1853年のペリー来航は徳川の泰平をほどき、二世紀ぶりに実用刀の大量需要を生んだ。四谷正宗と呼ばれた清麿はその前夜に世を去り、宗次や行秀が最後の好況を担った。
概要 この刀身は、幕末期に筑前守信秀(ちくぜんのかみのぶひで)としても知られた信秀(のぶひで)によって銘が切られています。彼は幕末における最高位の刀工の一人と見なされています。信秀は文化12年(1815年)に越後国(現在の新潟県)で生まれました。文政12年(1829年)に京都へ移り、有名な鏡師となりました。その後、嘉永3年(1850年)に清麿の弟子となるため江戸(現在の東京)へ移住しました。信秀が幕末で最も熟練し高名な刀工の一人である清麿から作刀技術を初めて学んだ時、彼は34歳から35歳ほどでした。当時、清麿は信秀よりわずか2歳年上でした。彼は非常に才能豊かであったため、3年足らずで清麿から卓越した技術を習得しました。信秀は清麿の第一の弟子として扱われました。 信秀は嘉永5年(1852年)に独立した刀工となりました。慶応元年(1865年)には、孝明天皇より筑前守(ちくぜんのかみ)という名誉ある官位を授かりました。歴史的記録によると、彼は1853年から1854年の間、相模国(現在の神奈川県)に滞在していました。そして1864年から1867年の間は大阪に居住していました。 初期のキャリアでは信秀(のぶひで)と銘を切り、後に栗原謙司信秀(くりはらけんじのぶひで)と改めました。そして最後には平信秀(たいらのぶひで)と銘を切りました。信秀は1852年から1877年(嘉永5年〜明治10年)にかけて活動しました。彼は幕末の作刀における三名工の一人として知られています。他の二人は月山貞一と本荘義胤です。信秀は日本刀の専門家や収集家の間で、最高位の刀工の一人と見なされています。 1868年に侍の時代が終わった後も、信秀は作刀を続けました。そして明治2年(1869年:ポスト侍時代)、彼は明治天皇より儀礼用の刀の製作を依頼されましたが、これはあらゆる刀工にとって最高の名誉の一つと考えられていました。 明治政府はまた、招魂社(現在の靖国神社)という新しく建てられた神社のために、3面の神鏡と1振りの聖なる刀を製作するよう彼に命じました。 招魂社は幕末の戊辰戦争で亡くなった人々の霊を祀るために建てられました。この事実は、信秀が日本で最も尊敬され認められた刀工の一人であったことを示唆しています。彼は明治7年(1874年)にこのプロジェクトを完了しました。そして、彼は越後国に戻り、神社向けの鏡作りを再開しました。彼は東京の自宅にて66歳で亡くなりました。 短刀(Tanto)とは何か? 長さが30cm(11.6インチ)以下の日本刀は一般的に短刀(TANTO)と呼ばれ、短刀には鍔(TSUBA)が付かないこともあります。持ち運びに便利で、接近戦に適していました。当初は鎌倉・室町時代に、長柄武器や長刀を使用していた騎馬武者の補助武器として使われていました。武士は至近距離での戦闘を余儀なくされた際、短刀で敵の鎧の隙間を狙いました。 短刀は、その持ち方に応じて懐刀(HUTOKORO-GATANA)や腰刀(KOSHI-GATANA)などと呼ばれました。また、短刀は邪悪な力からの加護になると信じられていたため、日本の伝統的な結婚式において家族から花嫁への贈り物でもありました。 この刀身は、NBTHK(日本美術刀剣保存協会)より発行された保存刀剣として鑑定されています。 縁頭 この縁頭の図柄は松(matsu)です。松は厳しい暑さや寒さに耐え、一年中その緑色を保つことから、人々はこの植物の文様が不老長寿を表すと考えていました。さらに、その色は常盤色(Tokiwa-Iro)と呼ばれ、松の木には「常盤木(Tokiwa-Gi)」という別名もあります。