新刀の時代は、その大部分が京都で発明された。埋忠明寿の工房が運動を育て、堀川国広が一世代を鍛え、鎚を持たぬ本阿弥家が名刀の意味を司った。
鑑定書内容:財)日本美術刀剣保存協会 重要刀剣[N.B.T.H.K]Juyo Token No.23 江戸時代、山城国、堀川国広の門人として活躍した国安の重要刀剣指定作品。堀川国安は「田中家系図」によると通称を三郎太夫と称し、国広を長兄に国政、国次、そして国安が末弟と記載されている。同作は一門中比較的に作品が少ない刀工であり、作風、茎仕立てなど国広に非常に近似している点から、従来国広の代作に勤めていた為とも言われており、在銘作の作位の高さからも相当な腕達者である事がわかる。掲出の作品は1尺を八分越える長寸の平打ち短刀で、慶長新刀らしい豪壮な体配に、刃中は金筋・砂流しを激しく交えた沸出来の互の目乱れに、地鉄は肌目が一段と強調された堀川派特有の「ザングリ肌」を示し、同作の特徴と本領が遺憾無く発揮された名刀である。また特筆すべきは銘文にあり、かつて三様あると言われた国安の銘形において晩年銘か(佐藤寒山説)、はたまた国安同人か(本間薫山説)とも言われた銘字であるが、近年元刀剣博物館学芸員の岩田隆氏が「堀川国広とその一門」図録上にて発表した「国次が代銘した国安銘」がまさに本作であり、偶然にもその国次在銘作も当店で過去に扱いがあり、常の銘字と比べてみるとなるほど同説は頷けるものであり、筆者も同意するところである。国広一門の研究を一歩進めたまさに好資料であり、また改めて岩田氏の鑑定眼には憧憬を覚えるものである。※本作には重要刀剣指定証明書が付帯となっている。 左より国次自身銘、国次が代銘した国安銘(本作)、一般見られる国安自身銘(第12回特別重要刀剣図譜より転載)
堀川国安は国広の弟子でその作刀数は比較的少なく、 その作風、銘振りからして、自然国広の代作者のひとりと見る ことができる。銘は必ず国安と二字にきり、鑢は逆筋違にきるところが大きな見どころである。 この脇指は常に見る国安 より太鏨で、銘振りも心持異風であるが、鑢は逆大筋違でよく、上の作風も、ザングリとした堀川肌に、彎れと大互の目 交りの刃文を焼いて堀川風であり、すでに重刀に指定されている、国安の兄と伝える国次二字銘の脇指に一脈通じる作風 と銘振りである。 堀川物研究の好資料といえよう。








堀川国安は国広の弟子でその作刀数は比較的少なく、 その作風、銘振りからして、自然国広の代作者のひとりと見る ことができる。銘は必ず国安と二字にきり、鑢は逆筋違にきるところが大きな見どころである。 この脇指は常に見る国安 より太鏨で、銘振りも心持異風であるが、鑢は逆大筋違でよく、上の作風も、ザングリとした堀川肌に、彎れと大互の目 交りの刃文を焼いて堀川風であり、すでに重刀に指定されている、国安の兄と伝える国次二字銘の脇指に一脈通じる作風 と銘振りである。 堀川物研究の好資料といえよう。
Horikawa (Yamashiro / Kyoto) · 山城 · 1596-1615頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位11%
現在1点販売中
堀川国安は銘を必ず名の二字のみに切り、受領銘を用いず、しかも堀川一門中ただ一人、鑢目を逆向きに切った。説明書が彼を見分けるのは、鍛えや刃文のいかなる一点よりも、まずこの二つの癖においてである。『田中家系図』は通称を三郎太夫とし、堀川国広の末弟と記すが、剣書には日向飫肥の出で国広の甥にあたり、国広を慕って上京しその門に入って大成したとも伝える。慶長の頃、新刀の幕開けに活躍し、その作は一門中でも祖に最も近い手の一つである。
説明書は、その有銘の作がいかに少ないかについて、繰り返し一つの説明に立ち戻る。作風・茎仕立・銘振りが国広に酷似するため、代作の一人に任じていたためであり、第一回重要刀剣の説明は端的に、世上、国広銘でありながら鑑て全く国安の作とされるものが少なくない、と記す。彼はいわば一門中その作が最も国広に近い代作者であり、国安と銘した僅かな一群は、兄の名で世に出た刀を措いた後に残るものなのである。
