江戸は刀の目利きの時代である。本阿弥の鑑定、1719年の享保名物帳、盛んな刀剣書が、戦で抜かれることのなくなった刀を学問の対象へと変えていった。
This blade is attributed to Kunikane (國包), who was active during the early Edo period (1612-1672). The maker’s name Kunikane lasted 13 generations. According to its NTHK’s appraisal, it is attributed to the second-gen Kunikane, also known as Hongo Kichiemon (本郷吉衛門) or Oshu Sendai Jyu Fujiwara Kunikane (奥州仙台住藤原国包). Oshu is the province’s name, and Sendai is the city’s name in Miyagi prefecture. The first-gen Kunikane was a descendant of the Hosho school members in Yamato province (today’s Nara prefecture). The first-gen was famous for serving Date Masamune, one of the most famous feudal lords in Japanese history and a legendary figure even today. Under Date Masamune’s order, the first-gen Kunikane was sent to Kyoto in 1614 to become an apprentice of Etchu no Kami Masatoshi, who belonged to Mishina school and was one of the most famous swordsmiths in Kyoto back then. After mastering superb craftsmanship, Kunikane returned to Mutsu province, another name for Oshu, in the fifth year of the Genwa era (1619). He received the honorable official title of Yamashiro Daijo for his excellent sword-forging techniques in the third year of the Kan-ei era (1626). The maker’s name Kunikane lasted thirteen generations until the early Meiji period. And they all served the Date clan exclusively, forging high-quality blades. And they pursued their ancestor’s sword-forging styles from Hosho school in Yamato province (today’s Nara prefecture). The second-gen Kunikane was born in 1612 as the son of the first-gen Kunikane. The second-gen took over his father’s school in the 2nd year of the Shoho era (1645). He also received the honorable official title of Yamashiro Daijo in the 7th year of the Kanbun era (1667). The second-gen died at the age of 61 years old in 1672. Of all the generations of Kunikane, the first and second generations are especially known for superb level of craftsmanship in their blades. If you are looking for an antique Japanese sword related to the Date clan or Date Masamune, we are confident you will be pleased to add this Katana to your collection. *Please keep in mind that there are a couple of partial black rust on this blade. Authentication Paper They authenticated the blade on April 23rd in the 42nd year of Shouwa (1967). They appraised it as Tokubetsu Kichou Touken, an old form of the certificate.




















販売店の記載のまま
Sendai Kunikane, Mutsu (Sendai Shinto) · Rikuzen · 1644-1670頃
藤代 上作 · 刀剣大鑑 上位31%
現在3点販売中