常盤は不変を意味するため、常盤色は長寿と繁栄への願いを込めて緑を讃える色です。この色は、特に江戸時代において縁起の良い色として重宝されたと言われています。松の意匠は優雅で気品のある印象を与えますが、それもまた人々がこのモチーフを愛する理由かもしれません。 柄と目貫 この目貫の題材は牡丹(botan)です。牡丹は幸福、富、高貴、そして華やかさを表します。この花の文様は一種の瑞祥文様として扱われてきました。人々はこれを豊作の兆しと見なしていました。牡丹は日本語で「Botan」と呼ばれます。この花の名前を日本語で書くとき、二番目の文字は不老長寿をもたらす仙人の薬を意味します。この文字の意味に基づき、牡丹の文様は不老長寿と長寿を象徴しています。 小柄 この小柄の図柄は五三の桐文様(Gosan-no-Kiri Monyou)です。桐のモチーフが使われている人気のデザインです。この文様はかつて皇室や当時の権力者によって使用されていました。今日では一般家庭での使用も許されており、家紋として親しまれています。伝承によれば、鳳凰(Houou)は桐の木で羽を休めるとされており、そのため神聖な植物と見なされるようになりました。 桐(Kiri)文様は、一般的に3本の直立した花序と3枚の葉で構成されています。それぞれの花序に咲いている花の数は、この意匠の格を表しています。日本で最も人気のある侍の一人である豊臣秀吉が、家紋に桐文様を用いたことでも有名です。一説によると、秀吉は沢瀉(Omodaka)文様を家紋として使用していました。しかし、戦国時代の著名な武将である織田信長が、秀吉に桐紋の使用を許しました。この植物文様は、かつて皇室や時の国家指導者によって使用されていました。今日、この植物文様は日本政府の紋章として使用されています。 *この小柄には木製の小刀がついています。金属製の小刀をご希望の場合は、お問い合わせください。 *写真では木製の刀身が装着されています。しかし、発送時には金属製の刀身が付属します。 笄 この笄の題材は小柄と同じ、五三の桐文様(Gosan-no-Kiri Monyou)です。 鞘 この鞘は、黒石目千段刻塗(kuro-ishime sendan-kizami nuri)として知られる日本の伝統的な漆芸技法を用いて仕上げられています。石目塗(石の質感の漆)は、天然石に似た黒く質感のある表面を作り出します。この技法は視覚的な魅力を高めるだけでなく、滑り止めのグリップと優れた耐久性を提供し、美しさと実用性を兼ね備えています。 鑑定書 彼らは平成7年(1995年)4月14日にこの刀身を鑑定しました。彼らはこれを、日本社会にとって特に保存する価値のある刀剣である特別保存刀剣として評価しました。




























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Kurihara Nobuhide, Yamaura Kiyomaro school (shinshinto) · 武蔵 · 1857-1867頃
藤代 上々作 · 刀剣大鑑 上位10%
現在4点販売中
栗原謙司信秀は越後三条に生まれ、初め鏡師を業とし、嘉永三年頃に至って江戸四谷の山浦清麿の門に入り、刀の道に転じた。師の門人のうち、説明書が最も源に近く置くのが彼である。受領以前の作を評して、説明書は「その技術は一門中、最も師に迫るものであり」[[c:1]]と記す。慶応元年五月に筑前守を受領し、大坂に三年住して江戸に戻り、廃刀令の後は故郷の越後に帰って僅かに鍛刀し、明治十三年に歿した。信秀、多くは平信秀、受領後は栗原筑前守平信秀と銘した。清人と並んで、嘉永の四谷正宗の相州復古を幕末・明治初年に伝えた二人の手の一人である。
