1800年前後、水心子正秀は著述をもって、鍛刀は古作の法に立ち返るべしと説いた。復古刀の運動である。最大の後継者直胤は、数百年絶えていた備前伝と相州伝を確信をもって再現した。
刃渡り(長さ) 39.8センチ 反り 0.6センチ 元鎬厚 6.0ミリ 元重ね5.4ミリ 先鎬厚 4.7ミリ 先重ね4.3ミリ 元幅 27.7ミリ 先幅 20.9ミリ 刀身重量321g ハバキ 金着せ 目釘穴 二個(内一個埋め) 鑢目 筋違勝手下がり 刃文 互の目乱れ 飛び焼き交り匂口深く焼く 沸出来 地沸付く 葉、足入り、湯走り、稲妻、砂流し働く 帽子 砂流し働き丸く返る 鍛え 柾目地鉄詰み良く錬られる 寸法、グラムは約でご理解ください。刃渡り・反りなど登録書を映しております。 銘文 水心子正秀 天明三年七月日 水心子正秀の評価額 750万円 説明 ↓ここに画像が表示されます。(通信環境により数十秒ほどかかる場合もございます。) 1/3 ↓ここに画像が表示されます。(通信環境により数十秒ほどかかる場合もございます。) 2/3 ↓ここに画像が表示されます。(通信環境により数十秒ほどかかる場合もございます。) 3/3 委託販売 水心子正秀 (初代) 新々刀大御所 江戸三作の名刀工 天明三年七月日の裏年期から初代水心子正秀、四十二歳の作と見受けられる。 水心子正秀について 初代水心子正秀は新々刀の開祖とも言うべき江戸時代後期を代表する刀匠で、寛延三年に出羽国置賜郡賜郷元中山(山形県南陽市元中山)に生まれ名を川部儀八郎という。幼名は三治郎。 山形城下にて名を英国と改める。少年期に野鍛冶に学ぶ説や仙台國包に学んだとされる諸説あり。 その後藩士の紹介で武州川越の宮川吉英に入門する。 安永三年、山形城主である秋元永朝に召し抱えられ、名を儀八郎正秀と改める。 後に水心子という号も使用する。 天明以降は江戸にのぼり日本橋浜町の秋元家中屋敷に住み、 備前伝を石堂是一、相州伝を綱広に学び、さらに駿州島田に義助の子孫を訪ね、相州正宗相伝の系図や鍛法の秘書を譲り受け、他、備前の助平・吉平・一文字・国宗などの伝書も入手したともいわれ作刀研究に尽力したことがうかがえる。 古刀を目指す復古刀を提唱、研究し実用的な刀剣の製作を行い、出羽の大慶直胤、下野の細川正義をはじめとする全国から集った百人以上ともいわれる多数の門弟を育成する。 文政二年に天秀と改名、文政八年に七十六歳没。 特別保存刀剣 協会にて在籍確認、登録証も教育委員会にて在籍確認済 共に在籍、記載内容に相違ございません。 多くの文献に名を見せる著名刀工であり、刀剣研究の入門段階でまず触れるほどの代表的な刀です。 証書付き、誰も知る有名な刀を所有したいという方におすすめする一振りです。 日本刀は日本の有形文化財であり、私たちが後世に残すべき大切な文化財です。 次の主が見つかるまでの間、一時的に弊社にてお預かりし、お世話をさせていただいております。 刀剣のお買取り、下取販売、仲介 も承っております。 商品の状態 *刃切れ・刃絡み・刃こぼれ・曲がり・撓え・膨れ・匂い切れ・駆け出しございません。 *時代による、汚れ、細かな擦れ傷,劣化等はご了承ください。写真を参考にしてください。




新々刀 · Rikuzen · 1781-1789頃
藤代 Jo-jo saku
現在3点販売中
新々刀 · 武蔵
現在78点販売中
水心子正秀派は、十八世紀末から十九世紀初頭の江戸に興り、刀はすべて鎌倉の昔に復すべしとする復古刀運動を中核に据えた新々刀の一門である。開祖水心子正秀は、寛延三年に出羽国赤湯に川部儀八郎として生まれ[[c:1]]、武州下原の鍛冶吉英に学んだのち山形秋元家に仕え、のちに江戸浜町に移って約五十年に及ぶ作刀生活を送り、文政八年に七十六歳で歿した。彼は新々刀の祖と称され、古作の伝法を意図して甦らせることを唱えてその理論を世に広めたが、説明書は正秀自身の才のありかをむしろ壮年までの大坂写しに見いだす。この一門の物語で最も重きをなすのは、彼が江戸に糾合し育てた門人たちであろう。復古刀論を実地に示した第一の門人大慶直胤、二代正義細川守秀がその直下に立ち、さらに直胤の門から養子となった次郎太郎直勝、直胤の女婿と伝える水心子正次、正義の嫡子正守、米沢上杉家に仕えた長運斎綱俊、水戸藩工直江助政が連なって、出羽・江戸を中心に各藩へと広がった。 この一門を貫く共通の語法は、古刀各伝の意図的な復興にある。