大和を支えた大寺の力は室町を通じて衰え、諸派もこれとともに細った。末手掻が古風な柾目を量産のうちに伝えている。1567年の東大寺大仏殿の炎上が、寺院の時代の幕を引いた。
刃長23.75センチ 反り0.1ミリ 元幅19.4ミリ 元重ね6.3ミリ 物打幅21.2ミリ 物打重ね5.4ミリ 裸身重量155グラム 拵に納めて鞘を払った重量288グラム 江戸初期 The early years of Edo era 昭和39年6月25日 東京島登録 附属 保存刀剣鑑定書、潤塗鞘短刀拵、素銅地金着はばき 大和五派の一つ手掻派は、奈良東大寺の西の正門である輾磑門(てんがいもん)の門前に住して東大寺に従属していたことから、手掻と呼称されています。大和五派の中でも最も規模が大きく、鎌倉期から室町期に渡っておおいに栄え、技量が安定していることでも著名であり、その名跡は手貝町、包永町などの地名として今なお残っています。 手掻派の始祖は鎌倉時代中期の正応(1288)頃の包永と言われ、同工の作として名高いものに、名物『児手柏』(大正十二年の関東大震災で焼失)や岩崎家所蔵品の国宝、他に重要文化財6口が知られていますが、これらの指定品は磨り上げられて茎尻に二字銘が残されたものであります。 手掻派の著名刀工としては、他に包吉、包清、包友、包利などがおり、正宗十哲の一人、兼氏(初銘包氏)も手掻派に属したと言われています。 また、包氏、包友、包吉は、後に美濃に移住し「包」の字を「兼」に改め、それぞれ兼氏、兼友、兼吉、と名乗ったと言われ、長く栄えた手掻派の中でも、南北朝時代迄の作を『手掻』、室町時代の作を『末手掻』と総称し、大和五派中でもっとも沸が強く、地鉄が冴えるのが特徴とされています。 無銘ながら末手掻と極められたこの刀は、棟を三ツ棟とし、初見した瞬間に眼が行くのが、刀身の身幅中央に掻かれた腰樋と護摩箸でありましょう。地鉄は小板目肌、刃寄りに大和特有の柾を交えて詰み、地底に地景が蠢き、厚くついた地沸の粒子が光を反射して輝く様は、まさに銀河を眺めるかのようです。刃文は直刃で、刃区下で焼き込み、刃縁に小沸ついて明るく、刃中も沸と匂が満ちて明るい。鋩子は直ぐに先小丸に返る。 短寸ながら地刃美しく見応えがあり、現代きっての名研師による最上研磨を施しましたので、大和物の優質の全容を存分にお手元で楽しめます。他店よりお値段高めと感じられるかもしれませんが、本短刀を直接手にすれば、けして高い値付けではないことを実感頂けることでしょう。 附属の拵は、赤茶がかった潤み塗りの鞘を用い、縁金具には出来の良い瓢箪図、目貫には鉄地の鮑を据えています。小柄は鉄地に掛軸図が添えられ、喰出鐔を合わせてまとめられた姿は、小振りながらも確かな存在感を放ちます。さらに、うぶの章魚下緒が付属している点も大変好ましく、時代の風情を一層引き立てています。 瓢箪も鮑も、単なる装飾ではなく、健康・繁栄・武運・礼節・忠誠・長寿といった武家にとって重要な願いを託す吉祥意匠として知られ、拵全体に上品な吉兆の趣を添えています。 柄にがたつきはなく堅牢ですが、鐔鳴りがみられますので、責金を施し末永く御愛玩ください。
Certificate reading — 無銘(末手掻)


















大和伝 · 大和
