天下統一は大量の市場を閉じ、関の鍛冶は新しい富の在り処へ移った。三品の一門は受領名を得て京に、大道系は諸国の城下町に。美濃は新刀時代の最大の祖先となった。
Stock number:WA-100525Paper(Certificate): [N.B.T.H.K] Tokubetsu Hozon TokenCountry(Kuni)・Era(Jidai): Aki(Hiroshima)・Early Edo period about 1624~Blade length(Cutting edge): 46.0cmCurve(SORI): 1.5cmWidth at the hamachi(Moto-Haba): 3.22cmThickness at the Moto-Kasane: 0.74cmWide at the Kissaki(Saki-Haba): 3.00cmThickness at the Saki-Kasane: 0.70cmHabaki: Two parts, Gold foil HabakiSword tang(Nakago): Kesyo-Sujikai file patternRivet Holes(Mekugiana):1Shape(Taihai): Shinogizukuri, Iorimune, Dai-kissakiEngraving: Front: Koshi-hi and Soe-hi,Back:BohiJigane(Hada): Itame with MokumeTemper patterns(Hamon):Temper patterns in the point(Bohshi):Registration Card: Kumamoto 1939【Additional Information】播磨守輝廣は、尾張国の武士 蟹江刑部の子と伝え、名を甚八、初銘を兼久とします。初代肥後守輝廣に師事し、後に婿養子となって、二代目輝廣を継ぎます。慶長六年(1601)、尾張国清洲城主 福島正則が、芸州広島五十万石の城主として転封した際には、抱工であった初代輝廣と共に安芸国へ移住します。慶長十四年(1609)に福島正則のもと「播磨守」を受領。元和五年(1619)に城主改易後、輝廣家は入封した浅野家に仕えて、江戸後期まで代を繋いで繁栄をみます。本刀体配は、刃長が一尺五寸二分、身幅元先で広く、重ね尋常、反り適度で、切っ先が鋭く延びます。表に腰樋と添樋、裏に棒樋を掻き流して、ゴリっとした力強い刀姿が彫刻によって上品に締まります。地鉄は板目肌に杢目交じって、総体良く詰み、一部流れごころ、地沸付き、地景が入ります。焼刃は、浅い湾れ刃、刃中には互の目足、一部砂流しなどを交え、刃縁に小沸付いて、匂口明るく冴えます。帽子はそのまま湾れて先尖りごころに返ります。茎は生ぶ、筋違鑢目で刀工銘を切ります。よく練られた美麗な肌と湾れ刃文が綺麗に調和した輝廣の優刀です。白鞘、金着二重はばき、特別保存刀剣鑑定書。






Aki Teruhiro (Geishū Hiroshima), of Mino origin; the second generation, Harima no Kami Teruhiro · 安芸 · 1624-1644頃
藤代 上々作 · 刀剣大鑑 上位17%
現在1点販売中
二代播磨守輝広は広島に続く安芸輝広一系の二代で、説明書は一つの資料によって年代を定める。「経眼した最も古い年紀は慶長十五年である」[[c:1]]。本国尾張、姓は蟹江氏、通称甚八、初銘を兼久と称し、初代肥後守輝広の門に学んで「師に見込まれて娘婿となり」[[c:2]]、はじめ福島家に仕え、同家改易後は浅野家に仕えたという。慶長十五年紀の作が遺存することから、説明書は「初代輝広と作刀年代にあまり差がなく」[[c:3]]、作風も類似することから初代同様に埋忠明寿との関係が窺えるとする。寛永五年・九年の年紀もある。
その主調は匂の深い小のたれに互の目・角ばる互の目・尖りごころの刃を交え、足入り、沸厚くつき、金筋・砂流しかかり、処々に湯走り・玉状の飛焼を交え、匂口明るく冴える刃である。説明書は初代と比べて互の目の強さを見、ある刀を「初代に比して互の目が目立っている」[[c:4]]とし、ある脇指を「常よりも湾の間に互の目が目立ち匂深く小沸のよくついた出来である」[[c:5]]とする。最も優れた薙刀については「正に同工の真骨頂である」[[c:6]]とし、「二代輝広の本領が遺憾無く発揮された同作中の優品である」[[c:7]]と記す。
地鉄は初代と最もよく分かれるところである。板目に杢・流れ肌を交え肌立ちごころとなり、地沸が微塵に厚くつき、地景が頻りに入り、かね冴える。説明書は鍛えを繰り返し称え、ある刀では「殊に鍛えが優れている」[[c:8]]とする。帽子は多く小丸に返る。
指定作の多くは一つの形をとる。身幅広く大きく寸延び重ねの厚い慶長新刀姿の平造で、「彼の作に多くある寸延び平造の小脇指」[[c:9]]である。説明書はこれを志津をねらったものとし「志津の風をねらって成功している」[[c:10]]、「勿論彼の典型作でもある」[[c:11]]とする。明寿にも見る片切刃造のものもあるが、「師明寿の切刃と違って切刃が茎先まで通っている」[[c:12]]。刀は少なく、「二代輝広には刀は稀であり」[[c:13]]、中直刃を焼いた一口は「この刀は直刃を焼いて出来が傑出している」[[c:14]]とされる。
