応仁の乱が足利の体制を砕いた後、戦国の一世紀はほとんどすべての国を武装させた。この時代は選ぶ目に報いる。並の作は多いが、その傍らには第一級の注文打ちが立っている。
池田宣政候(いけだのぶまさ)明治37年7月1日生、昭和期の政治家、実業家、華族。侯爵、貴族院議員。岡山藩池田家第15代当主名義の刀剣類所持許可証付 出ました出ました岡山池田家伝来の名刀が出ました。本刀は相州綱廣の門と言われる有名な伯州見田五左衛門広賀の子の室町時代永禄頃(1560年)(464年前)丁度桶狭間で織田信長が今川義元を破り天下に名を挙げたその頃の伯耆国倉吉住道祖尾助丞廣賀の名刀です。後に倉吉は池田光政公の領地となりその後光政公は岡山池田家藩祖となります。本廣賀の刀は倉吉時代から池田家に伝来した貴重な刀です。本刀は元身幅広と先身幅との差の有る先反りの付いた健全な刀姿を現し、地金は板目肌に杢目肌を交え良く詰んで、刃紋は匂い出来に小沸の良く付いた互の目乱れ刃に尖り刃を交え返りを深く焼き棟焼きとなりここに相州伝を現した覇気有る刃を焼き見事です。池田家には日本刀の最高峰と言われる国宝古備前大包平を初め素晴らしい名刀を多く所蔵していた事でも有名です。この度古いお数寄者様から自分も年を取ったので後進の方にお安くお譲り下さいとお預かりした為に鞘当たりの薄錆もありますので特別に格安にてご提供いたします是非お楽しみ下さい。
廣賀Hoki Hiroyoshi
取扱店 明倫産業
























Hoki Hiroga (Mita Gorozaemon line) · 伯耆 · 1532-1565頃
藤代 上作 · 刀剣大鑑 上位37%
現在1点販売中
伯耆国の広賀は見田五郎左衛門尉と銘し、天文二年正月の年紀を持つ短刀の棟に「六十一歳作」と行年を切った。説明書はこの年紀を「同作中最も古い年紀と目され」[[c:6]]とし、棟に切った六十一歳の年令も「同工研究上の好資料である」[[c:7]]とする。広賀は「相州綱広の門人と伝え」[[c:2]]、その家は大きな系譜の中に置かれる。広賀の名は伯耆に文明頃おこり新刀期に及び、倉吉鍛冶町で作刀した道祖尾家と、天文の五郎左衛門尉にはじまり津原に住し後に倉吉と往還した見田家とに分かれる。同名数工の中で「見田五郎左衛門尉と銘するものが特に上手である」[[c:8]]とされ、伯州広賀は「若州冬広と並んで、室町末期の山陰地方鍛冶の代表工である」[[c:9]]。
説明書はその作を二様と説く。「広賀にはこのような相州風のものと、備前風のものとの二様がある」[[c:10]]とし、別の一口には末相州と末備前両派のおもむきが加味されているとする。相州の側は大互の目乱れで、腰が開き処々複式ごころとなり、丁子足・葉入り、沸強く、飛焼頻りにかかって皆焼となり、砂流しに僅かに金筋が入る。帽子は焼深く一枚風に深く返り、棟焼につづく。備前の側は穏やかで、広直刃調に互の目を交え、足・葉入り、小沸つき砂流しかかり、帽子は直ぐに丸く深く焼き下げる。
二様の下には、よくつんだ小板目に地沸細かにつく地鉄がある。一口は板目に杢交じり地景交じり白け風の映りが淡く立ち、別の一口は地斑を交じえる。説明書はこの派の地刃に一種の野趣を認め、「かな色に黒味あるものがあってそこがこの派の見どころともなっている」[[c:4]]とする。刀は鎬造、先反りつき中鋒延び、一口は鎬高く反り深く、一口は腰反り踏張りつく。天文の短刀は平造で重ね厚く身幅広くふくら枯れ、いわゆる鎧通しの姿を呈し、直刃基調に腰の喰違刃を交えてよく沸え、表に腰樋、裏に護摩箸を彫る。
その作は年紀を切り長銘である。重要刀剣の説明は年紀をほぼ天文五年から元亀三年とするが、天文二年の短刀はそれより前に立つ。刀は永禄元年・永禄四年・永禄八年の年紀を持ち、永禄八年の一口は幡州広峯住の注文主のために作られ、永く広峯神社に奉納されていたもので、茎のやや荒れはそのための手入れ不足という。本間による御物台帳に所載の永禄十一年紀の短刀は静かな側を最も推し進め、直刃に鎺元に小さなのたれを交え匂口締り、台帳は互の目を得意として皆焼もあるこの一派に「直刃の出来は珍しい」[[c:11]]とする。同台帳は初代広賀を天文中に相州鎌倉に下った綱広の門人とし、見田五郎左衛門を初代広賀の弟子で見田派の祖とする。また伯州住広賀作と銘する相州風の一口は、永禄頃の五郎左衛門尉より時代がやや遡り、銘鑑に文明とあるものに該当するであろうとされる。
