南北朝の戦乱は、山城の精緻を支えた公家社会を疲弊させた。来派最後の巨匠たちをもって古典の系譜は閉じ、長谷部と信国が新しい相州風を都に持ち込んでいる。














Enju (Higo) · 肥後 · 1352-1356頃
刀剣大鑑 上位31%
現在2点販売中
国吉は鎌倉時代最末期から南北朝期にかけて肥後国菊池郡隈府の地に活躍した、延寿派の名工の筆頭に挙げられる工である。説明書はその系を、大和千手院弘村の子で京の来国行の外孫と伝える延寿太郎国村に遡らせ、国吉を国時・国泰・国友・国資・国信・国綱と並ぶ同派代表の一人とし、国村の子とも弟ともに伝える。その二重の出自から一派の性格は定まり、説明書はその作を「概ね山城の来派に類似する」[[c:1]]ものとし、直刃に長けながら千手院の系から大和の気質を帯びるとする。延寿各工は個性に乏しいため、多く磨上げられ無銘となったその作は、個性よりも時代と一派によって極められる。
その特色は、流れる地に焼かれた静かな直刃にある。刃文は細直刃あるいは中直刃を本体とし、小互の目・小足を交え、刃縁ほつれ、細かに砂流し・金筋かかり、小沸つき、匂口は多く締まる。その穏やかな刃の中で説明書がしばしば立ち返る働きが二つあり、一つは喰違刃、いま一つは何より刃に沿い帽子へと入る二重刃である。在銘磨上の一口について説明書は「殊に二重刃が目立ってかかっている様には、此の派の特色が顕著にあらわれている」[[c:2]]と記す。帽子は直ぐに小丸、時にやや大きな丸となって返り浅く、稀に焼詰め、あるいは掃きかける。
地鉄こそ一派の見どころが先に読まれるところである。板目、しばしば小板目つまった地が刃寄り流れて柾となり、地沸つき、地景入り、処々地斑を交え、白け映りが総体によく立つ。この冷たく霞んだ映りが、目立つ柾ごころと相俟って、来の締まった地鉄から延寿を分かつ主たる点として説明書に挙げられる。同じ記録はその出自の代償にも率直であって、来物に比して地刃やや弱く、かねが白け、直刃静かに、匂口沈みごころとなるとする。国吉はその通例を、ただ満たすのではなく超えることの最も多い工である。
その記録は作の姿によって截然と分かれる。本体はやや細身で多く磨上げ、いくつかは刀に詰められた太刀で、直刃と白け映りがその代表の姿で現れる。これに対するのが寸延びた平造の短刀で、身幅広め重ね厚く、小板目に杢と流れ柾を交え、直刃はここで浅くのたれて匂深く、一派の彫物、すなわち表に梵字とその下の素剣、裏に刀樋と添樋を掻き流す。銘は大振の二字銘で、説明書はこれを一つの書風で読む。すなわち国構えの中の右半分を耳形にきる書風であって、「国構の中の右半分を耳形に鍛るのが此の派の銘振りの見どころ」[[c:3]]とし、他派にまぎれることがなく、同名の粟田口国吉とも分かたれるとする。
国吉を同派の中で分かつのは明るさである。説明書は在銘の特別重要刀剣を、延寿の弱点を悉く脱した一口として特記し、地鉄の白けた弱さも沈みごころの匂口もなく、却って「地刃共に明るく冴えており、同派の中では垢抜けした出来映えのもの」[[c:4]]とする。一派が柾ごころ・白け映り・静かな刃で読まれる中、その出色の作はそれらの見どころを保ちつつ冴えを高め、二重刃鋭く、かねよく錬れる。国吉の名は室町まで数代継承され、肥州菊池と銘した脇指は永徳頃の後代と読まれるため、初代はその名跡から年代と出来によって分けられる。
藤代に位列の記載はなく、刀工大鑑はその作を四百五十とする。国宝はなく重要文化財もない。その記録は特別重要刀剣二口、重要刀剣十九口に亘り、重要美術品があり、金象嵌・金粉・朱銘および在銘・無銘の作が伝わる。来歴は肥後の地方工としては破格に華やかで、二口の短刀は本阿弥光温折紙を附して尾張徳川家に伝わり、うち一口は同家最高位の「仁」に選ばれ、一口の磨上太刀は徳川将軍家を経、飾太刀の一口は中身を伴って五摂家の一条家に伝わり、また伊勢神宮に納まる作がある。無銘の短刀の一口を、説明書は「地刃ともに健全な国吉極めの稀な一品」[[c:5]]と称える。特別重要刀剣・重要刀剣の各位に二十一口を数えつつ、その殆どが私蔵と機関の所蔵にあって、在銘の延寿国吉が世に出ることは稀である。世に出れば、それは肥後一派の筆頭の手を、すなわち南へ伝えられ明るく結ばれた来風を、手に取る稀な機会となる。
