説明

特別保存刀剣 『 平信秀 元治元年三月日 』 刀剣種別 『刀・Katana』 銘 『平信秀 元治元年三月日』 『Taira NOBUHIDE  genji 1nen 3gatsuhi』 鑑定書『日本美術刀剣保存協会 特別保存刀剣』 NBTHK 『Tokubetsu Hozon Paper』 時代『元治元年』 Production age 『1864』 栗原信秀は、幕末の巨匠である源清磨の高弟である。文政十二年に京都に上り鏡師になったが、嘉永三年三十四歳で江戸に出て窪田清音を介して清麿門に入り刀鍛冶となった。清麿とはわずか二歳違いであり、弟子というよりは弟分の待遇であった。現存する信秀の作刀で最も時代の遡るものは、嘉永五年記であることから、実際に師事した期間は短かったものと思われる。天才清麿に負けぬ天才肌であり四年で独立する。嘉永六年には「浦賀打」がある。慶応元年春、上洛して筑前守受領し、高野山の奥の院に清麿を追善する碑を建て、永代供養の位牌を納めている。これには余程の費用がかかっており、清麿との深いつながりを窺い知る事が出来る。その後大阪に滞在した。同地での作刀は慶応元年十月より始まり、同三年正月まで続いている。のちに江戸に戻り、明治二年には明治天皇の御番鍛冶に任命され、佩刀を献上しその地位を不動のものとする。明治七年夏、越後三条に帰り、同十年には弥彦神社の御神鏡の制作を行っている。明治十三年一月二十五日、東京本郷元町の養子信親宅に於いて、六十六歳で没している。彼の技量は清麿一門の中でも最も卓越しており、師清麿に迫る出来映えのものがある。また彫物を得意とし、多くの作品に施しているが、彫の浅い繊細な彫法は彼独特のものである。 この刀は幅広で鋒が伸び、長寸で、身幅の割に鎬幅が狭めとなり、平肉があまりつかず、ふくら枯れごころとなるなどの体配で、新々刀の中でも清麿及びその一門によく見る独特の刀姿であり、姿格好が一際豪壮である。鍛は板目が肌立ちごころに、総じて流れ、地沸が厚くつき、地景がよく入り、刃文は互の目乱れに角ばる刃・頭の丸い互の目・尖り刃等を交えた特徴的な焼刃をみせ、足が長くよく入り、沸がよくつき、総体に砂流しがかかり、随所に例によって太い金筋が入り、匂口が明るいなどの出来口を表している。殊に帽子は乱れ込んで先が掃きかけるなどの出来口で、彼の本領が遺憾無く発揮されている。さらに刃中に焼の抜けたような丸い玉(島刃)が看て取れるが、これも清麿及び一門によく見る態である。豪壮な刃姿と華やかな焼刃とが相俟って、一際覇気がある。なお、文久二年までの作には「栗原謙司信秀」と長銘にきったものが多いが、文久三年より元治二年にかけての作は、本刀に見るように「平信秀」三字銘、或は「信秀」と二字銘にきるのが常である。またこの期の茎は特に長くなる点も見どころである。文久四年二月二十日に改元されているところから、この作は改元直後の作品であることが理解され、資料的にも価値が高い。 『形状』鎬造、庵棟、身幅尋常、長寸、元先の幅差少しくつき、身幅の割に鎬幅が狭めとなり、重ね厚く、平肉あまりつかず、中鋒延び、ふくら枯れごころとなる。 『鍛』板目肌たちごこに、総じて流れ、地沸厚くつき、地景よく入り、随所に黒い変わりがね交じる。 『刃文』互の目乱れに角ばる刃・尖り刃、頭の丸い互の目・飛焼風や島刃など交り、足が長くよく入り、沸よくつき、総体に砂流しかかり、特に金筋が顕著に見られ清麿風となり、匂口明るく冴える。 『帽子』乱れ込み、先掃掛て深く返りる。 『茎』生ぶ、先刃上がりごころの栗尻、鑢目筋違い、目釘孔1。 『寸法(Size)』 長さ(Blade length)76cm、反り(Sori)1.4cm、 元幅(Width of moto)3.19cm、先幅(Width of saki)2.25cm、 元重(Thickness of moto)0.74cm 先重(Thickness of saki)0.5cm

特別保存刀剣『平信秀 元治元年三月日』
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特別保存刀剣『平信秀 元治元年三月日』