説明書の比較は師よりも同時代の工に向けられる。永禄元年の刀は同作中優出とされ、「同時代の末備前派の作などに比して遜色がない」[[c:5]]、「室町時代の打刀の典型的なものとして貴重である」[[c:12]]と評される。永禄八年の刀は作風が同時代に共通し、備前清光・若州冬広・豊後統景などに近いとされる。その中で彼の刀を分かつのは、説明書の記すところ、相州の側の飛焼から皆焼への転じと、二様に通じる黒味ある野趣の地鉄である。
藤代の極めは上作、刀工大鑑は四百点とする。指定を受けた作は六口で、重要刀剣五口(特別重要刀剣に上ったものはない)と御物台帳所載の短刀一口である。古刀の研究資料には、指定品ではない在銘の薙刀一口が宇喜多秀家から前田家に伝わったと記録される。収集家が現実に出会いうるのは重要刀剣の刀であり、それも市に現れるのは時折にとどまる。
廣賀の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
脇物 · 伯耆
時期区分: 末伯耆· 1334–1600
現在4点販売中
末伯耆は、安綱を中心とする古伯耆の名工の世から時代を大きく降った、室町時代後期の伯耆鍛冶を指す。説明によれば、この後代を代表するのは広賀の名跡であって、室町時代の文明頃におこり、以後新刀期にまで続いている。その家系は道祖尾家と見田家とに分かれ、道祖尾家は文明頃から江戸期に亘って倉吉鍛冶町に作刀し、天正頃の道祖尾七郎左衛門尉守広は一派の中でも技量の優れた工とされる。見田家は天文の五郎左衛門尉広賀にはじまり、津原に住して後に倉吉と往還し、名跡は江戸前期まで栄えた。その見田五郎左衛門尉広賀は相州綱広の門人と伝え、年紀はおおむね天文から元亀に渡って、同名数代の中でもとりわけ上手とされる。広賀は若州冬広と並んで、室町末期の山陰地方鍛冶の代表工に数えられている。 作風には、古伯耆の最古層に立つ安綱の世とは隔たった、室町末期の地方鍛冶らしい性格が見える。説明は、広賀の作風を末相州・末備前などに通じるものとし、相州風には大互の目乱れに飛焼が頻りにかかって皆焼となるものが多く、備前風のものもあって二様をなすと記す。直刃調に喰違刃を交える短刀もあり、地鉄は小板目に流れ肌を交え地沸つくが、なかには一種の野趣が盛られ、鉄色に黒味あるものがあって、そこがこの派の見どころともなっている。古伯耆が直刀から湾刀への移りゆく古さの中に古雅な強さをたたえたのに対し、末伯耆では同時代の備前清光・若州冬広・豊後統景らに通う共通の作柄へと整えられ、姿も室町の打刀の典型に落ち着いている。なお守広の佳作には地刃の出来が古作の二字国俊を髣髴とさせるものもあると伝え、後代にも上工の作に紛れる一口が遺ることが知られる。 評価の上で末伯耆を古伯耆と分かつ要点は、何よりその時代と作柄にある。古伯耆が安綱・真守を双璧として湾刀初期を担うのに対し、末伯耆は文明以降の広賀一門を中心とし、その手は末相州・末備前風という室町末期に共通する作域に拠っている。主要工としては道祖尾家の守広、見田家の五郎左衛門尉広賀が挙げられ、ことに見田五郎左衛門尉広賀が最も名高い。広峯神社に奉納されて永く伝えられた一口のように、神社への奉納や注文主銘を伴う作が遺り、年紀や行年銘の明らかなものは同工研究の好資料ともなって、末伯耆の伝来と作域を今に伝えている。 詳しく見る →
室町時代
応仁の乱が足利の体制を砕いた後、戦国の一世紀はほとんどすべての国を武装させた。この時代は選ぶ目に報いる。並の作は多いが、その傍らには第一級の注文打ちが立っている。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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