戦国の世、一派は第二の主家に仕えた。小田原の後北条氏である。その庇護のもと綱広系は打刀の時代の皆焼を鍛え続け、1590年の落城とともに新刀の時代へ散った。
Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 村正は戦国時代の伊勢国桑名の刀工。家康の祖父清康、父広忠、子の信康の死に村正の作が関わり、家康自身も村正の槍で負傷したことからいつしか村正は徳川家に祟るとされ、幕政期には銘が消され、あるいは広正、村忠、村宗に改竄されたという。 この脇差は、将軍家を憚り、村正の二字銘を消し「神龍」の金象嵌銘を施して家宝とした作であろう。現在では村正直門の正重の作と極められ、鑑定書が付されている。


Sengo (Ise) · 伊勢 · 1521-1528頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位23%
現在1点販売中
正重は伊勢国桑名に住し、説明書は正真とともに千子派の祖たる初代村正の門人とする。「正重は正真とともに初代村正の門人」[[c:1]]と記され、一門の通説は永正を初代として同名三代に及ぶとし、正重はこの枠の中で初代村正の門人と伝えられる。年紀ある作はなく、その位置は作風と銘振りから読まれ、説明書は永正・天文にあたる作を最も古いものとする。本作風は室町後期の平造短刀・小脇指で、身幅広く寸延び、少数の刀は鎬造で先反りが高い。藤代の極めで上々作にあり、磨上無銘の極めが多い鎌倉の大家と異なり、指定作はことごとく生ぶの有銘である。
その作風は、千子の手をより肌立たせ、より強く沸づかせたものである。鍛えは板目に柾・流れ肌を交えて肌立ち、説明書は一口また一口と、総体に地鉄の肌立つものが村正よりも多く、また「村正に比して地刃の沸づきが強く」[[c:2]]と繰り返す。刃文は小のたれを基調に互の目・大互の目・箱がかった刃・矢筈風の刃を交え、表裏の刃が揃いごころとなり、足・葉が入り、沸厚くつき、砂流しさかんにかかる。小のたれを基調とする大互の目は本工に顕著で、彼の華やかな乱れの骨格をなす。帽子は乱れ込んで小丸、しばしば掃きかけて片面に尖る。師と本工を分かつのは一つの技ではなく、これら見どころの度合である。
地鉄こそ一派の見どころである。流れ肌・杢を交えた肌立つ板目に地沸厚くつき、地景が入り、二様の千子の手のうちより働く側に見える。説明書は本工の地鉄をより肌立つものとして一貫し、「村正に比して地刃の沸づきが強く」[[c:2]]と記す。刃文は浅いのたれを基調とする乱れ刃で、よく冴え、匂深く沸よくつき、金筋がかかり、砂流しが頻りにかかって、ときに刃縁に沸くずれる。帽子は最も変化に富み、焼極めて深く一枚風に乱れ込み、先くびれて丸状に返り、棟へ長く焼き下げる。彫物は時に見え、ある脇指は表に草の倶利迦羅、裏に梵字と護摩箸・蓮台を彫る。
説明書は一作風を二つの態に読む。第一は整然たる本手で、平造短刀・小脇指の小のたれと互の目を典型的作風とし、ある短刀は荒びや沸くずれを見せず小沸出来の穏やかな作柄に仕上がり、「師の村正に相通ずる作域」[[c:3]]をあらわすと評される。第二は判者が明らかに賞する放胆の作域で、矢筈風や角ばる刃が乱れに加わり、沸が強くついて崩れ、砂流しが頻りにかかり、飛焼・棟焼が高まって皆焼風に至り、帽子は焼深く突き上げる。ある脇指を説明書は「野趣に富んだ」ものと記し、また「放胆で覇気に充ちており」[[c:4]]と評す。本作風を存分に発揮した短刀は「同工の本領を存分に示した」[[c:5]]とされる。銘は太鏨の二字銘、ときに正重作の三字銘で、棟寄りに切られ、ある短刀は「金正重」と銘を読む。
