後藤寿乗光理は後藤宗家の十二代目である。元禄二年に宗家十一代通乗光寿の嫡男として生まれ、幼名を亀市、のち光幸と名乗った。享保五年十一月、父の光寿が通乗と名乗り隠居したのを期に家督を相続し、四郎兵衛光理と名乗って宗家十二代目当主となった。説明書の一は、寛保二年二月に五十四歳で病歿したと記す。後藤家は将軍家の御用をつとめる家彫の宗家であり、説明書は彼を、江戸時代中期の当主の中にあって上代の当主たちを顧みた工として位置づける。
説明書が彼の作風について述べるのは、まさにその点である。江戸時代中期以降の後藤宗家の中で、彼は「家彫における古風な作品を数多く手懸けて成功している」とされる。自身銘の山鵲図三所物は「古風堅実な彫法」で、「後藤家の家風を遺憾なく発揮しており、気品があって格調が高い」と評される。素材は家の正格のもので、小柄・笄は赤銅魚子地に金紋、裏哺金とし、目貫は金無垢地の容彫とする。
今その名のもとにある作は五点である。第一は後藤光理(花押)の自身銘を負う麒麟図三所物で、目貫は無銘ながら同作とされる。聖人の出る前に現われると中国に伝えられる霊獣の麒麟を、各所に一匹宛、形を変えて金紋に配する。説明書は光理の作は古風であるといわれるとし、この麒麟も「時代の上がる後藤家の作品を彷彿とさせる」出来映えで、落ち着きのある高い品格を備えるとする。第二は小柄・笄に自身銘のある山鵲図三所物で、子の光孝による明和五年の折紙が附く。第三は無銘の巻龍図三所物で、同じく光孝が金の極め銘と安永三年の代百貫の折紙をもって寿乗作と極める。打ち出しは厚目で金を多く使い、根も力金も丁寧に造り込み、説明書はこれを「後藤家のお手本のような格式を備え持った見事な一組」とする。
第四は流水に亀図三所物で、十五代真乗光美が寿乗と極める。金色絵を水の流れと露にのみ用い、赤銅の漆黒と対比させており、説明書は大徳川家伝来の優品とする。第五は別格である。桃山時代の費長坊・長伯房図小柄で、彼自身の作ではなく、彼が四代光乗の金紋と極めて光理の名を添え、享保十四年の代百貫の折紙を附したものである。
子による極めは記録の上で重きをなす。山鵲図三所物について説明書は「子が親の作品を極めるといった此の上ない確かな鑑定」とし、巻龍図三所物については「自身銘と同格の力があると思われる」とする。五点中二点に見える自身銘は、子の極めと並んで彼の作の記録上の拠りどころとなり、光乗の小柄に添えた光理の名は、作者ではなく極めを行う当主としての彼を示す。
指定は重要刀装具五点で、うち二点が自身銘である。作品が僅少であるため、一組一組が江戸時代中期の後藤宗家を語る資料であり、寿乗の三所物が収集家の手に渡る機会は稀である。