國吉の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
山城伝 · 肥後
現在22点販売中
肥後国菊池郡隈府の地に興った延寿派は、京の来の作風を九州へ移した一門である。その祖を太郎国村とし、通説に大和千手院派の弘村の子で来国行の娘聟となり、その外孫として来の工房に学んだと伝える。延寿の名はその来の一字に通うとされ、一門の出自を山城の血脈に結ぶ。国村のまわりには国時・国泰・国資・国吉・国信・国友・国綱らの上手がほぼ時を同じくして輩出し、鎌倉時代末葉から南北朝期にかけて菊池郡の地に大いに繁栄した。延寿の工は南朝に忠なる菊池氏に属し、年紀ある作には正平・延元など南朝の年号を刻むものがあって、一門の活動とその歴史を地に結びつけている。 延寿の作は概ね来派に類似し、各工に際立った個性が少ないため、一門は個々の手よりも一団として読まれる。その共通の語法は地鉄に最もよく現れる。鍛えは小板目がよくつんで詰み、杢を交え刃寄りに流れて柾ごころを帯び、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入る。その上に立つのが一門第一の見どころたる白け映りで、明るく冴える来の地鉄とは異なる、冷たく霞んだ映りである。刃文は中直刃あるいは細直刃を本体とし、小互の目・小足を交え、しばしば二重刃を見せ、匂口は幾分沈みごころとなって穏やかに焼く。帽子は来が小丸に締めて返るのに対し、先の丸味がやや大きい大丸となって返り浅く、先に掃きかけるものが多い。これらの柾ごころ・白け映り・沈みごころの匂口・穏やかな刃中の働き・丸味の大きい大丸帽子が、来に似てやや異なる延寿の見どころであり、真の来から一門を分かつ要となる。本間は延寿を「来に似てやや異なる」[[c:2]]とし、その直刃の刃中の働きを来一派の直刃よりも淋しいと記す。その淋しく冷えた趣こそ一派の眼目である。 延寿の鑑定の勘所は、なべてこの来との別にある。輪反りや京風が一見来を想わせても、地の流れ・白け映り・沈む匂口より延寿と看取し、来に比して地刃やや弱しとされる。一門に個性が少ないがゆえに、主要工はその一様の中から程度の差によって絞られる。祖国村は細身で元先の幅差が顕著、反り高く小鋒に結ぶ独特の姿態をもって無銘の延寿を己に引き寄せる。国時は遺例が比較的多く作柄の平均点も高い代表工で、一門の抑えた直刃を誰よりも賑やかに働かせる。国泰は地刃の沸が一門の中で最も強くつき、佳作は明るく冴える。国資は刃中の働きが最も豊かで、寸延びの作に火焰風の帽子という一門に類のない働きを示す。国吉は地刃の冴えにおいて延寿の弱点を脱した垢抜けた手を遺し、国信は遺例こそ少ないが刃に沿う二重刃を殊に鮮明に見せる。これらの諸工はいずれも国の字を冠し、その「国」構の右半を耳形に切る銘振りを共有して他派にまぎれず、藤代に上々作以上の格を得る。伝来も地方工としては厚く、来歴の確かな作が黒田家・徳川家・伊達家・上杉家・細川家などの旧家を経、林原美術館・出光美術館・徳川美術館・佐野美術館をはじめとする機関に蔵される。在銘生ぶの太刀や身幅広い在銘の短刀は遺るものが少なく、多くは大磨上無銘の極めとして伝わるため、肥後の山城風を手に取りうる機会はおのずから限られている。 詳しく見る →
南北朝の戦乱は、山城の精緻を支えた公家社会を疲弊させた。来派最後の巨匠たちをもって古典の系譜は閉じ、長谷部と信国が新しい相州風を都に持ち込んでいる。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。














