刀剣小町 刀 銘 表 : 於東武大城下藤原信近作之 裏 :慶應元年八月吉日 白鞘入 (Katana, Fujiwara Nobuchika) 鎬造、庵棟、身幅広く、鎬高く、元先の幅差さまで目立たず、反り浅くつき、大切先フクラ枯れごころとなる姿。 刃文は、互の目乱れ、角ばる刃や丁子ごころの刃・尖り刃・頭の丸い互の目などが交じり、匂口締まりごころ、足入り、小沸つき、湯ばしり状の飛び焼きや島刃を交え、砂流しかかる。 信近は、元治元年(1864)に16歳で栗原信秀の門人となり、明治3年(1870)に信秀の次女きんの婿として、栗原家を継ぎ東京本郷本町に住しました。明治12年、嘉仁親王(後の大正天皇)の御生誕のおりには刀剣を献上しました。のちに「信親」と改銘し、廃刀令後は小刀や彫刻刀を作る刃物鍛治として名を馳せたことが知られています。彫刻家・高村光太郎は、その著作『美について』のなかで、信親の刀鍛治としての経験に培われた、玉鋼による刃物造りの見事さ、さらに姿形の品格の高さや切れ味について讃えています。本作は、幕末の短い作刀期間に残された信近銘の一振りで、師風をよくあらわしています。生刃が残る健全な姿で、茎の鑢目や銘文のたがね跡も鮮明によく保存されています。 素銅地金着一重ハバキ、白鞘、白鞘袋、登録証(東京都313567号 平成弍拾七年四月拾八日交付)、




新々刀 · 武蔵 · 1864-1865頃
現在1点販売中
新々刀 · 武蔵
現在13点販売中
清麿一門は、十九世紀中頃の江戸に興った新々刀の一派で、相州伝の豪壮な復興をその核に据える。中心に立つのは山浦清麿で、文化十年信濃小諸赤岩村に郷士信風の次男として生まれ、はじめ内蔵助環と称した。上田藩工河村寿隆に鍛刀を学び、初銘を正行とし、一時師より贈られた秀寿と銘したのち同年のうちに正行へ復している。天保六年、兵法家として名高い幕臣窪田清音の後援を得て江戸に出で、天保十三年から一年を長州萩で送り、弘化二年に再び江戸へ戻って、翌三年秋に四谷伊賀町に住して銘を清麿と改めた。相州伝を得意とすること甚だしく、世に四谷正宗と称せられた。その糾合した門には、信濃以来の同じ道を歩んだ兄真雄、越後三条より鏡師を廃して入門した栗原信秀、羽州庄内より出府して師の刀債を後に完済した斎藤清人らが連なり、嘉永七年の清麿自刃の後も、その相州復古の手は幕末から明治初年へと伝えられた。 一門を貫く語法は、五百年を遡って相州に通う沸本位の作風にある。やや肌立つ流れごころの板目をよくつめ、地沸を微塵に厚く敷き、地景頻りに入って鉄が冴え、映りはない。その上に互の目乱れに小のたれを交え、沸厚く処々荒めに叢立ち、長い金筋と盛んな砂流しが頻りにかかる覇気ある刃を焼く。帽子は乱れ込み、尖りごころに掃きかけて返る。この共通の地刃の内に、各工の手が分かれる。清麿は志津三郎兼氏を仰いだ志津伝を得意中の得意とし、その地沸・地景の厚さと荒沸の富みにおいて一門を圧して、菖蒲造・冠落造の脇指や短刀に華やかな乱れを見せる。信秀はその志津の調子に最もよく迫った手で、説明書はその技を一門中最も師に迫るものとし、互の目に尖り刃・角互の目を交えて砂流し・金筋を頻りにかけるが、覇気と迫力は師に遠く及ばないとも率直に記す。彼ひとりの見どころは鏡師の修業に発する彫物で、草の倶利迦羅・珠追竜・竜乗り観音など多彩な図柄を刻み、一派中で彫物を伴うのは彼の刀のみである。真雄は寿隆風の丁子に始まって相州伝に転じた弟と同じ展開を辿るが、説明書は地景・砂流し・金筋がやや少なく出来が清麿に及ばないとし、なお優作では地沸厚く強い鍛えを称える。