江戸は刀の目利きの時代である。本阿弥の鑑定、1719年の享保名物帳、盛んな刀剣書が、戦で抜かれることのなくなった刀を学問の対象へと変えていった。
本造り庵棟 うぶ茎 板目肌、杢交じりやや肌立ちよく詰む。地沸微塵につき、細かな地景顕われ、淡く沸映り立つ。刃紋は湾れに互の目、尖り心の刃交じる。匂い口フックラと小沸よくつく。湯走り、二重刃かかり、葉よく働く。金筋、砂流しかかり、匂い口明るく冴える。本名は甚八。尾張国蟹江刑部の子。肥後守輝広門人。初銘を兼久と切る。(特別保存刀剣)













Aki Teruhiro (Geishū Hiroshima), of Mino origin; the second generation, Harima no Kami Teruhiro · 安芸 · 1624-1644頃
藤代 上々作 · 刀剣大鑑 上位17%
現在1点販売中
二代播磨守輝広は広島に続く安芸輝広一系の二代で、説明書は一つの資料によって年代を定める。「経眼した最も古い年紀は慶長十五年である」[[c:1]]。本国尾張、姓は蟹江氏、通称甚八、初銘を兼久と称し、初代肥後守輝広の門に学んで「師に見込まれて娘婿となり」[[c:2]]、はじめ福島家に仕え、同家改易後は浅野家に仕えたという。慶長十五年紀の作が遺存することから、説明書は「初代輝広と作刀年代にあまり差がなく」[[c:3]]、作風も類似することから初代同様に埋忠明寿との関係が窺えるとする。寛永五年・九年の年紀もある。
その主調は匂の深い小のたれに互の目・角ばる互の目・尖りごころの刃を交え、足入り、沸厚くつき、金筋・砂流しかかり、処々に湯走り・玉状の飛焼を交え、匂口明るく冴える刃である。説明書は初代と比べて互の目の強さを見、ある刀を「初代に比して互の目が目立っている」[[c:4]]とし、ある脇指を「常よりも湾の間に互の目が目立ち匂深く小沸のよくついた出来である」[[c:5]]とする。最も優れた薙刀については「正に同工の真骨頂である」[[c:6]]とし、「二代輝広の本領が遺憾無く発揮された同作中の優品である」[[c:7]]と記す。
地鉄は初代と最もよく分かれるところである。板目に杢・流れ肌を交え肌立ちごころとなり、地沸が微塵に厚くつき、地景が頻りに入り、かね冴える。説明書は鍛えを繰り返し称え、ある刀では「殊に鍛えが優れている」[[c:8]]とする。帽子は多く小丸に返る。
指定作の多くは一つの形をとる。身幅広く大きく寸延び重ねの厚い慶長新刀姿の平造で、「彼の作に多くある寸延び平造の小脇指」[[c:9]]である。説明書はこれを志津をねらったものとし「志津の風をねらって成功している」[[c:10]]、「勿論彼の典型作でもある」[[c:11]]とする。明寿にも見る片切刃造のものもあるが、「師明寿の切刃と違って切刃が茎先まで通っている」[[c:12]]。刀は少なく、「二代輝広には刀は稀であり」[[c:13]]、中直刃を焼いた一口は「この刀は直刃を焼いて出来が傑出している」[[c:14]]とされる。
また意図して古作に範をとった。重ね厚く豪壮な脇指は小のたれに角ばる互の目・尖りごころの刃を交えて大きく乱れ、「彼が最も私淑した相州貞宗に範をとったものであろうか」[[c:15]]とされる。薙刀樋を刻した冠落造の脇指は中直刃にほつれ・喰違刃を交え、「古作の大和物、就中、当麻にその作意があったと想われる」[[c:16]]とされ、「この種の作柄は、同作中、本作一振のみの経眼である」[[c:17]]と付記される。重ねの厚い短刀は「相州伝上工に範をとったと考えられ」[[c:18]]、焼幅の広い大どかなのたれに腰刃を焼いた刀は「村正あたりを想わせる作域をあらわしている」[[c:19]]。これらを通じて、流れ肌・尖りごころの刃・三品風の帽子は「彼が美濃系出身の刀工であることを察知させる」[[c:20]]。
