肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
刃長71.0センチ 反り1.97センチ 元幅33.3ミリ 元重ね7.6ミリ 物打幅26.5ミリ 物打重ね5.8ミリ 横手位置幅23.3ミリ 松葉先重ね4.6ミリ 裸身重量858グラム。 拵に納めて鞘を払った重量1,132グラム。 江戸前期延宝頃(1673~) The early period of Edo era 昭和28年8月10日 福井県登録 附属 特別保存刀剣鑑定書、甲種特別貴重刀剣認定書、宣徳地銀着はばき、黒石目塗鞘打刀拵、白鞘、継木 備中大掾正永は、二代河内守正廣の長男として生まれ、俗名を伝兵衛、初銘を「廣永」と称しました。 寛文5年、初代河内大掾正廣が没したため、二代正廣が上洛し、「武蔵守」から「河内守」に転じ、名を「正永」から「正廣」に改めました。正永も父と共に上洛し「備中大掾」に任じられ、元禄12年、二代正廣が没し、肥前正廣家三代目と家督を相続。それに伴って「河内守」に転任し、「正廣」を襲名する必要があったため、元禄14年に受領願いを佐賀藩庁に提出するも、その許否は明らかとならぬうちに、3年後の宝永元年に60歳で没しました。そのため正永は正廣とは称さず、終生「正永」と称したと言われます。尚、二代正廣、五代正廣も同様に初銘を「正永」と称しましたが、他の各代と違い、本工正永は終生「正廣」と銘切ることは無かったと言われます。 また、正永の自身銘の作品は決して多くなく、それはその殆どを二代正廣の代作代銘に従事したためと考えられます。実際に彼が肥前正廣家の当主として在任したのは僅かに5年のみでした。 正永の作風は、初・二代正廣と同じく迫力ある互の目乱れを最も得意としましたが、直刃を焼かせても上手です。 この刀は、元先の幅差頃好く開き、切先延び、地鉄は小板目が詰んで地沸微塵に厚く付き、地景細かによく入った精美な鍛えに、匂口明るく冴えた直刃を焼き上げ、刃縁に細かな砂流ごころの刃や金筋、稲妻を交え、互ノ目足入り、処々に節を見せ、鋩子は表裏共に直ぐに先丸く上品に返っており、肥前刀の代名詞である直刃を持ち合わす技量を遺憾なく発揮して鍛え上げた名作です。 附属の拵は柄にガタツキ無くしっかりとしており、鐔も殆ど鐔鳴りしません。鞘を払って構えてみると、手元重心でバランスが良く、美的面だけでなく、実用面もしっかりと考慮されて鍛えられた一刀であることが窺えます。 現在、正永の作品は乱れ出来の一振が重要刀剣指定を受けています。今後直刃出来の物が重要刀剣指定されるなら、本刀が最有力候補になることでしょう。
Certificate reading — 銘 肥前國備中大掾藤原正永



















新刀 · 肥前 · 1661-1673頃
藤代 上作 · 刀剣大鑑 上位60%
現在1点販売中
正永の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 肥前
現在103点販売中
肥前派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。 詳しく見る →
肥前 藩営の刀
肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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