銘:無銘(国友) 長さ:45.4cm(1尺5寸0分) 反り:0.8cm 元幅:33.6mm 先幅:26.4mm 元重:6.4mm 先重:5.1mm 刀身重量:514g 海外送料:65ドル 日本から刀剣を輸出する際、文化庁の輸出監査(輸出抹消)手続きに約25日から60日ほどの日数を要します。繁忙期にはそれ以上の期間がかかる場合もございますので、予めご了承ください。 刀剣の発送に関する注意事項、および利用規約、返金ポリシーについては以下をご確認ください。















Horikawa (Yamashiro / Kyoto) · 山城 · 1596-1615頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位11%
現在3点販売中
越後守藤原国儔は日州飫肥に生まれ、堀川国広に随って上洛し、京の一条堀河に住して、慶長・寛永の頃に活躍した。説明書は彼を国広の弟子、一説に甥といい、同門の末弟子とするが、その位置はむしろ門人から復元される。年紀のある作は一つもなく、江戸期以来の刀剣書も生国と住所以上をほとんど伝えない。鑑者が確かめるのは一門の中での彼の血脈である。初代和泉守国貞・初代河内守国助の初期作と銘振りが本工に酷似することから、説明書は「彼らの直接的な指導は、国儔が行ったことは明らかである」[[c:1]]と結ぶ。すなわち国儔は堀川一門の要であり、やがて大坂新刀の伝統が降る二工を教えた人である。
本工の典型は、その一門の中ではむしろ例外である。堀川物の多くが相州上工の志津・貞宗に範をとる中、国儔はかえって末関に向かう。のたれを基調として頭の丸い互の目・尖り刃・小のたれを交え、匂口は明るく開かず締って沈み、沸は時に荒くつき、砂流しかかり、金筋長く入る。説明書はこれを国儔の見どころと名指す。曰く「一見末関、就中兼之などの出来口を思わせる作風を示すのが国儔の特色である」[[c:2]]。帽子も同じ静かな理に従い、浅くのたれて小丸となり、掃きかけて深く返る。
地鉄には二様があり、鑑者はこれを慎重に分かつ。一つは一派に通じる肌立ちザングリと枯れた板目で、杢・流れ肌を交え、地沸つき地景入る。いま一つは小板目のよくつんだ地で、堀川物としては綺麗で美しい。沈んだ匂口は両様に通じる常であり、その分これを外れた作はかえって特筆される。説明書はある重要刀剣について、常の沈みごころに対し「匂口が明るい点が特筆される」[[c:3]]と記す。脇指では美濃色がいっそう濃く、平造・冠落造に素剣・護摩箸を腰元に彫ったものが多い。
この一つの手のうちに、説明書は二つの相を読む。典型は右の末関風で、これは片手打風の短い茎と先反りまで室町末期の打刀の姿を写した特別重要刀剣の一口に最も明瞭にあらわれ、鑑者はそこから「国儔の理想が兼芝にあったであろうことが大いに想像される」[[c:4]]と推す。これに対し、よりつんだ小板目に広直刃を基調とした穏やかで格調高い相があり、師国広に近づく。この種の特別重要刀剣の一口を説明書は同作中の傑作とし、地刃ともに健全と評する。銘もまた鑑定の見どころである。常に同じ七字を切り、説明書の言う通り「必ず七字に切り、年紀作を見ない」[[c:5]]。鏨はややゆがみ、下に行くに従って大きくなる。
国儔を同門の諸工から分かつのは、相州写しの精緻さではなく、彼一人が担った美濃の一脈と、鏨の精緻さである。説明書は一門の中で「一派の中では最も鏨細である」[[c:6]]とし、同じく国広の代作を務めた大隅守正弘がまま茎を長く切るのに対し、国儔には「茎の長さがややつまったものがある」[[c:7]]とする。これは働く鑑者の手がかりである。穏やかな広直刃の作は地の綺麗さによって一派から分かたれ、沈んだ美濃がかった作は、いかなる志津写しも示さぬ頭の丸い互の目と締った匂口によって分かたれる。
収集の観点では、国儔は確かな、しかし市に出ることの稀な名である。藤代の極めは上々作。国宝はなく重要文化財もない。その記録は現代の指定級を通じ、特別重要刀剣の刀三口と二十三口ほどの重要刀剣、そして京の岸本貫之助が蔵した戦前の重要美術品の太刀から成る。作は永く私蔵に伝わり、その中に池田大名家があって、一口の特別重要刀剣がここに降る。在銘作は多くなく、指定を受けた作が市に出ることは稀で、就中その上手は伝えられて取引されることが少ない。ひとたび世に出れば、それは堀川一門の要を語る一証であり、国広と大坂新刀の祖たちとの間に立った静かな師の作である。