寛新兵衛差料の金象嵌所持銘と、寛文十一年十二月十六日蓬田安太夫の二ツ胴截断金象嵌銘をもつ長大な刀は、説明が「奥州仙台二代目山城守国包の作である」[[c:1]]とし「二代作中の代表作の一口である」[[c:2]]とする一口である。二代国包は初代山城大掾国包の嫡子で本郷吉右衛門といい、慶長十七年に生まれ、正保二年に三十四歳で家督を相続して伊達家に仕え、寛文七年十一月十二日に山城守を受領し、寛文十二年七月二日に六十一歳で歿した。
説明は「その作風は初代の風をそのままに襲って、保昌風の作に終始している」[[c:3]]と記し、また「家伝の保昌流の柾目鍛を得意として直刃の上手であり、僅かに互の目乱もあり、父につぐ上手である」[[c:4]]とする。在銘の作はいずれも柾目鍛えに直刃を焼く。柾目よく通り地沸つき、優品では地沸微塵に厚く地景細かに入り、中直刃を焼いて物打辺に小足入り、刃縁ほつれ喰違刃交じり、刃縁に絡んで金筋入り、細かに砂流しがかかる。帽子は直ぐに焼詰め、あるいは小丸となって掃きかける。
見どころも説明に明示される。「なお区下より水影が立っているが、初代同様二代にも見る手くせであり」[[c:5]]、下半に映り風を見せる。また「茎鑢が単純な化粧になるものもまま見られ、これも彼の見どころである」[[c:6]]。銘字では横に引いた字画が皆打ちおさめ強く押え鏨があり、包の字の中の形も見所とされる。
直刃の作域のかたわらに、広直刃にのたれ・互の目を交え二重刃・荒沸の働きを見せる作もある。寛文十年前後の一口について説明は「この刀は二代の作としては実に迫力に富み、殆んど初代に劣らない出来である」[[c:7]]とし、寛文十年紀の刀は「上の出来は極めて入念の作で破綻がない」[[c:8]]とされる。奥州仙台住国包銘の刀は「この刀は同工の山城守受領以前の作ではあるが、典型的且つ代表作の一口である」[[c:9]]。
説明は父との比較を二様に記す。古い一文は「その作風は、全く父と同様であるが、技術は父に及ばない」[[c:10]]とし、のちの説明は父につぐ上手で、中には初代に迫るものもあるとする。また初代が正保二年に隠居し寛文四年に七十三歳で歿したとの所伝については「しかしこれは恐らく誤りがあるものと思われ」[[c:11]]とし、二代の山城守受領の寛文七年と寛文十二年の歿年によって年代を定める。
藤代は上作。指定作は重要刀剣十口で、いずれも在銘、多くは身幅広く肉置き豊かな寛文期の長寸の刀である。用恵と銘する初代自身の作は初代の名のもとにあり、二代は収集家が出会うことの多い国包として、家伝の保昌の作域を忠実に二代へと伝えた柾目と直刃の寛文刀である。
國包の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
大和伝 · Rikuzen
現在10点販売中
仙台国包は、奥州仙台、すなわち陸前の地に興った一門で、伊達家の抱え鍛冶を出自とする。初代国包は本郷氏で、初め源蔵、のち吉之允といい、文禄元年、奥州宮城郡国分若林、現在の仙台市に生まれている。説示が伝えるところでは、伊達政宗の抱え鍛冶となったのち、慶長十九年に主命によって上洛し、越中守正俊の門に学んだ。寛永三年に山城大掾を受領し、同十三年に政宗が薨ずると入道して仁沢用恵と称し、正保二年、五十四歳の時に隠居して家督を二代嫡子吉右衛門に譲った後も鍛刀を続け、寛文四年に七十三歳で歿している。みずから大和保昌五郎の末流と称した通り、その志すところは終始大和保昌伝にあり、古保昌の作域に迫る域へと達した。家は二代へと継がれ、二代国包は本郷吉右衛門といい、慶長十七年に生まれ、正保二年に家督を相続して、初代歿後の寛文七年に山城守を受領し、寛文十二年、六十一歳で歿している。 説示が一門の作に共通して挙げる語法は、鎬が高く、鎬幅が身幅の割に広い造込みに、柾目を鍛え、直刃を主調とする一点に収斂する。地鉄は柾目肌がよくつみ、ときに流れごころとなって、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かによく入り、かねが冴える。刃文は中直刃あるいは広直刃を基調に浅くのたれ、小互の目や小足を交え、匂深く沸がよくつき、刃縁には打のけ・ほつれ・喰違刃・二重刃が交じり、金筋・砂流しがよくかかって、帽子は直ぐに焼き詰める。これらは初代が理想とした古作大和保昌の作域を仙台の地に再現したものであり、刀身に施された素剣や二筋違の彫物にも、古作大和物の特色がうかがわれる。代の判別については、二代もまた家伝の大和保昌伝を得意として中には初代に迫るものもあるが、互の目乱れの出来が見られる点が説示に記される。なお、区下より水影の立つ態は初代・二代ともに見られる手くせであり、二代には茎鑢が単純な化粧になるものもまま見受けられると説示は伝える。 鑑定の要点は、柾目の強い鍛えと、直刃に絡むほつれ・喰違刃・二重刃、そして焼き詰める帽子という大和保昌風の総体にあり、区下の水影や、銘字の「藤」の草冠が寛永九年二月以降に離れて切られるといった銘振りの変化が、製作期を測る手掛かりとして説示に示される。代表作としては、宇和島伊達家に伝来した山城大掾藤原国包銘の一口があり、伊達家の家紋たる九曜紋を茎に切った脇指も伝わって、伊達家との縁の深さを物語る。受領銘に比して作の少ない用恵銘や、山野加右衛門の截断銘を有する作は、資料的に貴重なものとして扱われている。仙台国包は、相州伝の盛行した新刀初期にあって、あえて柾目鍛えの大和保昌伝を一貫して追い、古保昌に優るとも劣らぬ作域を東北の地に確立した一門として位置づけられる。 詳しく見る →
江戸時代
江戸は刀の目利きの時代である。本阿弥の鑑定、1719年の享保名物帳、盛んな刀剣書が、戦で抜かれることのなくなった刀を学問の対象へと変えていった。
本作はNBTHKの旧鑑定書(貴重・特別貴重)を有しますが、これらは現在発行されておらず、現在の日刀保ではほとんど認められていません。極めを確認するには、公的な鑑定機関(NBTHK・NTHKなど)に再提出し、現行の鑑定を受けることもご検討ください。
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