清人は頭の丸い互の目を主調に長い足と豊かな沸を保って師風を忠実に継ぐ一方、清麿には見られぬ大和伝の直刃を独り保ち、よくつんだ小板目に微塵の地沸を敷いて地刃の冴えた直刃を焼く。 鑑定の勘所は、まずこの相州への遡りにある。同時代の新々刀工が備前の丁子や虎徹の詰んだ地鉄を写したのに対し、本一門は地沸・地景厚く荒沸に富み金筋・砂流し頻りなる地刃を、借りものの模様によらずその力強さと明るさによって示す。姿もまた手がかりで、身幅広く元先の幅差少なく、鎬幅狭く平肉つかず、大鋒の延びてふくらの枯れた豪壮な体配が一門独特のものとされる。位列にあって清麿は晩年のあらゆる刀工の中でも最も人気の高い一人で、藤代はこれを最上作とし、真雄を上作、信秀・清人をこれに次ぐ手とする。国宝・重要文化財はなく、その地位は今日の指定の級と僅かな来歴に拠る。来歴は広汎というより確かで歴史に響くもので、清麿の作は岩崎家と静嘉堂文庫、後援者窪田清音、大小を註文した松代藩士、剣客中条金之助の手を経、信秀の片切刃の脇指は将軍慶喜への献上と伝え越後三条の八幡社にも伝わり、清人の一口は亡師の遺志を託されて稜威尾羽張の神号を刻む。多くは伝えられて市場には出ず、在銘の作が世に現れるのは時折に限られるが、年紀を備えたその一口は、相州が江戸に甦った瞬間を語る証として、新々刀を集める者の前に立つ最も報いある手の一つである。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトお届けした商品の状態が、当サイトの写真や説明と著しく異なると、お客様が判断された場合は返品が可能です。但し、返品にかかる送料はお客様のご負担でお願いします。クーリングオフを希望される場合は、商品の到着後1週間以内に書面の郵送にてお申し出ください。商品の返送代金はお客様のご負担となります。
刀剣小町 刀 銘 表 : 於東武大城下藤原信近作之 裏 :慶應元年八月吉日 白鞘入 (Katana, Fujiwara Nobuchika) 鎬造、庵棟、身幅広く、鎬高く、元先の幅差さまで目立たず、反り浅くつき、大切先フクラ枯れごころとなる姿。 刃文は、互の目乱れ、角ばる刃や丁子ごころの刃・尖り刃・頭の丸い互の目などが交じり、匂口締まりごころ、足入り、小沸つき、湯ばしり状の飛び焼きや島刃を交え、砂流しかかる。 信近は、元治元年(1864)に16歳で栗原信秀の門人となり、明治3年(1870)に信秀の次女きんの婿として、栗原家を継ぎ東京本郷本町に住しました。明治12年、嘉仁親王(後の大正天皇)の御生誕のおりには刀剣を献上しました。のちに「信親」と改銘し、廃刀令後は小刀や彫刻刀を作る刃物鍛治として名を馳せたことが知られています。彫刻家・高村光太郎は、その著作『美について』のなかで、信親の刀鍛治としての経験に培われた、玉鋼による刃物造りの見事さ、さらに姿形の品格の高さや切れ味について讃えています。本作は、幕末の短い作刀期間に残された信近銘の一振りで、師風をよくあらわしています。生刃が残る健全な姿で、茎の鑢目や銘文のたがね跡も鮮明によく保存されています。 素銅地金着一重ハバキ、白鞘、白鞘袋、登録証(東京都313567号 平成弍拾七年四月拾八日交付)、




新々刀 · 武蔵 · 1864-1865頃
現在1点販売中