國儔の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 山城
現在64点販売中
堀川派は、山城国京都の一条堀川を本拠として、十六世紀末から十七世紀初頭にかけて成立した新刀期の一門である。祖の堀川国広はもと日向飫肥の城主伊東家に仕えた武士で、主家没落の後は諸国を遍歴して鍛刀の技を磨き、足利学校打や美濃大道との合作などにその足跡を銘文へ残した。慶長四年(一五九九)以後は京一条堀川に定住し、多くの俊秀を糾合してこれを育てた。その門からは出羽大掾国路、和泉守国貞(親国貞)、河内守国助、越後守国儔、大隅掾正弘、堀川国安らが輩出する。国広以前の関や末相州の作風を経て、定住後の一門は相州伝、就中、志津や貞宗、左文字の復興を共通の理想に掲げた。慶長新刀の姿に南北朝期の大太刀を磨上げた趣を写し、明寿と並んで新刀の創始を称えられる祖を戴いて、この派は京の鍛冶を改めた起点に立つ。 一門の作風は、地鉄にまず標識を持つ。板目に杢や大板目を交えて肌立つ、いわゆる「ザングリとした」枯れた肌合を呈し、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入る。区際より斜めに立つ水影は国広自身の手癖で、正弘や国安、国正にも伝わる。刃は浅いのたれを基調に互の目や尖り刃を交えて沸厚く、金筋や砂流しがかかり、処々に湯走りや飛焼を見せ、匂口が沈みごころとなるのが一派に通じる癖である。刃区を深く焼き込む態も国広に始まり門弟へ及ぶ。この共通の地刃の上に、各工は己の差を置く。国路は肌立ちザングリと枯れた地に厚く荒い沸の志津写しを焼き、浅くのたれ込んで先の尖る三品帽子を見せて、一門中随一の器用人と称された。国安は受領銘を用いず必ず二字に切り、左利きゆえに逆筋違の鑢目を切る唯一の工で、その手は最も祖に近い。正弘は大乱れを焼かず、焼を低く刃取りを抑えて目立つ杢を交え、作風も銘字の藤原の二字に至るまで祖に酷似する。国儔はかえって末関に向かい、頭の丸い互の目と締った匂口に兼之を思わせる美濃の一脈を担った。弘幸は一門ただ一人切り鑢を用い、黒みをおびた鉄に古作大和を想わせる直刃を本領とした。 蒐集家が堀川派を求める理由は、鑑定の勘所と、祖と高弟の格にある。在銘作を主体とし、慶長打は太鏨肩落の大振り二字銘や、日州古屋住から洛陽一条堀川住に至る受領銘を交えるため、銘そのものが工と時を定める手懸りとなる。国広の刀は、ザングリの地、斜めの水影、沈む匂口という手癖を写し物の中にすら宿し、相州伝復興の理想を最も高く体現する。高弟もまた、それぞれの極めの言うところで分かたれる。国路の三品帽子と長い金筋、国安の二字銘と逆鑢、正弘の抑えた焼と目立つ杢、国儔の頭の丸い互の目、弘幸の切り鑢と黒い鉄は、いずれも対手から借りた特徴ではなく己の地刃から引かれた標識である。代表作には伝後水尾天皇御寄進の拵を具して幡枝八幡宮に伝わる奉納太刀があり、伝来は日向伊東家、岡山藩家老伊木家、土佐山内家、大島津家、豊臣秀頼、皇室に及ぶ。最晩年の国広作は弟子の代作代銘と読まれるが、師の監督は厳重で偽物とは全く異なる。そして親国貞と河内守国助は国儔に学んで大坂へ下り、大坂新刀の草創に立った。国貞の嗣は井上真改として、その名を一層名高い世代へと継ぐ。京の堀川に始まった相州伝復興の手は、かくして後世の新刀へと流れていった。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
Swords are non-returnable (blades cannot be re-imported to Japan). Insured shipping; damage/loss claims reported within 5 days of receipt. Cancellation fee 10% before shipment; not possible after shipment.
