彼の本領が示された一口として、第四十回重要刀剣に指定された薙刀がある。説明書はこれを、二代輝広の本領が遺憾無く発揮された同作中の優品とする。これを作った播磨守輝広は、慶長新刀期に福島家、のち浅野家の庇護のもと広島で鍛えた美濃出身の一系、安芸輝広の二代である。本国尾張、姓は蟹江氏で、通称を甚八といい、初めは兼久と銘したが、のち初代肥後守輝広の門に学んで師に見込まれ、その娘婿となった。福島家に仕えて芸州広島に移り、同家改易後は浅野家に仕えた。最古の年紀は慶長十五年で、作刀年代は初代に近く、上々作に位置づけられる早期広島一門の工である。
その特色は、匂の深い匂口に焼いた小のたれに、互の目と尖りごころの刃を交えた刃である。説明書はこれを同工の得意とするところとし、最も優れた薙刀において、深い匂、むらなく厚くつく小沸、地刃ともに明るく冴える様を評して、「正に同工の真骨頂である」とする。刃中には足・葉が入り、下半に金筋がかかり、砂流しが流れ、僅かに小さな飛焼を交え、上手の作では匂口が明るく冴え、穏やかな作ではやや沈みごころとなる。華やかな備前丁子の対極にある、活動を見せるより読ませる落ち着いたのたれ調である。
その下の地鉄は、柾ごころの流れ肌を交えて肌立ちごころとなる板目で、締った肌というよりは開いた肌である。優れた薙刀では地沸が最も細かには地沸微塵に厚くつき、地景細かによく入り、かね冴え、脇指では同じ流れる地が地沸・地景を伴ってより端的に肌立つ。帽子は多く小丸に返り、最大の薙刀では表は浅くのたれて先やや大丸風となり、裏はのたれ込んで突き上げ先尖りごころとなり、脇指では一方の面は直ぐに小丸、他方は乱れ込みとなる。
少ない伝存作の中に二様が繰り返し現れる。一つは右の匂の深い薙刀で、本領が最も顕れる作域である。いま一つは、身幅やや広く重ね厚い、慶長新刀の姿を呈して志津の風をねらった寸延び平造の小脇指で、説明書はこれを「志津の風をねらって成功している」とし、まさに「勿論彼の典型作でもある」とする。これらでは刃文が浅くのたれて小互の目を交え、匂口締って、ほつれかかり、僅かに砂流しがかかり、薙刀よりも彫物を伴うことが多く、棒樋・刀樋、梵字に蓮台、護摩箸あるいは素剣を彫る。説明書は両様を師風のよき継承と読み、初代同様に、二工が共有する匂の深いのたれと作刀年代の差の小ささから、京の名工埋忠明寿との関係を窺うとする。
一門の中では、受領名と、地鉄に透けて見える出自によって師と区別される。初代が肥後守と銘するのに対し二代は播磨守と銘し、説明書は、刃文が志津をねらってもなお、その美濃系出身を窺わせる三つの状を読む――鍛えの流れ肌、刃中の尖りごころの刃、就中三品風を呈する帽子である。最も優れた薙刀でこれらを明言して、「彼が美濃系出身の刀工であることを察知させる」と結ぶ。その作は、純然たる相州ではなく、美濃を根とする広島新刀として読み取れ、匂の深いのたれと流れて肌立つ地は、彼を私淑した古作の工からではなく父の傍らに置く。
伝存は六口、いずれも重要刀剣に指定され、短刀・脇指・薙刀にわたり、すべて在銘である。国宝も重要文化財もなく、その一系は数多くというよりは僅かに遺る家である。説明書は、播磨守輝広銘の短刀は決してその数に乏しくないが、年紀のあるものは極めて少く、年紀のある短刀は資料的価値が高いとし、寛永五年紀・寛永九年紀の作はまさにその点で重んじられる。所載の所有は公的機関ではなく私蔵で、所載作に著名な伝来は伴わない。在銘の二代輝広は到底得難い名というわけではないが、収集家のもとへは折にふれ、根気をもって渡る一口であり、就中匂の深い薙刀は、説明書のいうとおり、二代輝広の本領が遺憾無く発揮された同作中の優品である。