よく約んだ無地風に近い小板目に地沸を厚くつけ、その地の上に相州伝ののたれ・互の目、あるいは備前伝の丁子・互の目を焼くのが基調で、技術論的かつ教導的な性格がこれを支える。正秀の典型は津田助広に私淑した大坂写しの濤瀾乱れと井上真改風の広直刃にあり、地へこぼれる黒味がちの荒い沸が終始の手癖をなした。これに対して門人たちは古備前への遡りをいっそう深め、新々刀には本来失われた映りを意図して甦らせた。直胤はよくつんだ小板目に乱れ映りを鮮明に立て、後期長船の逆がかりを示す丁子乱れを焼いてこれを得意とし、説明書はその丁子乱れの巧みさを新々刀第一と評する。直勝は兼光に範をとった片落ち互の目を主体に、直胤よりも豪壮な姿と低く静かな焼きで古調を醸し、正次と正守はともに直胤・正義の二伝を忠実に承けて相州伝と備前伝を均しく再現し、綱俊は丁子に互の目を交えた備前伝を主調とした。一方で正秀みずからの備前伝・相州伝は終始焼刃が浅く荒い沸を交え、説明書はその技が門人直胤に及ばないと明記する。差異は資料の支持する範囲で明瞭で、直胤の備前・相州の両伝、直勝の長船写しに見る逆がかりと大杢目、助政の真改風直刃に偏した作域がそれぞれを分かつ。 鑑定の勘所は、まずこの意図的な映りと逆がかりに置かれる。明るい乱れ映りと角互の目を伴う逆がかりの丁子は、映りも逆がかりも持たぬ一般の新々刀から備前伝を分かち、相州伝は独特の渦巻肌と叢づき縞がかる沸の働きによって示される。位列としては正秀を上々作、直胤を最上作の在銘の大名跡とし、正義に次ぐ正守、綱俊、助政らがこれに続く。この一門は在銘・有年紀の作を数多く遺したため、その鑑定の問題は極めの難ではなくむしろ系統内の位置にあり、年ごとに変化する銘がその発展を正確に辿らせる。伝来は真田家伝来の大小や皇室に伝わった御太刀の副作、各藩工としての藩命作にうかがわれ、正秀が向き直らせた江戸の作刀は直胤を介して直勝・正次らへ受け継がれ、兼光・景光をねらった長船復古として幕末の十九世紀作刀に広く及んだ。 詳しく見る →
新々刀 復古の運動
1800年前後、水心子正秀は著述をもって、鍛刀は古作の法に立ち返るべしと説いた。復古刀の運動である。最大の後継者直胤は、数百年絶えていた備前伝と相州伝を確信をもって再現した。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト刃渡り(長さ) 39.8センチ 反り 0.6センチ 元鎬厚 6.0ミリ 元重ね5.4ミリ 先鎬厚 4.7ミリ 先重ね4.3ミリ 元幅 27.7ミリ 先幅 20.9ミリ 刀身重量321g ハバキ 金着せ 目釘穴 二個(内一個埋め) 鑢目 筋違勝手下がり 刃文 互の目乱れ 飛び焼き交り匂口深く焼く 沸出来 地沸付く 葉、足入り、湯走り、稲妻、砂流し働く 帽子 砂流し働き丸く返る 鍛え 柾目地鉄詰み良く錬られる 寸法、グラムは約でご理解ください。刃渡り・反りなど登録書を映しております。 銘文 水心子正秀 天明三年七月日 水心子正秀の評価額 750万円 説明 ↓ここに画像が表示されます。(通信環境により数十秒ほどかかる場合もございます。) 1/3 ↓ここに画像が表示されます。(通信環境により数十秒ほどかかる場合もございます。) 2/3 ↓ここに画像が表示されます。(通信環境により数十秒ほどかかる場合もございます。) 3/3 委託販売 水心子正秀 (初代) 新々刀大御所 江戸三作の名刀工 天明三年七月日の裏年期から初代水心子正秀、四十二歳の作と見受けられる。 水心子正秀について 初代水心子正秀は新々刀の開祖とも言うべき江戸時代後期を代表する刀匠で、寛延三年に出羽国置賜郡賜郷元中山(山形県南陽市元中山)に生まれ名を川部儀八郎という。幼名は三治郎。 山形城下にて名を英国と改める。少年期に野鍛冶に学ぶ説や仙台國包に学んだとされる諸説あり。 その後藩士の紹介で武州川越の宮川吉英に入門する。 安永三年、山形城主である秋元永朝に召し抱えられ、名を儀八郎正秀と改める。 後に水心子という号も使用する。 天明以降は江戸にのぼり日本橋浜町の秋元家中屋敷に住み、 備前伝を石堂是一、相州伝を綱広に学び、さらに駿州島田に義助の子孫を訪ね、相州正宗相伝の系図や鍛法の秘書を譲り受け、他、備前の助平・吉平・一文字・国宗などの伝書も入手したともいわれ作刀研究に尽力したことがうかがえる。 古刀を目指す復古刀を提唱、研究し実用的な刀剣の製作を行い、出羽の大慶直胤、下野の細川正義をはじめとする全国から集った百人以上ともいわれる多数の門弟を育成する。 