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仕様

長さ

76 cm

反り

1.4 cm

元幅

3.19 cm

先幅

2.25 cm

作者について

Kiyomaro Nobuhide信秀

34 重要刀剣

栗原謙司信秀は越後三条に生まれ、初め鏡師を業とし、嘉永三年頃に至って江戸四谷の山浦清麿の門に入り、刀の道に転じた。師の門人のうち、説明書が最も源に近く置くのが彼である。受領以前の作を評して、説明書は「その技術は一門中、最も師に迫るものであり」と記す。慶応元年五月に筑前守を受領し、大坂に三年住して江戸に戻り、廃刀令の後は故郷の越後に帰って僅かに鍛刀し、明治十三年に歿した。信秀、多くは平信秀、受領後は栗原筑前守平信秀と銘した。清人と並んで、嘉永の四谷正宗の相州復古を幕末・明治初年に伝えた二人の手の一人である。 狙うところは師の作風、その中でも清麿が最も得意とした志津の調子である。説明書は端的に、その作が「師に似て志津伝を得意としている」と述べる。刃文は互の目乱れに尖り刃・角がかった角互の目を交え、丁子ごころが入り時に交じり、足・葉よく入る。働きは沸の深い刃のそれで、小沸よくつき、砂流しかかり、長い金筋が頻りに入り、匂口は明るく冴える。帽子は乱れ込んで尖りごころに返り、しばしば掃きかけ、時に先突き上げて小丸となる。身幅の広い平造の脇指に、この手が全き力で読まれる。説明書はある一口を「覇気あふれる出来で、砂流し、金筋頻りに働いて力強い」とする。 地鉄こそ清麿への近さが最もよくあらわれるところである。流れてやや肌立つ板目に時に柾・杢を交え、地沸厚くつき地景頻りに入り、かね冴える。映りはない。これは志津を経て相州に遡る新々刀の手であって備前の手ではなく、その明るさは地刃の沸に宿り、映りには宿らない。姿は堂々として身幅広く、重ね薄きものあり、反り浅く、切先延びあるいは大鋒となり、先反ごころのものも見る。この強さに対し、説明書は継承の限りについて率直である。その覇気と迫力は師に遠く及ばないと一再ならず記し、しかも作の器用さは異論がないとする。 彼ひとりの見どころ、一派中で彼だけの手は彫物である。鏡師の修業が他工にない金属の手を与え、説明書は山浦一派において「山浦一派では彼の刀以外に彫物がない」と記す。図柄は多彩で取題に独特のものがある。草の倶利迦羅、珠追竜、竜乗り観音、腰元の天鈿女命・山桜花、二筋樋・棒樋の下の梵字・素剣。明治元年以降は金工加納夏雄に学んで彫法著しく変じ、浅い肉合彫風となる。彫物に伴う造込みが片切刃造で、説明書は信秀に片切刃造がまま見受けられるとし、身幅の広い平造の寸延び脇指と併せ見る。彫物こそ彼の作の眼目であって、ある彫物のない刀について、説明書はその不在を讃に転ずる。彫物がないだけに、かえって「却って師清麿に見紛う程の出来」と評するのである。 師と彼とを分かつものは説明書自身が名指すところであり、それは種ではなく程度の差である。同じく流れる板目に地沸厚く地景入り、同じく沸深い互の目乱れに砂流し・金筋、同じく尖る帽子を焼く。されど清麿の手が覇気において圧倒すると読まれるのに対し、信秀の手はそれに最もよく迫った手、一門が達した最も近い手と読まれる。清麿門の中で彼は彫物の手であり、大坂・越後流浪の手であり、銘と受領によって年代と所在の知れる手である。すなわち彼は、短く激しい生涯ゆえに一層神話化された開祖を持つ一派の、開かれた知り得る面である。 収集の観点では、確かな質を備えた手に入れ得る清麿一派の名である。藤代の極めは上々作、刀剣美術の評価も新々刀中で高い。国宝はなく、重要文化財もない。その記録は重要刀剣の級を通り、在銘の刀・脇指・薙刀が三十口余り指定されている。来歴は広汎というより、確かで歴史に響くものである。慶応元年の片切刃の脇指一口は、説明書によれば「将軍慶喜に献上のものである」とし、また一口は故郷越後三条の八幡社に伝わる。指定の作の多くは伝えられて商われることなく、商い得る級はわずかであるから、在銘の信秀が世に出ることは時折に限られる。世に出たそのとき、それは収集家が清麿相州の手を、在銘・年紀を備え、しばしば自らの彫物を伴って手にし得る、最も報いある道の一つである。

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