濃州関住輝広造と銘し天正十七年九月日の年紀を刻む一振の刀が、この刀工の経歴を書き改めた。初代肥後守藤原輝広は、広島に続く安芸輝広一系の祖である。説明書は従来の伝を記す。本国美濃で関兼常の末葉といい、初銘を兼友または兼伴と称し、埋忠明寿に学び、福島正則に仕えて輝広と改め肥後守を受領し、正則に従って尾州清洲に移り、更に慶長五年には芸州広島に移住したという。しかし天正の刀は美濃在国時代から既に輝広を名乗っていたことを示し、説明書は「明寿入門以前に既に大成していた」ことは明白となったとして、明寿との師弟関係には新たな検討が必要であり「今後の研究に俟たれるところである」とする。
現存作は極めて稀である。早い時期の説明書は「刀、短刀、薙刀等を合せても十指をこえないであろう」とし、のちの説明書は刀・短刀・槍・薙刀を含めて「二十点に満たない」と繰り返す。その少ない作の中では長柄物が多く、説明書は「その中では薙刀がまま現存する」とし、槍については「一尺五寸にも及ぶ大身槍は稀であり、出来も秀れている」と記す。
天正の刀がその手の基準となる。身幅やや広く元先の幅差さまで開かず、先反り強くつき大鋒で、鍛えは板目に流れ肌を交え刃寄りは柾肌となり、総体に肌立ちごころに地沸つく。刃文はのたれを基調に処々やや箱がかって大模様となり、互の目丁子風の刃を交え、飛焼・棟焼かかり、足・葉入り、よく沸づいて金筋・砂流しがかかる。説明書はこれを「放胆な作柄を示した初代輝広の傑出した一振」とし、「幅広にして大鋒の体配と併せて迫力に満ち溢れている」と評する。第一回指定の肥後守銘の刀は別の趣で、「志津風の作に私淑したもので同作中の優品の一である」とされ、板目やや流れて柾がかりザングリとし、小湾に互の目交じり砂流しかかる。
薙刀は板目が流れてしばしば柾ごころとなり、処々肌立ち地沸つく。刃文は小のたれ乃至のたれに互の目・小互の目・尖りごころの刃を交え、足・葉入り砂流しかかり、匂口は締りごころ乃至沈みごころとなる。一口は「同作中、最も覇気ある作柄を示して」出来がよいとされ、別の一口は「流石に名工の名に恥じぬ出来である」とされる。槍は柾目あるいは柾ごころに流れる鍛えに、直刃調の浅いのたれに小互の目を交え匂口明るい。身幅広く寸延びた平造の短刀・脇指は別趣で、ある短刀について説明書は「埋忠明寿に学んだという風は全く見られず」、当時の尾張関の作風を見せて出来が優れているとし、平脇指の一口を「関風をみせて出来がよい」とする。
全作を通じて二つの特色がある。帽子は乱れ込んで先尖りごころとなり長く返ることが多く、多く直ぐに小丸となる娘婿の帽子とは異なる。また説明書が匂深と記すのは彼の作では一口のみで、それは二代の小のたれの常態である。その娘婿、尾張蟹江氏の播磨守輝広が二代を継ぎ、説明書は「初代は、肥後守を受領し、二代は播磨守を受領しており」と両者を並べる。福島家改易後、一系は浅野家に仕え、「子孫は浅野家に仕え、代々この地に栄えている」。
藤代は上々作とする。指定を受けた作は十七口で、重要刀剣を経て特別重要刀剣に指定された天正の刀、戦前の重要美術品の刀、重要刀剣の薙刀・槍・短刀・脇指・刀からなる。収集の上で現実に出会えるのは長柄物で、彼の薙刀・槍は時折世に現れるが、現存の極めて少ない在銘の刀は稀な出来事である。天正の刀は、広島の一家の祖の理解を一振で改めた、慶長新刀研究の一里塚というべき作である。