Enju (Higo) · 肥後 · 1352-1356頃
刀剣大鑑 上位31%
現在2点販売中
国吉は鎌倉時代最末期から南北朝期にかけて肥後国菊池郡隈府の地に活躍した、延寿派の名工の筆頭に挙げられる工である。説明書はその系を、大和千手院弘村の子で京の来国行の外孫と伝える延寿太郎国村に遡らせ、国吉を国時・国泰・国友・国資・国信・国綱と並ぶ同派代表の一人とし、国村の子とも弟ともに伝える。その二重の出自から一派の性格は定まり、説明書はその作を「概ね山城の来派に類似する」[[c:1]]ものとし、直刃に長けながら千手院の系から大和の気質を帯びるとする。延寿各工は個性に乏しいため、多く磨上げられ無銘となったその作は、個性よりも時代と一派によって極められる。
その特色は、流れる地に焼かれた静かな直刃にある。刃文は細直刃あるいは中直刃を本体とし、小互の目・小足を交え、刃縁ほつれ、細かに砂流し・金筋かかり、小沸つき、匂口は多く締まる。その穏やかな刃の中で説明書がしばしば立ち返る働きが二つあり、一つは喰違刃、いま一つは何より刃に沿い帽子へと入る二重刃である。在銘磨上の一口について説明書は「殊に二重刃が目立ってかかっている様には、此の派の特色が顕著にあらわれている」[[c:2]]と記す。帽子は直ぐに小丸、時にやや大きな丸となって返り浅く、稀に焼詰め、あるいは掃きかける。
地鉄こそ一派の見どころが先に読まれるところである。板目、しばしば小板目つまった地が刃寄り流れて柾となり、地沸つき、地景入り、処々地斑を交え、白け映りが総体によく立つ。この冷たく霞んだ映りが、目立つ柾ごころと相俟って、来の締まった地鉄から延寿を分かつ主たる点として説明書に挙げられる。同じ記録はその出自の代償にも率直であって、来物に比して地刃やや弱く、かねが白け、直刃静かに、匂口沈みごころとなるとする。国吉はその通例を、ただ満たすのではなく超えることの最も多い工である。
その記録は作の姿によって截然と分かれる。本体はやや細身で多く磨上げ、いくつかは刀に詰められた太刀で、直刃と白け映りがその代表の姿で現れる。これに対するのが寸延びた平造の短刀で、身幅広め重ね厚く、小板目に杢と流れ柾を交え、直刃はここで浅くのたれて匂深く、一派の彫物、すなわち表に梵字とその下の素剣、裏に刀樋と添樋を掻き流す。銘は大振の二字銘で、説明書はこれを一つの書風で読む。すなわち国構えの中の右半分を耳形にきる書風であって、「国構の中の右半分を耳形に鍛るのが此の派の銘振りの見どころ」[[c:3]]とし、他派にまぎれることがなく、同名の粟田口国吉とも分かたれるとする。
国吉を同派の中で分かつのは明るさである。説明書は在銘の特別重要刀剣を、延寿の弱点を悉く脱した一口として特記し、地鉄の白けた弱さも沈みごころの匂口もなく、却って「地刃共に明るく冴えており、同派の中では垢抜けした出来映えのもの」[[c:4]]とする。一派が柾ごころ・白け映り・静かな刃で読まれる中、その出色の作はそれらの見どころを保ちつつ冴えを高め、二重刃鋭く、かねよく錬れる。国吉の名は室町まで数代継承され、肥州菊池と銘した脇指は永徳頃の後代と読まれるため、初代はその名跡から年代と出来によって分けられる。
藤代に位列の記載はなく、刀工大鑑はその作を四百五十とする。国宝はなく重要文化財もない。その記録は特別重要刀剣二口、重要刀剣十九口に亘り、重要美術品があり、金象嵌・金粉・朱銘および在銘・無銘の作が伝わる。来歴は肥後の地方工としては破格に華やかで、二口の短刀は本阿弥光温折紙を附して尾張徳川家に伝わり、うち一口は同家最高位の「仁」に選ばれ、一口の磨上太刀は徳川将軍家を経、飾太刀の一口は中身を伴って五摂家の一条家に伝わり、また伊勢神宮に納まる作がある。無銘の短刀の一口を、説明書は「地刃ともに健全な国吉極めの稀な一品」[[c:5]]と称える。特別重要刀剣・重要刀剣の各位に二十一口を数えつつ、その殆どが私蔵と機関の所蔵にあって、在銘の延寿国吉が世に出ることは稀である。世に出れば、それは肥後一派の筆頭の手を、すなわち南へ伝えられ明るく結ばれた来風を、手に取る稀な機会となる。
