伯耆国の広賀は見田五郎左衛門尉と銘し、天文二年正月の年紀を持つ短刀の棟に「六十一歳作」と行年を切った。説明書はこの年紀を「同作中最も古い年紀と目され」とし、棟に切った六十一歳の年令も「同工研究上の好資料である」とする。広賀は「相州綱広の門人と伝え」、その家は大きな系譜の中に置かれる。広賀の名は伯耆に文明頃おこり新刀期に及び、倉吉鍛冶町で作刀した道祖尾家と、天文の五郎左衛門尉にはじまり津原に住し後に倉吉と往還した見田家とに分かれる。同名数工の中で「見田五郎左衛門尉と銘するものが特に上手である」とされ、伯州広賀は「若州冬広と並んで、室町末期の山陰地方鍛冶の代表工である」。
説明書はその作を二様と説く。「広賀にはこのような相州風のものと、備前風のものとの二様がある」とし、別の一口には末相州と末備前両派のおもむきが加味されているとする。相州の側は大互の目乱れで、腰が開き処々複式ごころとなり、丁子足・葉入り、沸強く、飛焼頻りにかかって皆焼となり、砂流しに僅かに金筋が入る。帽子は焼深く一枚風に深く返り、棟焼につづく。備前の側は穏やかで、広直刃調に互の目を交え、足・葉入り、小沸つき砂流しかかり、帽子は直ぐに丸く深く焼き下げる。
二様の下には、よくつんだ小板目に地沸細かにつく地鉄がある。一口は板目に杢交じり地景交じり白け風の映りが淡く立ち、別の一口は地斑を交じえる。説明書はこの派の地刃に一種の野趣を認め、「かな色に黒味あるものがあってそこがこの派の見どころともなっている」とする。刀は鎬造、先反りつき中鋒延び、一口は鎬高く反り深く、一口は腰反り踏張りつく。天文の短刀は平造で重ね厚く身幅広くふくら枯れ、いわゆる鎧通しの姿を呈し、直刃基調に腰の喰違刃を交えてよく沸え、表に腰樋、裏に護摩箸を彫る。
その作は年紀を切り長銘である。重要刀剣の説明は年紀をほぼ天文五年から元亀三年とするが、天文二年の短刀はそれより前に立つ。刀は永禄元年・永禄四年・永禄八年の年紀を持ち、永禄八年の一口は幡州広峯住の注文主のために作られ、永く広峯神社に奉納されていたもので、茎のやや荒れはそのための手入れ不足という。本間による御物台帳に所載の永禄十一年紀の短刀は静かな側を最も推し進め、直刃に鎺元に小さなのたれを交え匂口締り、台帳は互の目を得意として皆焼もあるこの一派に「直刃の出来は珍しい」とする。同台帳は初代広賀を天文中に相州鎌倉に下った綱広の門人とし、見田五郎左衛門を初代広賀の弟子で見田派の祖とする。また伯州住広賀作と銘する相州風の一口は、永禄頃の五郎左衛門尉より時代がやや遡り、銘鑑に文明とあるものに該当するであろうとされる。
説明書の比較は師よりも同時代の工に向けられる。永禄元年の刀は同作中優出とされ、「同時代の末備前派の作などに比して遜色がない」、「室町時代の打刀の典型的なものとして貴重である」と評される。永禄八年の刀は作風が同時代に共通し、備前清光・若州冬広・豊後統景などに近いとされる。その中で彼の刀を分かつのは、説明書の記すところ、相州の側の飛焼から皆焼への転じと、二様に通じる黒味ある野趣の地鉄である。
藤代の極めは上作、刀工大鑑は四百点とする。指定を受けた作は六口で、重要刀剣五口(特別重要刀剣に上ったものはない)と御物台帳所載の短刀一口である。古刀の研究資料には、指定品ではない在銘の薙刀一口が宇喜多秀家から前田家に伝わったと記録される。収集家が現実に出会いうるのは重要刀剣の刀であり、それも市に現れるのは時折にとどまる。