藤代は上々作とし、指定を受けた作は二十七口で、うち二十六口が重要刀剣、一口が本間による御物台帳に所載の「播磨守藤原輝広作」[[c:23]]銘の短刀である。説明書は「播磨守輝広銘の短刀は、決してその数に乏しくないが、年紀のあるものは極めて少く」[[c:21]]として年紀作を資料として重んじ、また「播磨守輝広の作品には彫物が少ないと言われ」[[c:22]]るが、時折上手なものがあるとする。収集の上では寸延びの小脇指が時折世に現れる現実的な出会いであり、刀や年紀作に出会うことは稀である。
輝廣の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
美濃伝 · 安芸
現在6点販売中
輝広は本国を美濃とし、関の兼常の末葉に連なって初銘を兼友または兼伴と称したと説示は伝える。後に埋忠明寿に学び、福島正則に仕えて輝広と改め、肥後守を受領し、正則に従って尾州清洲へ移り、慶長五年に芸州広島へ移住したという。長く語られてきたこの経歴に対し、天正十七年紀で濃州関住輝広造と銘した刀の出現は[[c:1]]、美濃在国の時代からすでに輝広を名乗り、明寿入門以前に刀工として大成していた事実を明らかにした。説示はこの刀の覇気あるのたれの出来をもって、入門以前にすでに優れた技倆を備えていた証とみなしており、これにより明寿と輝広の師弟関係には再検討の余地が生じ、今後の研究に俟つところとされている。二代は本国尾張、姓は蟹江氏、通称を甚八、初銘を兼久と称し、初代肥後守輝広の門に学んで師に見込まれて娘婿となり、福島家に仕え、同家改易の後は浅野家に仕えたと記される。二代には慶長十五年紀の脇指が遺存して初代と作刀年代に大きな差がなく、初代同様に明寿との関わりが窺われると説かれる。福島・浅野両家の庇護のもと、子孫は長く広島の地に栄えた。 地鉄は板目に杢・流れ肌を交えて総じて肌立ちごころとなり、地沸が微塵に厚くつき、地景が頻りに入ってかねが冴える点が、両代を通じて繰り返し記される。刃文はのたれを主調に互の目・尖りごころの刃を交え、足・葉が入り、匂深く沸が厚くつき、金筋・砂流しがかかり、処々に飛焼や玉状の湯走りを交える。帽子は三品風を呈する作が多く、刃寄りの流れ肌や尖りごころの刃と併せ、美濃系出身を窺わせる徴とされる。初代は天正・慶長初頭ののたれ基調に放胆な大模様を示し、二代は師風をよく継承しながら互の目がいま一段目立つと説かれ、代の判別は互の目の現れ方と作柄の大小に拠るところが大きい。一方で説示は、相州貞宗に範をとった大乱れの作、大和当麻を狙った中直刃に喰違刃を交える作など、常の作域を離れた写し物の存在も挙げ、作域の広さを示している。 鑑定にあっては、流れ肌を交えた肌立ちごころの鍛え、のたれに互の目・尖りごころを交えた刃取り、三品風の帽子、そして処々の飛焼が同工の手癖として要を成す。代表する遺品には濃州関住輝広造の刀、播磨守輝広の脇指・短刀のほか、薙刀や平三角造の槍が含まれ、初代・二代ともに現存は少なく、刀・短刀・槍・薙刀を合わせても二十口に満たないと記される。中でも薙刀や平三角造の大身槍はまま伝わり、柾ごころに流れた鍛えに直刃調浅くのたれた刃を焼き、地刃の冴えた優れた出来を示すものが知られる。彫物は二代に少ないとされながらも、刀樋や護摩箸、薙刀樋に添樋を掻き流す作があり、稀に古作に範をとった濃密な彫が施されて躍動感を見せる例も経眼される。美濃の出自を地鉄と帽子に留めつつ、相州貞宗や大和当麻の古作に学んで作域を広げた芸州広島の一系として、輝広父子の作は位置づけられる。 詳しく見る →
江戸時代
江戸は刀の目利きの時代である。本阿弥の鑑定、1719年の享保名物帳、盛んな刀剣書が、戦で抜かれることのなくなった刀を学問の対象へと変えていった。
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