國吉の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
山城伝 · 肥後
現在22点販売中
肥後国菊池郡隈府の地に興った延寿派は、京の来の作風を九州へ移した一門である。その祖を太郎国村とし、通説に大和千手院派の弘村の子で来国行の娘聟となり、その外孫として来の工房に学んだと伝える。延寿の名はその来の一字に通うとされ、一門の出自を山城の血脈に結ぶ。国村のまわりには国時・国泰・国資・国吉・国信・国友・国綱らの上手がほぼ時を同じくして輩出し、鎌倉時代末葉から南北朝期にかけて菊池郡の地に大いに繁栄した。延寿の工は南朝に忠なる菊池氏に属し、年紀ある作には正平・延元など南朝の年号を刻むものがあって、一門の活動とその歴史を地に結びつけている。 延寿の作は概ね来派に類似し、各工に際立った個性が少ないため、一門は個々の手よりも一団として読まれる。その共通の語法は地鉄に最もよく現れる。鍛えは小板目がよくつんで詰み、杢を交え刃寄りに流れて柾ごころを帯び、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入る。その上に立つのが一門第一の見どころたる白け映りで、明るく冴える来の地鉄とは異なる、冷たく霞んだ映りである。刃文は中直刃あるいは細直刃を本体とし、小互の目・小足を交え、しばしば二重刃を見せ、匂口は幾分沈みごころとなって穏やかに焼く。帽子は来が小丸に締めて返るのに対し、先の丸味がやや大きい大丸となって返り浅く、先に掃きかけるものが多い。これらの柾ごころ・白け映り・沈みごころの匂口・穏やかな刃中の働き・丸味の大きい大丸帽子が、来に似てやや異なる延寿の見どころであり、真の来から一門を分かつ要となる。本間は延寿を「来に似てやや異なる」[[c:2]]とし、その直刃の刃中の働きを来一派の直刃よりも淋しいと記す。その淋しく冷えた趣こそ一派の眼目である。 延寿の鑑定の勘所は、なべてこの来との別にある。輪反りや京風が一見来を想わせても、地の流れ・白け映り・沈む匂口より延寿と看取し、来に比して地刃やや弱しとされる。一門に個性が少ないがゆえに、主要工はその一様の中から程度の差によって絞られる。祖国村は細身で元先の幅差が顕著、反り高く小鋒に結ぶ独特の姿態をもって無銘の延寿を己に引き寄せる。国時は遺例が比較的多く作柄の平均点も高い代表工で、一門の抑えた直刃を誰よりも賑やかに働かせる。国泰は地刃の沸が一門の中で最も強くつき、佳作は明るく冴える。国資は刃中の働きが最も豊かで、寸延びの作に火焰風の帽子という一門に類のない働きを示す。国吉は地刃の冴えにおいて延寿の弱点を脱した垢抜けた手を遺し、国信は遺例こそ少ないが刃に沿う二重刃を殊に鮮明に見せる。これらの諸工はいずれも国の字を冠し、その「国」構の右半を耳形に切る銘振りを共有して他派にまぎれず、藤代に上々作以上の格を得る。伝来も地方工としては厚く、来歴の確かな作が黒田家・徳川家・伊達家・上杉家・細川家などの旧家を経、林原美術館・出光美術館・徳川美術館・佐野美術館をはじめとする機関に蔵される。在銘生ぶの太刀や身幅広い在銘の短刀は遺るものが少なく、多くは大磨上無銘の極めとして伝わるため、肥後の山城風を手に取りうる機会はおのずから限られている。 詳しく見る →
南北朝の戦乱は、山城の精緻を支えた公家社会を疲弊させた。来派最後の巨匠たちをもって古典の系譜は閉じ、長谷部と信国が新しい相州風を都に持ち込んでいる。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。