村正との分かれが一派の鑑定の骨格であり、説明書はこれを正確に名指す。茎は村正同様の特色あるたなご腹で、姿のみでは両者近く、初期の有銘刀はその「同名中、時代が最も古く」[[c:6]]、一見村正の傑作と見えるものと記される。両者を分かつのは茎棟である。村正の茎棟が角であるのに対し、正重はいかにも丸く肉がつき、判者はこれを第一の見どころとして、指定作に繰り返し「村正の茎棟が角であるのに対して、いかにも丸く肉のつくのが見どころ」[[c:7]]と記す。あわせて地鉄はより肌立ち、沸は師よりも強い。正真とともに同じ作風に立ち、両者は初代村正の著名な門人と並び称され、その中で丸い棟・肌立つ鍛え・強い沸が本工のものである。
正重は著名な工のうちでは比較的入手しやすく、その記録は理由に正直である。十二口が重要刀剣にあり、いずれも有銘・生ぶで、特別重要刀剣・重要文化財・国宝に至るものはなく、刀剣等の評価も中位にある。指定作に大名伝来の記録はなく、ゆえに名物の来歴ではなく一派の評価が作に保たれている。所在は日本各地の個人とアメリカの一例に散り、作はいずれも室町後期の平造寸延びの千子短刀・小脇指である。十二口のうち所在の判明する取引可能な重要刀剣は二口で、有銘・生ぶの千子正重は真摯な蒐集家の手の届かぬものではなく、折にふれて市に現れ、丸い棟と肌立つ沸づいた地鉄をもって、師と弟子を分かちつつ村正の一門を今に伝えている。
正重の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
相州伝 · 伊勢
現在5点販売中
村正派は伊勢国桑名を本拠とし、室町時代後期から戦国の世にかけて栄えた一門である。現存する上限の年紀は文亀元年(一五〇一)で、「勢州桑名住右衛門尉藤原村正作」[[c:1]]と居住地・俗名・刀工銘を完備した長銘がこれを伝え、この定点から通説は文亀を初代、天文を二代、天正を三代とする。一門の祖たる初代村正がその名を負う作風を定め、技量最も優れ作刀も多く現存する天文頃の二代がこれを大成し、門には正重・正眞を出した。世に正宗の弟子と伝える俗説は早くより行われたが、年紀の記録を前に当を得ぬものとして退けられ、本派はあくまで室町末期近くにはじまる刀工と位置づけられる。その作風は美濃・島田・末相州と共通するところを持ち、なかでも京の平安城長吉と特に近く、長吉とは何らかの関係があったとも、師弟関係にあったとも説かれる。日蓮宗への帰依は鉄の上に直に読め、刃に妙法蓮華経の題目を切り、梵字・蓮台・八幡大菩薩を彫る作があることから、当時伊勢地方に同宗の信仰の少なくなかったことがうかがわれる。 本派を貫く第一の特色は、刃文の表裏が目立って揃うことである。互の目・のたれを基調に箱がかった刃を交え、乱れの谷が刃先にせまり、その乱れが表裏で鏡のように対応する。匂口は締りごころに小沸が叢につき、時に沈みごころとなって砂流しがしきりにかかる。帽子は直ぐに小丸、または乱れ込んで掃きかけ、覇気ある作では返りを深く棟焼に続ける。これを載せる姿は、平造・三ツ棟で身幅広く寸延びた短刀・小脇指、および寸の詰った先反りの強い打刀で、フクラの枯れる室町後期の典型を示す。鍛えは板目に流れ肌・柾ごころを交えてやや肌立ち、地沸つき、鉄色心持ち黒みがかって白けごころを帯びるものが多い。茎は生ぶで下半が著しく細るたなご腹となり、太鏨大振りの二字銘を切るのを常とする。一門のうちにも度合の差があり、初代村正の手が二様の銘と信仰の作に分かれるのに対し、二代はたなご腹と流暢な銘字が殊に著しい。