文政二年に天秀と改名、文政八年に七十六歳没。 特別保存刀剣 協会にて在籍確認、登録証も教育委員会にて在籍確認済 共に在籍、記載内容に相違ございません。 多くの文献に名を見せる著名刀工であり、刀剣研究の入門段階でまず触れるほどの代表的な刀です。 証書付き、誰も知る有名な刀を所有したいという方におすすめする一振りです。 日本刀は日本の有形文化財であり、私たちが後世に残すべき大切な文化財です。 次の主が見つかるまでの間、一時的に弊社にてお預かりし、お世話をさせていただいております。 刀剣のお買取り、下取販売、仲介 も承っております。 商品の状態 *刃切れ・刃絡み・刃こぼれ・曲がり・撓え・膨れ・匂い切れ・駆け出しございません。 *時代による、汚れ、細かな擦れ傷,劣化等はご了承ください。写真を参考にしてください。




新々刀 · Rikuzen · 1781-1789頃
藤代 Jo-jo saku
現在3点販売中
新々刀 · 武蔵
現在78点販売中
水心子正秀派は、十八世紀末から十九世紀初頭の江戸に興り、刀はすべて鎌倉の昔に復すべしとする復古刀運動を中核に据えた新々刀の一門である。開祖水心子正秀は、寛延三年に出羽国赤湯に川部儀八郎として生まれ[[c:1]]、武州下原の鍛冶吉英に学んだのち山形秋元家に仕え、のちに江戸浜町に移って約五十年に及ぶ作刀生活を送り、文政八年に七十六歳で歿した。彼は新々刀の祖と称され、古作の伝法を意図して甦らせることを唱えてその理論を世に広めたが、説明書は正秀自身の才のありかをむしろ壮年までの大坂写しに見いだす。この一門の物語で最も重きをなすのは、彼が江戸に糾合し育てた門人たちであろう。復古刀論を実地に示した第一の門人大慶直胤、二代正義細川守秀がその直下に立ち、さらに直胤の門から養子となった次郎太郎直勝、直胤の女婿と伝える水心子正次、正義の嫡子正守、米沢上杉家に仕えた長運斎綱俊、水戸藩工直江助政が連なって、出羽・江戸を中心に各藩へと広がった。 この一門を貫く共通の語法は、古刀各伝の意図的な復興にある。よく約んだ無地風に近い小板目に地沸を厚くつけ、その地の上に相州伝ののたれ・互の目、あるいは備前伝の丁子・互の目を焼くのが基調で、技術論的かつ教導的な性格がこれを支える。正秀の典型は津田助広に私淑した大坂写しの濤瀾乱れと井上真改風の広直刃にあり、地へこぼれる黒味がちの荒い沸が終始の手癖をなした。これに対して門人たちは古備前への遡りをいっそう深め、新々刀には本来失われた映りを意図して甦らせた。直胤はよくつんだ小板目に乱れ映りを鮮明に立て、後期長船の逆がかりを示す丁子乱れを焼いてこれを得意とし、説明書はその丁子乱れの巧みさを新々刀第一と評する。直勝は兼光に範をとった片落ち互の目を主体に、直胤よりも豪壮な姿と低く静かな焼きで古調を醸し、正次と正守はともに直胤・正義の二伝を忠実に承けて相州伝と備前伝を均しく再現し、綱俊は丁子に互の目を交えた備前伝を主調とした。一方で正秀みずからの備前伝・相州伝は終始焼刃が浅く荒い沸を交え、説明書はその技が門人直胤に及ばないと明記する。差異は資料の支持する範囲で明瞭で、直胤の備前・相州の両伝、直勝の長船写しに見る逆がかりと大杢目、助政の真改風直刃に偏した作域がそれぞれを分かつ。 鑑定の勘所は、まずこの意図的な映りと逆がかりに置かれる。明るい乱れ映りと角互の目を伴う逆がかりの丁子は、映りも逆がかりも持たぬ一般の新々刀から備前伝を分かち、相州伝は独特の渦巻肌と叢づき縞がかる沸の働きによって示される。位列としては正秀を上々作、直胤を最上作の在銘の大名跡とし、正義に次ぐ正守、綱俊、助政らがこれに続く。この一門は在銘・有年紀の作を数多く遺したため、その鑑定の問題は極めの難ではなくむしろ系統内の位置にあり、年ごとに変化する銘がその発展を正確に辿らせる。伝来は真田家伝来の大小や皇室に伝わった御太刀の副作、各藩工としての藩命作にうかがわれ、正秀が向き直らせた江戸の作刀は直胤を介して直勝・正次らへ受け継がれ、兼光・景光をねらった長船復古として幕末の十九世紀作刀に広く及んだ。 詳しく見る →
新々刀 復古の運動
1800年前後、水心子正秀は著述をもって、鍛刀は古作の法に立ち返るべしと説いた。復古刀の運動である。最大の後継者直胤は、数百年絶えていた備前伝と相州伝を確信をもって再現した。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト