたりを狙ったものであろうか」[[c:6]]と推す。同じ記録はその作の難しさをも明らかにする。二代も播磨守に任じたため初・二代の区別が容易につけ難く、現在二代と称するものの大部分が初代作ではないかとの説があると説明書は記す。
一門の中で忠国を分かつものは、まさに極めの言うところである。地と明るい匂口は肥前共通の遺産で、米糠状に精良な小板目と冴えた刃は、忠吉一門のいずれの工も祖に負うところである。彼自身の見どころはその遺産の上に重ねられる。足長の丁子乱れと、その刃中を一門の何れの手よりも顕著に奔る砂流しである。ある刀について説明書は、その出来を「一見直江志津などの風を見せて上手である」[[c:7]]と読み、大和がかった流れる刃は、静かな肥前の直刃の基準から彼の乱刃がいかに遠く達するかの尺度をなす。彼は一門で最も巧みな華やかな丁子の手であり、肥前の地をより明るく働きのある刃に運んだ支流の工である。
収集の観点では、在銘で資料の確かな新刀の名であり、その作はことごとく重要刀剣の位にある。藤代の極めは上作。国宝はなく重要文化財もない。その記録は重要刀剣の各回に及び、説明書は繰り返してこれを同工の代表作・典型作とし、地刃ともに冴えて明るいと評する。うち一口を説明書は「傑出の一口であり、典型作でもある」[[c:8]]と称え、彼の乱れ出来の優品とする。数口は山野加右衛門の截断銘を金象嵌に帯び、手のみならず刃味の証となり、茎に菊・蟹牡丹紋を切るものもある。指定を受けた三十口余の作は私蔵・旧家に伝わり、その所有はおおむね記録に残らない。されば在銘の播磨大掾あるいは播磨守忠国は、国宝のように手の届かぬものではなく、時に応じ、根気をもって真摯な収集家のもとに現れる。砂流しの最も盛んに奔る、華やかな丁子の会心の一口は、世に出た折に求むべきものである。
忠國の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 肥前
現在134点販売中
肥前忠吉派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。 詳しく見る →
肥前 藩営の刀
肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト14-day return if items arrive damaged or in unexpected condition; customer bears return shipping + insurance; items returned in original condition with all accessories; antique armour non-returnable; only regular priced items refundable; shipping costs non-refundable.
€3,900
特別重要刀剣等指定制度に基づき、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)より「保存刀剣」に鑑定された、初代信濃大掾忠国による傑作脇差です。 江戸時代、寛文〜延宝頃(1660〜1680年頃) 銘:平安城住人忠国(初代信濃大掾忠国) 本作は「平安城住人忠国」と銘があり、日本美術刀剣保存協会により、肥前忠吉派の京都における名工、初代信濃大掾忠国の真作と鑑定されています。令和7年(2025年)交付の保存刀剣鑑定書に加え、昭和39年(1964年)交付の広島県登録証が付属。研ぎの状態も極めて健全であり、江戸時代の面影を色濃く残す、格調高い時代拵に収められています。 【作者:初代信濃大掾忠国について】 初代忠国は、江戸時代を通じて最も栄えた流派の一つである肥前忠吉家の門人です。名門の技術を修得した後、古都・平安城(京都)へ移住し、独自の作風を確立しました。初期の作には、京都居住を意味する「平安城住」あるいは「平安城住人忠国」と銘を切り、後に「信濃大掾」を受領してからは「信濃大掾藤原忠国」と銘じました。藤代義雄氏の評価では「上々作」に列せられ、さらに「和歌山(業物)」としても知られており、その芸術的な美しさと実用的な切れ味の両面で高く評価されています。 【刀身の様態】 本作は、忠国一派の真髄とも言える洗練された特徴を顕著に示しています。 地鉄:板目肌に木目交じり、地沸厚くつく精良な鍛え。 刃文:ゆったりとしたのたれに、小互の目が交じる落ち着いた構成。 帽子:端正な小丸に、僅かに返る。 保存状態:研ぎの状態は非常に良く、地鉄の美しさと刃中の働きを存分に鑑賞いただけます。 茎:生(うぶ)、形状は栗尻。目釘孔一個。銘は表側に力強く深く刻まれており、信濃大掾受領前の初期作としての特徴をよく示しています。 【拵(外装)】 江戸時代に制作された、非常に質の高い一作拵に収められています。 (以下、拵の詳細記述へ続く)



























Hizen Tadayoshi (Saga / Ogi) · 肥前 · 1648-1652頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位21%
現在11点販売中
忠國は、播磨大掾、のち播磨守を冠した藤原忠国の初代である。初銘を広則といい、寛永十一年、三十七歳で播磨大掾を受領して名を忠国と改めた。播磨大掾を冠した作で最も年代の溯る年紀作は寛永十三年である。肥前一門の祖たる初代忠吉の門人で、橋本家の相右衛門吉家の子であり、祖と同じ橋本姓であるところから、説明書は一族であろうと判じ、本家の二代近江大掾忠広よりよほど早く受領したことを記す。佐賀鍋島家の三支藩の一つである小城藩に抱えられ、小城藩工として活躍した。晩年は入道して休鉄と号し、その作は天和年間に及ぶ。
説明書はその手を二様に読み、いずれも上手とするが、本領は華やかな乱れ刃にあるとする。互の目丁子・丁子乱れで、焼幅は総じて広く、丁子頭は時に丸く、互の目に角ばる刃・矢筈風の刃や飛焼を交える。足長く頻りに入り葉を交え、匂深く小沸よくつく。就中この工を名づけるのは砂流しである。説明書はある一刀について「刃中に砂流しがさかんにかかり」[[c:1]]、しかも一門の中でこれが最も顕著であるとして、「一派の中でも最もそれが目立つ」[[c:2]]と記す。これに金筋を交え、匂口は明るく冴える。丁子の作のもう一つの常は足の長さで、乱刃の場合は「足長丁子に特色がある」[[c:3]]と説明書はいう。
両様の地となるのは、よくつんだ肥前の小板目に地沸ついた地で、一門の知られる鍛えである。上作では地沸が微塵に厚く敷かれ地景の入る精美な地となり、かね明るく冴え、晩年の直刃の作には刃寄りに僅かな流れごころを交えるものがあると説明書は記す。その地の上のもう一つの面は静かな作域である。中直刃、時に広直刃を焼き、匂深く足・葉よく入り、細かに金筋・砂流しがかかり、刃縁に二重刃風を交える。説明書はこれを端的に「直刃、乱刃ともに上手」[[c:4]]と記し、ある晩年の直刃の刀については、常の手くせに反してここでは「さまで砂流しが目立たず」[[c:5]]、総じて穏やかな出来口に仕上げて、この比較的少ない直刃の作域をあらわすとする。帽子はいずれも直ぐに小丸、しばしば掃きかける。
その記録は年代よりも作域によって分かれるが、年紀作が晩年を読ませる。播磨大掾銘がその作の本体を担い、播磨守銘は転任以後、寛文・延宝、そして天和に及ぶ晩年の刀を標す。延宝二年紀の一刀は、変化ある大のたれ乱れを主調として丁子風の刃や飛焼を交え、沸・匂ともに深く、説明書がこれを放胆で覇気あふれた作風と評する。最も意欲的な丁子の作では焼幅を一段と広く大丁子乱れに荒沸を交えて僅かに棟焼を交じえ、これ程焼の高いものは同作中珍しいとして、説明書は初代忠国が「古作の一文字あたりを狙ったものであろうか」[[c:6]]と推す。同じ記録はその作の難しさをも明らかにする。二代も播磨守に任じたため初・二代の区別が容易につけ難く、現在二代と称するものの大部分が初代作ではないかとの説があると説明書は記す。
一門の中で忠国を分かつものは、まさに極めの言うところである。地と明るい匂口は肥前共通の遺産で、米糠状に精良な小板目と冴えた刃は、忠吉一門のいずれの工も祖に負うところである。彼自身の見どころはその遺産の上に重ねられる。足長の丁子乱れと、その刃中を一門の何れの手よりも顕著に奔る砂流しである。ある刀について説明書は、その出来を「一見直江志津などの風を見せて上手である」[[c:7]]と読み、大和がかった流れる刃は、静かな肥前の直刃の基準から彼の乱刃がいかに遠く達するかの尺度をなす。彼は一門で最も巧みな華やかな丁子の手であり、肥前の地をより明るく働きのある刃に運んだ支流の工である。
収集の観点では、在銘で資料の確かな新刀の名であり、その作はことごとく重要刀剣の位にある。藤代の極めは上作。国宝はなく重要文化財もない。その記録は重要刀剣の各回に及び、説明書は繰り返してこれを同工の代表作・典型作とし、地刃ともに冴えて明るいと評する。うち一口を説明書は「傑出の一口であり、典型作でもある」[[c:8]]と称え、彼の乱れ出来の優品とする。数口は山野加右衛門の截断銘を金象嵌に帯び、手のみならず刃味の証となり、茎に菊・蟹牡丹紋を切るものもある。指定を受けた三十口余の作は私蔵・旧家に伝わり、その所有はおおむね記録に残らない。されば在銘の播磨大掾あるいは播磨守忠国は、国宝のように手の届かぬものではなく、時に応じ、根気をもって真摯な収集家のもとに現れる。砂流しの最も盛んに奔る、華やかな丁子の会心の一口は、世に出た折に求むべきものである。
忠國の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 肥前
現在134点販売中
肥前忠吉派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。 詳しく見る →
肥前 藩営の刀
肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト14-day return if items arrive damaged or in unexpected condition; customer bears return shipping + insurance; items returned in original condition with all accessories; antique armour non-returnable; only regular priced items refundable; shipping costs non-refundable.
€3,900