本工の典型は相州上工を写したもので、就中、直江志津の風を第一とする。説明書がいう「彼が最も得意とした志津風の作域」[[c:1]]である。地鉄こそ終始変わらぬところで、板目に杢を交え時に大板目をも交えた地が肌立ち、説明書が一門中で最も肌立ってザングリとすると評する枯れた肌合となり、地沸が微塵に厚くつき、地景がよく入り、数口は区下より斜めに水影が立つ。彫物は二筋樋に梵字・蓮台・鍬形、素剣、護摩箸、倶利迦羅などの宗教的な意匠を浮彫にし、幅広で迫力ある慶長の姿によく調和する。
その地に対して、浅く大きなのたれを焼き、互の目・小互の目・角ばる刃を交え、足入り、匂深く沸厚くつく。沸こそ説明書が見どころとするところで、時に荒くむら立ち、刃縁にほつれ、砂流しが総体にかかり、金筋が長く入り、小さく湯走り・飛焼を交え、匂口は沈みごころとなって、同派の特色を示す。帽子はのたれ込み或は乱れ込んで小丸或は焼詰めとなり、さかんに掃きかける。この放胆で野趣に富む典型に対し、稀に第二の相がある。ある重要刀剣の脇指は中直刃を焼き、処々浅く小さくのたれ、沸は常の如く荒びず小沸を主調として静かにまとめる。説明書は国安の直刃の作例を稀有とし、流石に上手に仕上げたとして「同派の平安城弘幸を想わせる」[[c:2]]とする。
一門中で彼を際立たせるのは、意図して師に近い作風ではなく、説明書が大きな見どころとする二つの技法上の癖である。銘は必ず二字に国安と切り、受領銘を用いない。説明書はいう、「銘字は必ず二字銘にきり、受領銘はない」[[c:3]]と。堀川門下の上工で受領のないものは国安ただ一人である。そして「一門中、鑢目が逆筋違」[[c:4]]となるのは左利きのためと伝え、これは国広銘の作には見られぬ特徴であるという。同じ説明書は、その二字銘の作を作風・銘振りの上で兄と伝える国次に結びつけ、堀川物中かかる切刃の貞宗写しをやっているのは同工以外にいないとも記す。鍛えと刃文の上から、貞宗あたりに範をとった手と読み、「おそらく国広の代作に任じていたためと思われる」[[c:5]]として、自らの手で師の名に応えたとする。
収集の観点では、稀にして応え甲斐のある名である。藤代の極めは上々作。国宝はなく、その記録は重要文化財の一口、すなわち東京国立博物館蔵の刀、特別重要刀剣の脇指、戦前に大阪の柏原仁兵衛が蔵した重要美術品の刀、そして十四口ほどの重要刀剣を通じ、うち一口は薩摩鹿児島藩主島津家に伝来する。説明書はその最上作を国広の傑作に比肩するものとし、第一回の一口を「国広の傑作に比肩する出来映えで、同作中傑出した一口である」[[c:6]]と称える。有銘の作が極めて少なく、指定刀の多くは秘蔵されて世に出ぬため、在銘の国安が現れることは稀であり、私蔵の一口は収集家にとって注目すべきもの、しかも世上では国広その人の有銘作のうちに潜む手であるという、いま一つの妙味を帯びる。
國安の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 山城
現在79点販売中
堀川派は、山城国京都の一条堀川を本拠として、十六世紀末から十七世紀初頭にかけて成立した新刀期の一門である。祖の堀川国広はもと日向飫肥の城主伊東家に仕えた武士で、主家没落の後は諸国を遍歴して鍛刀の技を磨き、足利学校打や美濃大道との合作などにその足跡を銘文へ残した。慶長四年(一五九九)以後は京一条堀川に定住し、多くの俊秀を糾合してこれを育てた。その門からは出羽大掾国路、和泉守国貞(親国貞)、河内守国助、越後守国儔、大隅掾正弘、堀川国安らが輩出する。国広以前の関や末相州の作風を経て、定住後の一門は相州伝、就中、志津や貞宗、左文字の復興を共通の理想に掲げた。慶長新刀の姿に南北朝期の大太刀を磨上げた趣を写し、明寿と並んで新刀の創始を称えられる祖を戴いて、この派は京の鍛冶を改めた起点に立つ。 一門の作風は、地鉄にまず標識を持つ。板目に杢や大板目を交えて肌立つ、いわゆる「ザングリとした」枯れた肌合を呈し、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入る。区際より斜めに立つ水影は国広自身の手癖で、正弘や国安、国正にも伝わる。刃は浅いのたれを基調に互の目や尖り刃を交えて沸厚く、金筋や砂流しがかかり、処々に湯走りや飛焼を見せ、匂口が沈みごころとなるのが一派に通じる癖である。刃区を深く焼き込む態も国広に始まり門弟へ及ぶ。この共通の地刃の上に、各工は己の差を置く。