狙うところは師の作風、その中でも清麿が最も得意とした志津の調子である。説明書は端的に、その作が「師に似て志津伝を得意としている」[[c:2]]と述べる。刃文は互の目乱れに尖り刃・角がかった角互の目を交え、丁子ごころが入り時に交じり、足・葉よく入る。働きは沸の深い刃のそれで、小沸よくつき、砂流しかかり、長い金筋が頻りに入り、匂口は明るく冴える。帽子は乱れ込んで尖りごころに返り、しばしば掃きかけ、時に先突き上げて小丸となる。身幅の広い平造の脇指に、この手が全き力で読まれる。説明書はある一口を「覇気あふれる出来で、砂流し、金筋頻りに働いて力強い」[[c:3]]とする。
地鉄こそ清麿への近さが最もよくあらわれるところである。流れてやや肌立つ板目に時に柾・杢を交え、地沸厚くつき地景頻りに入り、かね冴える。映りはない。これは志津を経て相州に遡る新々刀の手であって備前の手ではなく、その明るさは地刃の沸に宿り、映りには宿らない。姿は堂々として身幅広く、重ね薄きものあり、反り浅く、切先延びあるいは大鋒となり、先反ごころのものも見る。この強さに対し、説明書は継承の限りについて率直である。その覇気と迫力は師に遠く及ばないと一再ならず記し、しかも作の器用さは異論がないとする。
彼ひとりの見どころ、一派中で彼だけの手は彫物である。鏡師の修業が他工にない金属の手を与え、説明書は山浦一派において「山浦一派では彼の刀以外に彫物がない」[[c:4]]と記す。図柄は多彩で取題に独特のものがある。草の倶利迦羅、珠追竜、竜乗り観音、腰元の天鈿女命・山桜花、二筋樋・棒樋の下の梵字・素剣。明治元年以降は金工加納夏雄に学んで彫法著しく変じ、浅い肉合彫風となる。彫物に伴う造込みが片切刃造で、説明書は信秀に片切刃造がまま見受けられるとし、身幅の広い平造の寸延び脇指と併せ見る。彫物こそ彼の作の眼目であって、ある彫物のない刀について、説明書はその不在を讃に転ずる。彫物がないだけに、かえって「却って師清麿に見紛う程の出来」[[c:5]]と評するのである。
師と彼とを分かつものは説明書自身が名指すところであり、それは種ではなく程度の差である。同じく流れる板目に地沸厚く地景入り、同じく沸深い互の目乱れに砂流し・金筋、同じく尖る帽子を焼く。されど清麿の手が覇気において圧倒すると読まれるのに対し、信秀の手はそれに最もよく迫った手、一門が達した最も近い手と読まれる。清麿門の中で彼は彫物の手であり、大坂・越後流浪の手であり、銘と受領によって年代と所在の知れる手である。すなわち彼は、短く激しい生涯ゆえに一層神話化された開祖を持つ一派の、開かれた知り得る面である。
収集の観点では、確かな質を備えた手に入れ得る清麿一派の名である。藤代の極めは上々作、刀剣美術の評価も新々刀中で高い。国宝はなく、重要文化財もない。その記録は重要刀剣の級を通り、在銘の刀・脇指・薙刀が三十口余り指定されている。来歴は広汎というより、確かで歴史に響くものである。慶応元年の片切刃の脇指一口は、説明書によれば「将軍慶喜に献上のものである」[[c:6]]とし、また一口は故郷越後三条の八幡社に伝わる。指定の作の多くは伝えられて商われることなく、商い得る級はわずかであるから、在銘の信秀が世に出ることは時折に限られる。世に出たそのとき、それは収集家が清麿相州の手を、在銘・年紀を備え、しばしば自らの彫物を伴って手にし得る、最も報いある道の一つである。
信秀の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新々刀 · 武蔵
現在16点販売中
