肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
特別保存刀剣鑑定書付 肥前国備中大掾藤原正永 刀 【解説】 本作は「肥前国備中大掾藤原正永」と銘のある一振りです。 正永は二代河内守正広の長男として生まれ、幼名を伝兵衛と称しました。初期には「廣永」と銘じています。 寛文5年(1665年)、初代河内大掾正広が没すると、正永の父(二代正広)は上京して武蔵守から河内守へと受領名を改め、同時に名を正永から正広へと改名しました。正永も父に同行して上京し、この折に「備中大掾」を拝命しています。 元禄12年(1699年)に二代正広が没した後、正永は肥前正広家の三代当主を継承しました。元禄14年(1701年)には家名の「正広」を継ぐべく、佐賀藩を通じて河内守の受領を申請しましたが、その許可を待たずして宝永元年(1704年)、六十歳で没しました。そのため、正永は生涯「正広」を名乗ることなく、終生「正永」の銘を切り続けたと伝えられています。 また、正永自らの銘を切った作品は比較的少ないことで知られています。これは、彼が作刀期間の多くを二代正広の代作(代わって鍛錬すること)に費やし、父の銘を刻んだ刀を数多く打っていたためと考えられます。実際に彼が正広家の当主として活動したのは、晩年のわずか5年ほどでした。 江戸時代、鍋島藩が治める肥前国は海外貿易によって繁栄しました。肥前の刀工たちは輸入された南蛮鉄を鍛錬に取り入れ、独自の革新的な技法を確立しました。この地理的優位性と高品質な素材により、肥前刀は「肥前肌」と称される非常に美しく精緻な地鉄を完成させ、その名は全国に轟きました。 本作は日本美術刀剣保存協会(NBTHK)により「特別保存刀剣」に鑑定されています。これは保存状態が極めて良く、かつ芸術的価値の高い真作の日本刀にのみ与えられる格付けです。 ※刀身にわずかな鍛え傷がございます。詳細なコンディションについては、お気軽にお問い合わせください。 【刀身】 長さ(Nagasa):67.7 cm 反り(Sori):1.6 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃先に現れる結晶構造。 地文(Jihada):鍛錬の過程で現れる鋼の表面模様。 切先(Kissaki):刀身の先端部分。 茎(Nakago):柄に収まる中心(なかご)部分。 日本の刀工は、柄内部の赤錆を防ぐために茎に黒錆を残しました。この茎の錆色は時の経過とともに形成されるもので、専門家が制作年代を推定する際の重要な指標となります。 【拵】 拵(Koshirae):鞘、柄、鍔などから構成される外装。 縁頭(Fuchi-Kashira):柄の両端に取り付けられる一対の金具。 柄・目貫(Tsuka / Menuki):柄は刀の持ち手、目貫はその装飾です。 本作の目貫は、羽と「柿」を題材にしていると思われます。 日本では古来より柿の木は多用途に重宝され、「神の果実」とも考えられてきました。江戸時代には特定の柿が幕府や朝廷への献上品とされるなど、その独特の風味と美しい色彩は、日本人の生活や文化に深く根付いています。
























新刀 · 肥前 · 1661-1673頃
藤代 上作 · 刀剣大鑑 上位60%
現在1点販売中
正永の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 肥前
現在103点販売中
肥前派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。 詳しく見る →
肥前 藩営の刀
肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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