国路は肌立ちザングリと枯れた地に厚く荒い沸の志津写しを焼き、浅くのたれ込んで先の尖る三品帽子を見せて、一門中随一の器用人と称された。国安は受領銘を用いず必ず二字に切り、左利きゆえに逆筋違の鑢目を切る唯一の工で、その手は最も祖に近い。正弘は大乱れを焼かず、焼を低く刃取りを抑えて目立つ杢を交え、作風も銘字の藤原の二字に至るまで祖に酷似する。国儔はかえって末関に向かい、頭の丸い互の目と締った匂口に兼之を思わせる美濃の一脈を担った。弘幸は一門ただ一人切り鑢を用い、黒みをおびた鉄に古作大和を想わせる直刃を本領とした。 蒐集家が堀川派を求める理由は、鑑定の勘所と、祖と高弟の格にある。在銘作を主体とし、慶長打は太鏨肩落の大振り二字銘や、日州古屋住から洛陽一条堀川住に至る受領銘を交えるため、銘そのものが工と時を定める手懸りとなる。国広の刀は、ザングリの地、斜めの水影、沈む匂口という手癖を写し物の中にすら宿し、相州伝復興の理想を最も高く体現する。高弟もまた、それぞれの極めの言うところで分かたれる。国路の三品帽子と長い金筋、国安の二字銘と逆鑢、正弘の抑えた焼と目立つ杢、国儔の頭の丸い互の目、弘幸の切り鑢と黒い鉄は、いずれも対手から借りた特徴ではなく己の地刃から引かれた標識である。代表作には伝後水尾天皇御寄進の拵を具して幡枝八幡宮に伝わる奉納太刀があり、伝来は日向伊東家、岡山藩家老伊木家、土佐山内家、大島津家、豊臣秀頼、皇室に及ぶ。最晩年の国広作は弟子の代作代銘と読まれるが、師の監督は厳重で偽物とは全く異なる。そして親国貞と河内守国助は国儔に学んで大坂へ下り、大坂新刀の草創に立った。国貞の嗣は井上真改として、その名を一層名高い世代へと継ぐ。京の堀川に始まった相州伝復興の手は、かくして後世の新刀へと流れていった。 詳しく見る →
京 新刀の源流
新刀の時代は、その大部分が京都で発明された。埋忠明寿の工房が運動を育て、堀川国広が一世代を鍛え、鎚を持たぬ本阿弥家が名刀の意味を司った。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトお客様都合による返品は作品到着後二日以内にお申し出ください。※お品物に手を加えた物等は対応できません※返品送料はお客様のご負担となります※お品代以外の費用(振込手数料、代引手数料等)は返金できません。※お届け先が海外の場合は返品や返金は出来ません
¥6,600,000
鑑定書内容:財)日本美術刀剣保存協会 重要刀剣[N.B.T.H.K]Juyo Token No.23 江戸時代、山城国、堀川国広の門人として活躍した国安の重要刀剣指定作品。堀川国安は「田中家系図」によると通称を三郎太夫と称し、国広を長兄に国政、国次、そして国安が末弟と記載されている。同作は一門中比較的に作品が少ない刀工であり、作風、茎仕立てなど国広に非常に近似している点から、従来国広の代作に勤めていた為とも言われており、在銘作の作位の高さからも相当な腕達者である事がわかる。掲出の作品は1尺を八分越える長寸の平打ち短刀で、慶長新刀らしい豪壮な体配に、刃中は金筋・砂流しを激しく交えた沸出来の互の目乱れに、地鉄は肌目が一段と強調された堀川派特有の「ザングリ肌」を示し、同作の特徴と本領が遺憾無く発揮された名刀である。また特筆すべきは銘文にあり、かつて三様あると言われた国安の銘形において晩年銘か(佐藤寒山説)、はたまた国安同人か(本間薫山説)とも言われた銘字であるが、近年元刀剣博物館学芸員の岩田隆氏が「堀川国広とその一門」図録上にて発表した「国次が代銘した国安銘」がまさに本作であり、偶然にもその国次在銘作も当店で過去に扱いがあり、常の銘字と比べてみるとなるほど同説は頷けるものであり、筆者も同意するところである。国広一門の研究を一歩進めたまさに好資料であり、また改めて岩田氏の鑑定眼には憧憬を覚えるものである。※本作には重要刀剣指定証明書が付帯となっている。 左より国次自身銘、国次が代銘した国安銘(本作)、一般見られる国安自身銘(第12回特別重要刀剣図譜より転載)
堀川国安は国広の弟子でその作刀数は比較的少なく、 その作風、銘振りからして、自然国広の代作者のひとりと見る ことができる。銘は必ず国安と二字にきり、鑢は逆筋違にきるところが大きな見どころである。 この脇指は常に見る国安 より太鏨で、銘振りも心持異風であるが、鑢は逆大筋違でよく、上の作風も、ザングリとした堀川肌に、彎れと大互の目 交りの刃文を焼いて堀川風であり、すでに重刀に指定されている、国安の兄と伝える国次二字銘の脇指に一脈通じる作風 と銘振りである。 堀川物研究の好資料といえよう。








