後藤寿乗光理は、元禄二年に宗家十一代通乗光寿の嫡男として生まれ、幼名を亀市、のち光幸と称した。享保五年十一月、父光寿が通乗と号して隠居するに及び家督を相続し、四郎兵衛光理と名乗って後藤宗家十二代目当主となった。江戸時代中期、後藤宗家の伝統を次代へ確実に繋ぐ要の世代にあたる。
自作においては、赤銅魚子地に金紋を配した三所物が代表的な作域である。巻龍図などの伝統的画題を用い、打ち出しは厚目で金を多く使用して重量感があり、根も力金も丁寧に造り込む。金無垢地の容彫目貫にも巧みな姿態表現が見られ、説示には「各所に後藤家の家風を遺憾なく発揮しており、気品があって格調が高い」「後藤家のお手本のような格式を備え持った見事な一組」と繰り返し評される。宗家伝来の技法を忠実に守りながらも、端正にして格調ある独自の美意識を確立した工人である。
鑑定家としても重きをなし、三代乗真の鯰図笄をはじめ歴代宗家の作品に対して極銘を切り、享保十四年付の代百貫折紙など確かな鑑識眼を後世に残している。子の十三代光孝が光理自身の作品を極めた折紙が附帯する例もあり、親子間にわたる宗家の鑑定の継承を示す好例として注目される。