正重は同じ千子の手をより肌立たせ、より強く沸づかせて放胆に開き、正眞はこれを引き締めて地肌が少しつむ傾向にあり、上半を穏やかな直刃に納める。皆焼はいずれの工にあっても時折の作域に止まり、本領はあくまで表裏の揃う乱れ刃にある。 鑑定の勘所は、まずこの表裏の揃いと、刃先にせまる乱れの谷、締りごころの匂口と叢沸、そしてたなご腹の茎と太鏨の銘字にある。一見すると末関の兼定・兼芝に紛れ、島田物に似、平安城長吉とは酷似するため、これらと分けるにはこの見どころに立ち返らねばならない。一門内では茎が決め手となり、村正の茎棟が角に切られるのに対し、正重はいかにも丸く肉がつくとされる。切れ味の評は古来高く、後の世にその作が忌まれた一因ともなった。すなわち徳川家に祟る、持主に祟るとの妖刀伝説が行われ、その忌避にふれて銘を消されたものが多く、現存有銘の刀は比較的に稀である。名跡の行方についても、忌避にふれて絶えたとする説と、同銘相継いで新刀に及んだとする説が併存する。伝来には大名家のものが残り、妙法蓮華経の刀は茎棟に銀象嵌「鍋信」とあって鍋島信濃守勝茂の所持と伝え、初代の脇指の一口は織田信長の指料と伝えて織田木瓜紋の合口を附し、正眞の一刀は将軍より拝領して水野家に下る。この水野家の刀は伊勢を憚って「山城国正真」と国名を改めて切られ、その隠された出自そのものが妖刀の評の重さを物語る。後の世がその名を消そうとした工の作であればこそ、年紀確かで表裏の揃う村正一門の作が世に現れることは、一箇の画期として今に求められている。 詳しく見る →
戦国の世、一派は第二の主家に仕えた。小田原の後北条氏である。その庇護のもと綱広系は打刀の時代の皆焼を鍛え続け、1590年の落城とともに新刀の時代へ散った。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。
Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 村正は戦国時代の伊勢国桑名の刀工。家康の祖父清康、父広忠、子の信康の死に村正の作が関わり、家康自身も村正の槍で負傷したことからいつしか村正は徳川家に祟るとされ、幕政期には銘が消され、あるいは広正、村忠、村宗に改竄されたという。 この脇差は、将軍家を憚り、村正の二字銘を消し「神龍」の金象嵌銘を施して家宝とした作であろう。現在では村正直門の正重の作と極められ、鑑定書が付されている。


Sengo (Ise) · 伊勢 · 1521-1528頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位23%
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正重は伊勢国桑名に住し、説明書は正真とともに千子派の祖たる初代村正の門人とする。「正重は正真とともに初代村正の門人」[[c:1]]と記され、一門の通説は永正を初代として同名三代に及ぶとし、正重はこの枠の中で初代村正の門人と伝えられる。年紀ある作はなく、その位置は作風と銘振りから読まれ、説明書は永正・天文にあたる作を最も古いものとする。本作風は室町後期の平造短刀・小脇指で、身幅広く寸延び、少数の刀は鎬造で先反りが高い。藤代の極めで上々作にあり、磨上無銘の極めが多い鎌倉の大家と異なり、指定作はことごとく生ぶの有銘である。
