日本刀 脇差 銘 肥前住藤原国広(日本美術刀剣保存協会 保存刀剣鑑定書付) 【解説】 本作は「肥前住藤原国広」と銘のある一振りです。肥前国は現在の佐賀県にあたり、「肥前住」とは作者が同国に居住し作刀したことを示しています。当時、多くの刀工が自らの作風の証として、銘に居住地を刻みました。 国広は江戸時代前期、寛永から万治年間(1624-1661年)にかけて活躍した刀工です。本名を橋本六郎左衛門といい、同国の名工・広貞の長男として生まれました。広貞は、江戸初期を代表する名工である初代忠吉の弟にあたります。 江戸時代後期、幕府の御用試斬役であった山田浅右衛門による著書『懐宝剣尺』において、国広の作品は「良業物(切れ味が優れた刀)」として格付けされています。同書は当時の著名な刀工たちの切れ味を評価したものであり、国広の技量の高さが証明されています。 肥前刀工は鍋島藩の庇護のもとで発展し、「小糠肌(こぬかはだ)」と呼ばれる、きめ細やかで美しい地鉄を完成させました。これは肥前刀の最大の特徴の一つです。また、海外貿易で栄えた肥前国では、南蛮鉄(西洋から輸入された炭素鋼)をいち早く取り入れ、和鉄と組み合わせて使用していました。 (初代忠吉について) 国広の叔父にあたる初代忠吉は、佐賀藩に生まれました。慶長元年(1596年)、藩命により京都へ上り、江戸初期の巨匠・埋忠明寿の門下で修行を積みました。二年後に帰郷した忠吉は、初代藩主・鍋島勝茂公にその腕を認められ、御抱え鍛冶として佐賀城下に居を構えます。彼が築いた「肥前忠吉家」は、江戸時代を通じて100名を超える刀工を輩出する一大流派となり、国広もその一翼を担いました。 本作は、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)により、美術的価値が高く、保存状態の優れた真作であることを証明する「保存刀剣」に認定されています。 【刀身】 長さ:58.6 cm(1尺9寸3分) 反り:1.8 cm 刃文:焼入れによって刃先に現れる結晶構造 地肌(地鉄):鍛錬の過程で現れる鋼の表面模様 茎(なかご):刀身の柄に収まる部分。意図的に残された黒錆は赤錆を防ぐ役割があり、その朽ち込み具合は製作年代を特定する重要な指標となります。 【外装】 拵(こしらえ):鞘、柄、鍔などを含めた日本刀の外装一式。 縁頭(ふちかしら):柄の両端を保護し装飾する金具。 本作の縁頭は、赤銅地に桐文様と唐草文様が優美に施されています。桐紋は三本の直立する花序と三枚の葉からなり、花数によって格付けが異なります。本作に見られる「五三の桐」は、古くは皇室や時の権力者によって用いられた格式高い文様として知られています。





















新刀 · 肥前 · 1644-1648頃
藤代 Chu-jo saku · 刀剣大鑑 上位76%
現在4点販売中
新刀 · 肥前
現在122点販売中
肥前忠吉派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.
日本刀 脇差 銘 肥前住藤原国広(日本美術刀剣保存協会 保存刀剣鑑定書付) 【解説】 本作は「肥前住藤原国広」と銘のある一振りです。肥前国は現在の佐賀県にあたり、「肥前住」とは作者が同国に居住し作刀したことを示しています。当時、多くの刀工が自らの作風の証として、銘に居住地を刻みました。 国広は江戸時代前期、寛永から万治年間(1624-1661年)にかけて活躍した刀工です。本名を橋本六郎左衛門といい、同国の名工・広貞の長男として生まれました。広貞は、江戸初期を代表する名工である初代忠吉の弟にあたります。 江戸時代後期、幕府の御用試斬役であった山田浅右衛門による著書『懐宝剣尺』において、国広の作品は「良業物(切れ味が優れた刀)」として格付けされています。同書は当時の著名な刀工たちの切れ味を評価したものであり、国広の技量の高さが証明されています。 肥前刀工は鍋島藩の庇護のもとで発展し、「小糠肌(こぬかはだ)」と呼ばれる、きめ細やかで美しい地鉄を完成させました。これは肥前刀の最大の特徴の一つです。また、海外貿易で栄えた肥前国では、南蛮鉄(西洋から輸入された炭素鋼)をいち早く取り入れ、和鉄と組み合わせて使用していました。 (初代忠吉について) 国広の叔父にあたる初代忠吉は、佐賀藩に生まれました。慶長元年(1596年)、藩命により京都へ上り、江戸初期の巨匠・埋忠明寿の門下で修行を積みました。二年後に帰郷した忠吉は、初代藩主・鍋島勝茂公にその腕を認められ、御抱え鍛冶として佐賀城下に居を構えます。彼が築いた「肥前忠吉家」は、江戸時代を通じて100名を超える刀工を輩出する一大流派となり、国広もその一翼を担いました。 本作は、日本美術刀剣保存協会(NBTHK)により、美術的価値が高く、保存状態の優れた真作であることを証明する「保存刀剣」に認定されています。 【刀身】 長さ:58.6 cm(1尺9寸3分) 反り:1.8 cm 刃文:焼入れによって刃先に現れる結晶構造 地肌(地鉄):鍛錬の過程で現れる鋼の表面模様 茎(なかご):刀身の柄に収まる部分。意図的に残された黒錆は赤錆を防ぐ役割があり、その朽ち込み具合は製作年代を特定する重要な指標となります。 【外装】 拵(こしらえ):鞘、柄、鍔などを含めた日本刀の外装一式。 縁頭(ふちかしら):柄の両端を保護し装飾する金具。 本作の縁頭は、赤銅地に桐文様と唐草文様が優美に施されています。桐紋は三本の直立する花序と三枚の葉からなり、花数によって格付けが異なります。本作に見られる「五三の桐」は、古くは皇室や時の権力者によって用いられた格式高い文様として知られています。





















新刀 · 肥前 · 1644-1648頃
藤代 Chu-jo saku · 刀剣大鑑 上位76%
現在4点販売中
新刀 · 肥前
現在122点販売中
肥前忠吉派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.