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手掻派は、大和五派の一として奈良に興った刀工の一門である。東大寺の西の正門である転害門の外辺に居住し、東大寺に隷属していた鍛冶の集団と推察され、寺の門の名がそのまま一派の称となった。手掻とも転害とも書く。その祖と伝えられるのが包永で、銘鑑は活躍を鎌倉時代後期の正応頃(一二八八〜九三)とするが、初代の在銘作に年紀はなく、子とも弟子とも伝える包清に嘉暦四年(一三二九)紀の短刀が遺ること、また作域・造込みからして更に時代の遡るとの見解も繰り返し示され、活躍期は鎌倉時代中期から末期にかけてと読まれる。以後、包永の名は数代に継承され、包清・包俊・包次ら同族の工が南北朝から室町に亘って栄えた。大和五派の中で手掻は最も規模が大きく、室町期には他派を吸収したかのごとくこの派のみが存続したとされる。寺社に隷属した工房を母胎とする出自は、その実用本位の造込みと抑制された焼刃の根にあって、一門の作風を貫いている。 一派に通う語法は、まず地鉄に読まれる。鍛えは板目に杢・流れ肌を交え、刃寄りは流れて柾がかり、しばしば肌立ちごころとなって、奈良の手掻に置く構造的な見どころを示す。その上に地沸が厚くつき、地景が頻りに入り、鉄がよく冴える。この柾の目立つ板目こそ、大和五派に共通する第一の標識である。焼かれる刃は直刃を基調とし、浅くのたれて小互の目・小乱れを交え、決して華やかな大模様には出ない。刃縁にはほつれ・打のけ・喰違刃・二重刃がかかり、湯走りが地にこぼれ、金筋・砂流しが走って、刃中にもまた柾が通う。帽子は先を掃きかけて返りの少ない焼詰め風となり、あるいは小丸に浅く返る。これらは大和物に共通する働きであるが、手掻が他の四派と分かれるのは沸の質においてである。包永の作は大和物の中でも最も沸の強いもので、つぶらで輝きのある美しい沸がつき、匂口は明るく地刃ともによく冴える。この明るく強い沸が、鎌倉後期の古手掻を貫く核である。代を降ると地は白けごころとなり、棟寄りに白け映りが立ち、匂口は締まって小沸ごころとなる。包清・包俊・包次らの応永頃の短刀がこの末手掻の典型を示し、なお末期に至れば、享禄頃の包清の刀のごとく直刃が大互の目の皆焼へと転じ、千子村正に近い作域を見せるに至る。古手掻の明るく強い沸から、末手掻の白けて締まった刃へ、一門の弧はこのように降る。 鑑定の勘所は、まずこの柾の目立つ地鉄と、掃きかけ・焼詰めの帽子の下に喰違刃・二重刃と働く直刃にある。同じ大和の中でも、来の詰んだ小板目に整って流れる直刃とは地が分かれ、古備前の丁子に映りを伴う乱れとも分かれる。大和の内部では、千手院・尻懸則長・当麻・保昌と並び称されるが、その分かれ目は手掻自身の特色に沿う。包永は浅くのたれる直刃調を保って小互の目が連れて連なることはなく、湯走り・打のけ・二重刃が刃縁の上に自在に働き、保昌の無地の直刃よりほつれと二重刃に富み、尻懸の連れた小互の目とも異なる。祖包永の格は一門の頂にあり、太刀姿は凛然として格調の高いものが多く、その沸は粟田口久国や相州上工に比し得るものと評されてきた。在銘の太刀は古作としては異例に多く、その殆どが茎先に二字銘を遺す磨上の状態のもので、「包」の字が竪づまりとなり、「永」の字の第二画の竪棒を極端に長く引くところが銘字の見どころとされる。伝来も深く、徳川将軍家から諸大名へ拝領された太刀があり、本多忠勝の孫忠刻の所持銘を残す一口、堀尾家を経て勢州石川家に伝来した折返銘の刀など、来歴を伝える作が多い。包清・包俊・包次ら後代の工は、大磨上無銘の極めを通じて世に伝わるものが多く、在銘・年紀の作はそれ自体が稀少にして、最も規模の大きな大和の一派の作域を知る定点として貴ばれている。 詳しく見る →
室町時代の大和
大和を支えた大寺の力は室町を通じて衰え、諸派もこれとともに細った。末手掻が古風な柾目を量産のうちに伝えている。1567年の東大寺大仏殿の炎上が、寺院の時代の幕を引いた。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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