その作風は、千子の手をより肌立たせ、より強く沸づかせたものである。鍛えは板目に柾・流れ肌を交えて肌立ち、説明書は一口また一口と、総体に地鉄の肌立つものが村正よりも多く、また「村正に比して地刃の沸づきが強く」[[c:2]]と繰り返す。刃文は小のたれを基調に互の目・大互の目・箱がかった刃・矢筈風の刃を交え、表裏の刃が揃いごころとなり、足・葉が入り、沸厚くつき、砂流しさかんにかかる。小のたれを基調とする大互の目は本工に顕著で、彼の華やかな乱れの骨格をなす。帽子は乱れ込んで小丸、しばしば掃きかけて片面に尖る。師と本工を分かつのは一つの技ではなく、これら見どころの度合である。
地鉄こそ一派の見どころである。流れ肌・杢を交えた肌立つ板目に地沸厚くつき、地景が入り、二様の千子の手のうちより働く側に見える。説明書は本工の地鉄をより肌立つものとして一貫し、「村正に比して地刃の沸づきが強く」[[c:2]]と記す。刃文は浅いのたれを基調とする乱れ刃で、よく冴え、匂深く沸よくつき、金筋がかかり、砂流しが頻りにかかって、ときに刃縁に沸くずれる。帽子は最も変化に富み、焼極めて深く一枚風に乱れ込み、先くびれて丸状に返り、棟へ長く焼き下げる。彫物は時に見え、ある脇指は表に草の倶利迦羅、裏に梵字と護摩箸・蓮台を彫る。
説明書は一作風を二つの態に読む。第一は整然たる本手で、平造短刀・小脇指の小のたれと互の目を典型的作風とし、ある短刀は荒びや沸くずれを見せず小沸出来の穏やかな作柄に仕上がり、「師の村正に相通ずる作域」[[c:3]]をあらわすと評される。第二は判者が明らかに賞する放胆の作域で、矢筈風や角ばる刃が乱れに加わり、沸が強くついて崩れ、砂流しが頻りにかかり、飛焼・棟焼が高まって皆焼風に至り、帽子は焼深く突き上げる。ある脇指を説明書は「野趣に富んだ」ものと記し、また「放胆で覇気に充ちており」[[c:4]]と評す。本作風を存分に発揮した短刀は「同工の本領を存分に示した」[[c:5]]とされる。銘は太鏨の二字銘、ときに正重作の三字銘で、棟寄りに切られ、ある短刀は「金正重」と銘を読む。
村正との分かれが一派の鑑定の骨格であり、説明書はこれを正確に名指す。茎は村正同様の特色あるたなご腹で、姿のみでは両者近く、初期の有銘刀はその「同名中、時代が最も古く」[[c:6]]、一見村正の傑作と見えるものと記される。両者を分かつのは茎棟である。村正の茎棟が角であるのに対し、正重はいかにも丸く肉がつき、判者はこれを第一の見どころとして、指定作に繰り返し「村正の茎棟が角であるのに対して、いかにも丸く肉のつくのが見どころ」[[c:7]]と記す。あわせて地鉄はより肌立ち、沸は師よりも強い。正真とともに同じ作風に立ち、両者は初代村正の著名な門人と並び称され、その中で丸い棟・肌立つ鍛え・強い沸が本工のものである。
正重は著名な工のうちでは比較的入手しやすく、その記録は理由に正直である。十二口が重要刀剣にあり、いずれも有銘・生ぶで、特別重要刀剣・重要文化財・国宝に至るものはなく、刀剣等の評価も中位にある。指定作に大名伝来の記録はなく、ゆえに名物の来歴ではなく一派の評価が作に保たれている。所在は日本各地の個人とアメリカの一例に散り、作はいずれも室町後期の平造寸延びの千子短刀・小脇指である。十二口のうち所在の判明する取引可能な重要刀剣は二口で、有銘・生ぶの千子正重は真摯な蒐集家の手の届かぬものではなく、折にふれて市に現れ、丸い棟と肌立つ沸づいた地鉄をもって、師と弟子を分かちつつ村正の一門を今に伝えている。
正重の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
相州伝 · 伊勢
現在5点販売中