銘:無銘(国友) 長さ:45.4cm(1尺5寸0分) 反り:0.8cm 元幅:33.6mm 先幅:26.4mm 元重:6.4mm 先重:5.1mm 刀身重量:514g 海外送料:65ドル 日本から刀剣を輸出する際、文化庁の輸出監査(輸出抹消)手続きに約25日から60日ほどの日数を要します。繁忙期にはそれ以上の期間がかかる場合もございますので、予めご了承ください。 刀剣の発送に関する注意事項、および利用規約、返金ポリシーについては以下をご確認ください。















Horikawa (Yamashiro / Kyoto) · 山城 · 1596-1615頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位11%
現在3点販売中
越後守藤原国儔は日州飫肥に生まれ、堀川国広に随って上洛し、京の一条堀河に住して、慶長・寛永の頃に活躍した。説明書は彼を国広の弟子、一説に甥といい、同門の末弟子とするが、その位置はむしろ門人から復元される。年紀のある作は一つもなく、江戸期以来の刀剣書も生国と住所以上をほとんど伝えない。鑑者が確かめるのは一門の中での彼の血脈である。初代和泉守国貞・初代河内守国助の初期作と銘振りが本工に酷似することから、説明書は「彼らの直接的な指導は、国儔が行ったことは明らかである」[[c:1]]と結ぶ。すなわち国儔は堀川一門の要であり、やがて大坂新刀の伝統が降る二工を教えた人である。
本工の典型は、その一門の中ではむしろ例外である。堀川物の多くが相州上工の志津・貞宗に範をとる中、国儔はかえって末関に向かう。のたれを基調として頭の丸い互の目・尖り刃・小のたれを交え、匂口は明るく開かず締って沈み、沸は時に荒くつき、砂流しかかり、金筋長く入る。説明書はこれを国儔の見どころと名指す。曰く「一見末関、就中兼之などの出来口を思わせる作風を示すのが国儔の特色である」[[c:2]]。帽子も同じ静かな理に従い、浅くのたれて小丸となり、掃きかけて深く返る。
地鉄には二様があり、鑑者はこれを慎重に分かつ。一つは一派に通じる肌立ちザングリと枯れた板目で、杢・流れ肌を交え、地沸つき地景入る。いま一つは小板目のよくつんだ地で、堀川物としては綺麗で美しい。沈んだ匂口は両様に通じる常であり、その分これを外れた作はかえって特筆される。説明書はある重要刀剣について、常の沈みごころに対し「匂口が明るい点が特筆される」[[c:3]]と記す。脇指では美濃色がいっそう濃く、平造・冠落造に素剣・護摩箸を腰元に彫ったものが多い。
この一つの手のうちに、説明書は二つの相を読む。典型は右の末関風で、これは片手打風の短い茎と先反りまで室町末期の打刀の姿を写した特別重要刀剣の一口に最も明瞭にあらわれ、鑑者はそこから「国儔の理想が兼芝にあったであろうことが大いに想像される」[[c:4]]と推す。これに対し、よりつんだ小板目に広直刃を基調とした穏やかで格調高い相があり、師国広に近づく。この種の特別重要刀剣の一口を説明書は同作中の傑作とし、地刃ともに健全と評する。銘もまた鑑定の見どころである。常に同じ七字を切り、説明書の言う通り「必ず七字に切り、年紀作を見ない」[[c:5]]。鏨はややゆがみ、下に行くに従って大きくなる。
国儔を同門の諸工から分かつのは、相州写しの精緻さではなく、彼一人が担った美濃の一脈と、鏨の精緻さである。説明書は一門の中で「一派の中では最も鏨細である」[[c:6]]とし、同じく国広の代作を務めた大隅守正弘がまま茎を長く切るのに対し、国儔には「茎の長さがややつまったものがある」[[c:7]]とする。これは働く鑑者の手がかりである。穏やかな広直刃の作は地の綺麗さによって一派から分かたれ、沈んだ美濃がかった作は、いかなる志津写しも示さぬ頭の丸い互の目と締った匂口によって分かたれる。
収集の観点では、国儔は確かな、しかし市に出ることの稀な名である。藤代の極めは上々作。国宝はなく重要文化財もない。その記録は現代の指定級を通じ、特別重要刀剣の刀三口と二十三口ほどの重要刀剣、そして京の岸本貫之助が蔵した戦前の重要美術品の太刀から成る。作は永く私蔵に伝わり、その中に池田大名家があって、一口の特別重要刀剣がここに降る。在銘作は多くなく、指定を受けた作が市に出ることは稀で、就中その上手は伝えられて取引されることが少ない。ひとたび世に出れば、それは堀川一門の要を語る一証であり、国広と大坂新刀の祖たちとの間に立った静かな師の作である。