清麿一門は、十九世紀中頃の江戸に興った新々刀の一派で、相州伝の豪壮な復興をその核に据える。中心に立つのは山浦清麿で、文化十年信濃小諸赤岩村に郷士信風の次男として生まれ、はじめ内蔵助環と称した。上田藩工河村寿隆に鍛刀を学び、初銘を正行とし、一時師より贈られた秀寿と銘したのち同年のうちに正行へ復している。天保六年、兵法家として名高い幕臣窪田清音の後援を得て江戸に出で、天保十三年から一年を長州萩で送り、弘化二年に再び江戸へ戻って、翌三年秋に四谷伊賀町に住して銘を清麿と改めた。相州伝を得意とすること甚だしく、世に四谷正宗と称せられた。その糾合した門には、信濃以来の同じ道を歩んだ兄真雄、越後三条より鏡師を廃して入門した栗原信秀、羽州庄内より出府して師の刀債を後に完済した斎藤清人らが連なり、嘉永七年の清麿自刃の後も、その相州復古の手は幕末から明治初年へと伝えられた。 一門を貫く語法は、五百年を遡って相州に通う沸本位の作風にある。やや肌立つ流れごころの板目をよくつめ、地沸を微塵に厚く敷き、地景頻りに入って鉄が冴え、映りはない。その上に互の目乱れに小のたれを交え、沸厚く処々荒めに叢立ち、長い金筋と盛んな砂流しが頻りにかかる覇気ある刃を焼く。帽子は乱れ込み、尖りごころに掃きかけて返る。この共通の地刃の内に、各工の手が分かれる。清麿は志津三郎兼氏を仰いだ志津伝を得意中の得意とし、その地沸・地景の厚さと荒沸の富みにおいて一門を圧して、菖蒲造・冠落造の脇指や短刀に華やかな乱れを見せる。信秀はその志津の調子に最もよく迫った手で、説明書はその技を一門中最も師に迫るものとし、互の目に尖り刃・角互の目を交えて砂流し・金筋を頻りにかけるが、覇気と迫力は師に遠く及ばないとも率直に記す。彼ひとりの見どころは鏡師の修業に発する彫物で、草の倶利迦羅・珠追竜・竜乗り観音など多彩な図柄を刻み、一派中で彫物を伴うのは彼の刀のみである。真雄は寿隆風の丁子に始まって相州伝に転じた弟と同じ展開を辿るが、説明書は地景・砂流し・金筋がやや少なく出来が清麿に及ばないとし、なお優作では地沸厚く強い鍛えを称える。清人は頭の丸い互の目を主調に長い足と豊かな沸を保って師風を忠実に継ぐ一方、清麿には見られぬ大和伝の直刃を独り保ち、よくつんだ小板目に微塵の地沸を敷いて地刃の冴えた直刃を焼く。 鑑定の勘所は、まずこの相州への遡りにある。同時代の新々刀工が備前の丁子や虎徹の詰んだ地鉄を写したのに対し、本一門は地沸・地景厚く荒沸に富み金筋・砂流し頻りなる地刃を、借りものの模様によらずその力強さと明るさによって示す。姿もまた手がかりで、身幅広く元先の幅差少なく、鎬幅狭く平肉つかず、大鋒の延びてふくらの枯れた豪壮な体配が一門独特のものとされる。位列にあって清麿は晩年のあらゆる刀工の中でも最も人気の高い一人で、藤代はこれを最上作とし、真雄を上作、信秀・清人をこれに次ぐ手とする。国宝・重要文化財はなく、その地位は今日の指定の級と僅かな来歴に拠る。来歴は広汎というより確かで歴史に響くもので、清麿の作は岩崎家と静嘉堂文庫、後援者窪田清音、大小を註文した松代藩士、剣客中条金之助の手を経、信秀の片切刃の脇指は将軍慶喜への献上と伝え越後三条の八幡社にも伝わり、清人の一口は亡師の遺志を託されて稜威尾羽張の神号を刻む。多くは伝えられて市場には出ず、在銘の作が世に現れるのは時折に限られるが、年紀を備えたその一口は、相州が江戸に甦った瞬間を語る証として、新々刀を集める者の前に立つ最も報いある手の一つである。 詳しく見る →
幕末 最後の需要
1853年のペリー来航は徳川の泰平をほどき、二世紀ぶりに実用刀の大量需要を生んだ。四谷正宗と呼ばれた清麿はその前夜に世を去り、宗次や行秀が最後の好況を担った。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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