また意図して古作に範をとった。重ね厚く豪壮な脇指は小のたれに角ばる互の目・尖りごころの刃を交えて大きく乱れ、「彼が最も私淑した相州貞宗に範をとったものであろうか」[[c:15]]とされる。薙刀樋を刻した冠落造の脇指は中直刃にほつれ・喰違刃を交え、「古作の大和物、就中、当麻にその作意があったと想われる」[[c:16]]とされ、「この種の作柄は、同作中、本作一振のみの経眼である」[[c:17]]と付記される。重ねの厚い短刀は「相州伝上工に範をとったと考えられ」[[c:18]]、焼幅の広い大どかなのたれに腰刃を焼いた刀は「村正あたりを想わせる作域をあらわしている」[[c:19]]。これらを通じて、流れ肌・尖りごころの刃・三品風の帽子は「彼が美濃系出身の刀工であることを察知させる」[[c:20]]。
藤代は上々作とし、指定を受けた作は二十七口で、うち二十六口が重要刀剣、一口が本間による御物台帳に所載の「播磨守藤原輝広作」[[c:23]]銘の短刀である。説明書は「播磨守輝広銘の短刀は、決してその数に乏しくないが、年紀のあるものは極めて少く」[[c:21]]として年紀作を資料として重んじ、また「播磨守輝広の作品には彫物が少ないと言われ」[[c:22]]るが、時折上手なものがあるとする。収集の上では寸延びの小脇指が時折世に現れる現実的な出会いであり、刀や年紀作に出会うことは稀である。
輝廣の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
美濃伝 · 安芸
現在6点販売中
輝広は本国を美濃とし、関の兼常の末葉に連なって初銘を兼友または兼伴と称したと説示は伝える。後に埋忠明寿に学び、福島正則に仕えて輝広と改め、肥後守を受領し、正則に従って尾州清洲へ移り、慶長五年に芸州広島へ移住したという。長く語られてきたこの経歴に対し、天正十七年紀で濃州関住輝広造と銘した刀の出現は[[c:1]]、美濃在国の時代からすでに輝広を名乗り、明寿入門以前に刀工として大成していた事実を明らかにした。説示はこの刀の覇気あるのたれの出来をもって、入門以前にすでに優れた技倆を備えていた証とみなしており、これにより明寿と輝広の師弟関係には再検討の余地が生じ、今後の研究に俟つところとされている。二代は本国尾張、姓は蟹江氏、通称を甚八、初銘を兼久と称し、初代肥後守輝広の門に学んで師に見込まれて娘婿となり、福島家に仕え、同家改易の後は浅野家に仕えたと記される。二代には慶長十五年紀の脇指が遺存して初代と作刀年代に大きな差がなく、初代同様に明寿との関わりが窺われると説かれる。福島・浅野両家の庇護のもと、子孫は長く広島の地に栄えた。 地鉄は板目に杢・流れ肌を交えて総じて肌立ちごころとなり、地沸が微塵に厚くつき、地景が頻りに入ってかねが冴える点が、両代を通じて繰り返し記される。刃文はのたれを主調に互の目・尖りごころの刃を交え、足・葉が入り、匂深く沸が厚くつき、金筋・砂流しがかかり、処々に飛焼や玉状の湯走りを交える。帽子は三品風を呈する作が多く、刃寄りの流れ肌や尖りごころの刃と併せ、美濃系出身を窺わせる徴とされる。初代は天正・慶長初頭ののたれ基調に放胆な大模様を示し、二代は師風をよく継承しながら互の目がいま一段目立つと説かれ、代の判別は互の目の現れ方と作柄の大小に拠るところが大きい。一方で説示は、相州貞宗に範をとった大乱れの作、大和当麻を狙った中直刃に喰違刃を交える作など、常の作域を離れた写し物の存在も挙げ、作域の広さを示している。 鑑定にあっては、流れ肌を交えた肌立ちごころの鍛え、のたれに互の目・尖りごころを交えた刃取り、三品風の帽子、そして処々の飛焼が同工の手癖として要を成す。代表する遺品には濃州関住輝広造の刀、播磨守輝広の脇指・短刀のほか、薙刀や平三角造の槍が含まれ、初代・二代ともに現存は少なく、刀・短刀・槍・薙刀を合わせても二十口に満たないと記される。中でも薙刀や平三角造の大身槍はまま伝わり、柾ごころに流れた鍛えに直刃調浅くのたれた刃を焼き、地刃の冴えた優れた出来を示すものが知られる。彫物は二代に少ないとされながらも、刀樋や護摩箸、薙刀樋に添樋を掻き流す作があり、稀に古作に範をとった濃密な彫が施されて躍動感を見せる例も経眼される。美濃の出自を地鉄と帽子に留めつつ、相州貞宗や大和当麻の古作に学んで作域を広げた芸州広島の一系として、輝広父子の作は位置づけられる。 詳しく見る →
桃山時代の美濃
天下統一は大量の市場を閉じ、関の鍛冶は新しい富の在り処へ移った。三品の一門は受領名を得て京に、大道系は諸国の城下町に。美濃は新刀時代の最大の祖先となった。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトNo cooling-off period or returns; refund only if the purchased sword is proven fake, capped at purchase price (excludes commission sales, accessories, auction items).