國儔の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 山城
現在64点販売中
堀川派は、山城国京都の一条堀川を本拠として、十六世紀末から十七世紀初頭にかけて成立した新刀期の一門である。祖の堀川国広はもと日向飫肥の城主伊東家に仕えた武士で、主家没落の後は諸国を遍歴して鍛刀の技を磨き、足利学校打や美濃大道との合作などにその足跡を銘文へ残した。慶長四年(一五九九)以後は京一条堀川に定住し、多くの俊秀を糾合してこれを育てた。その門からは出羽大掾国路、和泉守国貞(親国貞)、河内守国助、越後守国儔、大隅掾正弘、堀川国安らが輩出する。国広以前の関や末相州の作風を経て、定住後の一門は相州伝、就中、志津や貞宗、左文字の復興を共通の理想に掲げた。慶長新刀の姿に南北朝期の大太刀を磨上げた趣を写し、明寿と並んで新刀の創始を称えられる祖を戴いて、この派は京の鍛冶を改めた起点に立つ。 一門の作風は、地鉄にまず標識を持つ。板目に杢や大板目を交えて肌立つ、いわゆる「ザングリとした」枯れた肌合を呈し、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入る。区際より斜めに立つ水影は国広自身の手癖で、正弘や国安、国正にも伝わる。刃は浅いのたれを基調に互の目や尖り刃を交えて沸厚く、金筋や砂流しがかかり、処々に湯走りや飛焼を見せ、匂口が沈みごころとなるのが一派に通じる癖である。刃区を深く焼き込む態も国広に始まり門弟へ及ぶ。この共通の地刃の上に、各工は己の差を置く。国路は肌立ちザングリと枯れた地に厚く荒い沸の志津写しを焼き、浅くのたれ込んで先の尖る三品帽子を見せて、一門中随一の器用人と称された。国安は受領銘を用いず必ず二字に切り、左利きゆえに逆筋違の鑢目を切る唯一の工で、その手は最も祖に近い。正弘は大乱れを焼かず、焼を低く刃取りを抑えて目立つ杢を交え、作風も銘字の藤原の二字に至るまで祖に酷似する。国儔はかえって末関に向かい、頭の丸い互の目と締った匂口に兼之を思わせる美濃の一脈を担った。弘幸は一門ただ一人切り鑢を用い、黒みをおびた鉄に古作大和を想わせる直刃を本領とした。 蒐集家が堀川派を求める理由は、鑑定の勘所と、祖と高弟の格にある。在銘作を主体とし、慶長打は太鏨肩落の大振り二字銘や、日州古屋住から洛陽一条堀川住に至る受領銘を交えるため、銘そのものが工と時を定める手懸りとなる。国広の刀は、ザングリの地、斜めの水影、沈む匂口という手癖を写し物の中にすら宿し、相州伝復興の理想を最も高く体現する。高弟もまた、それぞれの極めの言うところで分かたれる。国路の三品帽子と長い金筋、国安の二字銘と逆鑢、正弘の抑えた焼と目立つ杢、国儔の頭の丸い互の目、弘幸の切り鑢と黒い鉄は、いずれも対手から借りた特徴ではなく己の地刃から引かれた標識である。代表作には伝後水尾天皇御寄進の拵を具して幡枝八幡宮に伝わる奉納太刀があり、伝来は日向伊東家、岡山藩家老伊木家、土佐山内家、大島津家、豊臣秀頼、皇室に及ぶ。最晩年の国広作は弟子の代作代銘と読まれるが、師の監督は厳重で偽物とは全く異なる。そして親国貞と河内守国助は国儔に学んで大坂へ下り、大坂新刀の草創に立った。国貞の嗣は井上真改として、その名を一層名高い世代へと継ぐ。京の堀川に始まった相州伝復興の手は、かくして後世の新刀へと流れていった。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
Swords are non-returnable (blades cannot be re-imported to Japan). Insured shipping; damage/loss claims reported within 5 days of receipt. Cancellation fee 10% before shipment; not possible after shipment.