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清麿一門は、十九世紀中頃の江戸に興った新々刀の一派で、相州伝の豪壮な復興をその核に据える。中心に立つのは山浦清麿で、文化十年信濃小諸赤岩村に郷士信風の次男として生まれ、はじめ内蔵助環と称した。上田藩工河村寿隆に鍛刀を学び、初銘を正行とし、一時師より贈られた秀寿と銘したのち同年のうちに正行へ復している。天保六年、兵法家として名高い幕臣窪田清音の後援を得て江戸に出で、天保十三年から一年を長州萩で送り、弘化二年に再び江戸へ戻って、翌三年秋に四谷伊賀町に住して銘を清麿と改めた。相州伝を得意とすること甚だしく、世に四谷正宗と称せられた。その糾合した門には、信濃以来の同じ道を歩んだ兄真雄、越後三条より鏡師を廃して入門した栗原信秀、羽州庄内より出府して師の刀債を後に完済した斎藤清人らが連なり、嘉永七年の清麿自刃の後も、その相州復古の手は幕末から明治初年へと伝えられた。 一門を貫く語法は、五百年を遡って相州に通う沸本位の作風にある。やや肌立つ流れごころの板目をよくつめ、地沸を微塵に厚く敷き、地景頻りに入って鉄が冴え、映りはない。その上に互の目乱れに小のたれを交え、沸厚く処々荒めに叢立ち、長い金筋と盛んな砂流しが頻りにかかる覇気ある刃を焼く。帽子は乱れ込み、尖りごころに掃きかけて返る。この共通の地刃の内に、各工の手が分かれる。清麿は志津三郎兼氏を仰いだ志津伝を得意中の得意とし、その地沸・地景の厚さと荒沸の富みにおいて一門を圧して、菖蒲造・冠落造の脇指や短刀に華やかな乱れを見せる。信秀はその志津の調子に最もよく迫った手で、説明書はその技を一門中最も師に迫るものとし、互の目に尖り刃・角互の目を交えて砂流し・金筋を頻りにかけるが、覇気と迫力は師に遠く及ばないとも率直に記す。彼ひとりの見どころは鏡師の修業に発する彫物で、草の倶利迦羅・珠追竜・竜乗り観音など多彩な図柄を刻み、一派中で彫物を伴うのは彼の刀のみである。真雄は寿隆風の丁子に始まって相州伝に転じた弟と同じ展開を辿るが、説明書は地景・砂流し・金筋がやや少なく出来が清麿に及ばないとし、なお優作では地沸厚く強い鍛えを称える。清人は頭の丸い互の目を主調に長い足と豊かな沸を保って師風を忠実に継ぐ一方、清麿には見られぬ大和伝の直刃を独り保ち、よくつんだ小板目に微塵の地沸を敷いて地刃の冴えた直刃を焼く。 鑑定の勘所は、まずこの相州への遡りにある。同時代の新々刀工が備前の丁子や虎徹の詰んだ地鉄を写したのに対し、本一門は地沸・地景厚く荒沸に富み金筋・砂流し頻りなる地刃を、借りものの模様によらずその力強さと明るさによって示す。姿もまた手がかりで、身幅広く元先の幅差少なく、鎬幅狭く平肉つかず、大鋒の延びてふくらの枯れた豪壮な体配が一門独特のものとされる。位列にあって清麿は晩年のあらゆる刀工の中でも最も人気の高い一人で、藤代はこれを最上作とし、真雄を上作、信秀・清人をこれに次ぐ手とする。国宝・重要文化財はなく、その地位は今日の指定の級と僅かな来歴に拠る。来歴は広汎というより確かで歴史に響くもので、清麿の作は岩崎家と静嘉堂文庫、後援者窪田清音、大小を註文した松代藩士、剣客中条金之助の手を経、信秀の片切刃の脇指は将軍慶喜への献上と伝え越後三条の八幡社にも伝わり、清人の一口は亡師の遺志を託されて稜威尾羽張の神号を刻む。多くは伝えられて市場には出ず、在銘の作が世に現れるのは時折に限られるが、年紀を備えたその一口は、相州が江戸に甦った瞬間を語る証として、新々刀を集める者の前に立つ最も報いある手の一つである。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトお届けした商品の状態が、当サイトの写真や説明と著しく異なると、お客様が判断された場合は返品が可能です。但し、返品にかかる送料はお客様のご負担でお願いします。クーリングオフを希望される場合は、商品の到着後1週間以内に書面の郵送にてお申し出ください。商品の返送代金はお客様のご負担となります。