村正派は伊勢国桑名を本拠とし、室町時代後期から戦国の世にかけて栄えた一門である。現存する上限の年紀は文亀元年(一五〇一)で、「勢州桑名住右衛門尉藤原村正作」[[c:1]]と居住地・俗名・刀工銘を完備した長銘がこれを伝え、この定点から通説は文亀を初代、天文を二代、天正を三代とする。一門の祖たる初代村正がその名を負う作風を定め、技量最も優れ作刀も多く現存する天文頃の二代がこれを大成し、門には正重・正眞を出した。世に正宗の弟子と伝える俗説は早くより行われたが、年紀の記録を前に当を得ぬものとして退けられ、本派はあくまで室町末期近くにはじまる刀工と位置づけられる。その作風は美濃・島田・末相州と共通するところを持ち、なかでも京の平安城長吉と特に近く、長吉とは何らかの関係があったとも、師弟関係にあったとも説かれる。日蓮宗への帰依は鉄の上に直に読め、刃に妙法蓮華経の題目を切り、梵字・蓮台・八幡大菩薩を彫る作があることから、当時伊勢地方に同宗の信仰の少なくなかったことがうかがわれる。 本派を貫く第一の特色は、刃文の表裏が目立って揃うことである。互の目・のたれを基調に箱がかった刃を交え、乱れの谷が刃先にせまり、その乱れが表裏で鏡のように対応する。匂口は締りごころに小沸が叢につき、時に沈みごころとなって砂流しがしきりにかかる。帽子は直ぐに小丸、または乱れ込んで掃きかけ、覇気ある作では返りを深く棟焼に続ける。これを載せる姿は、平造・三ツ棟で身幅広く寸延びた短刀・小脇指、および寸の詰った先反りの強い打刀で、フクラの枯れる室町後期の典型を示す。鍛えは板目に流れ肌・柾ごころを交えてやや肌立ち、地沸つき、鉄色心持ち黒みがかって白けごころを帯びるものが多い。茎は生ぶで下半が著しく細るたなご腹となり、太鏨大振りの二字銘を切るのを常とする。一門のうちにも度合の差があり、初代村正の手が二様の銘と信仰の作に分かれるのに対し、二代はたなご腹と流暢な銘字が殊に著しい。正重は同じ千子の手をより肌立たせ、より強く沸づかせて放胆に開き、正眞はこれを引き締めて地肌が少しつむ傾向にあり、上半を穏やかな直刃に納める。皆焼はいずれの工にあっても時折の作域に止まり、本領はあくまで表裏の揃う乱れ刃にある。 鑑定の勘所は、まずこの表裏の揃いと、刃先にせまる乱れの谷、締りごころの匂口と叢沸、そしてたなご腹の茎と太鏨の銘字にある。一見すると末関の兼定・兼芝に紛れ、島田物に似、平安城長吉とは酷似するため、これらと分けるにはこの見どころに立ち返らねばならない。一門内では茎が決め手となり、村正の茎棟が角に切られるのに対し、正重はいかにも丸く肉がつくとされる。切れ味の評は古来高く、後の世にその作が忌まれた一因ともなった。すなわち徳川家に祟る、持主に祟るとの妖刀伝説が行われ、その忌避にふれて銘を消されたものが多く、現存有銘の刀は比較的に稀である。名跡の行方についても、忌避にふれて絶えたとする説と、同銘相継いで新刀に及んだとする説が併存する。伝来には大名家のものが残り、妙法蓮華経の刀は茎棟に銀象嵌「鍋信」とあって鍋島信濃守勝茂の所持と伝え、初代の脇指の一口は織田信長の指料と伝えて織田木瓜紋の合口を附し、正眞の一刀は将軍より拝領して水野家に下る。この水野家の刀は伊勢を憚って「山城国正真」と国名を改めて切られ、その隠された出自そのものが妖刀の評の重さを物語る。後の世がその名を消そうとした工の作であればこそ、年紀確かで表裏の揃う村正一門の作が世に現れることは、一箇の画期として今に求められている。 詳しく見る →
戦国の世、一派は第二の主家に仕えた。小田原の後北条氏である。その庇護のもと綱広系は打刀の時代の皆焼を鍛え続け、1590年の落城とともに新刀の時代へ散った。
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弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。