堀川国安は国広の弟子でその作刀数は比較的少なく、 その作風、銘振りからして、自然国広の代作者のひとりと見る ことができる。銘は必ず国安と二字にきり、鑢は逆筋違にきるところが大きな見どころである。 この脇指は常に見る国安 より太鏨で、銘振りも心持異風であるが、鑢は逆大筋違でよく、上の作風も、ザングリとした堀川肌に、彎れと大互の目 交りの刃文を焼いて堀川風であり、すでに重刀に指定されている、国安の兄と伝える国次二字銘の脇指に一脈通じる作風 と銘振りである。 堀川物研究の好資料といえよう。
Horikawa (Yamashiro / Kyoto) · 山城 · 1596-1615頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位11%
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堀川国安は銘を必ず名の二字のみに切り、受領銘を用いず、しかも堀川一門中ただ一人、鑢目を逆向きに切った。説明書が彼を見分けるのは、鍛えや刃文のいかなる一点よりも、まずこの二つの癖においてである。『田中家系図』は通称を三郎太夫とし、堀川国広の末弟と記すが、剣書には日向飫肥の出で国広の甥にあたり、国広を慕って上京しその門に入って大成したとも伝える。慶長の頃、新刀の幕開けに活躍し、その作は一門中でも祖に最も近い手の一つである。
説明書は、その有銘の作がいかに少ないかについて、繰り返し一つの説明に立ち戻る。作風・茎仕立・銘振りが国広に酷似するため、代作の一人に任じていたためであり、第一回重要刀剣の説明は端的に、世上、国広銘でありながら鑑て全く国安の作とされるものが少なくない、と記す。彼はいわば一門中その作が最も国広に近い代作者であり、国安と銘した僅かな一群は、兄の名で世に出た刀を措いた後に残るものなのである。
本工の典型は相州上工を写したもので、就中、直江志津の風を第一とする。説明書がいう「彼が最も得意とした志津風の作域」[[c:1]]である。地鉄こそ終始変わらぬところで、板目に杢を交え時に大板目をも交えた地が肌立ち、説明書が一門中で最も肌立ってザングリとすると評する枯れた肌合となり、地沸が微塵に厚くつき、地景がよく入り、数口は区下より斜めに水影が立つ。彫物は二筋樋に梵字・蓮台・鍬形、素剣、護摩箸、倶利迦羅などの宗教的な意匠を浮彫にし、幅広で迫力ある慶長の姿によく調和する。
その地に対して、浅く大きなのたれを焼き、互の目・小互の目・角ばる刃を交え、足入り、匂深く沸厚くつく。沸こそ説明書が見どころとするところで、時に荒くむら立ち、刃縁にほつれ、砂流しが総体にかかり、金筋が長く入り、小さく湯走り・飛焼を交え、匂口は沈みごころとなって、同派の特色を示す。帽子はのたれ込み或は乱れ込んで小丸或は焼詰めとなり、さかんに掃きかける。この放胆で野趣に富む典型に対し、稀に第二の相がある。ある重要刀剣の脇指は中直刃を焼き、処々浅く小さくのたれ、沸は常の如く荒びず小沸を主調として静かにまとめる。説明書は国安の直刃の作例を稀有とし、流石に上手に仕上げたとして「同派の平安城弘幸を想わせる」[[c:2]]とする。
一門中で彼を際立たせるのは、意図して師に近い作風ではなく、説明書が大きな見どころとする二つの技法上の癖である。銘は必ず二字に国安と切り、受領銘を用いない。説明書はいう、「銘字は必ず二字銘にきり、受領銘はない」[[c:3]]と。堀川門下の上工で受領のないものは国安ただ一人である。そして「一門中、鑢目が逆筋違」[[c:4]]となるのは左利きのためと伝え、これは国広銘の作には見られぬ特徴であるという。同じ説明書は、その二字銘の作を作風・銘振りの上で兄と伝える国次に結びつけ、堀川物中かかる切刃の貞宗写しをやっているのは同工以外にいないとも記す。鍛えと刃文の上から、貞宗あたりに範をとった手と読み、「おそらく国広の代作に任じていたためと思われる」[[c:5]]として、自らの手で師の名に応えたとする。
収集の観点では、稀にして応え甲斐のある名である。藤代の極めは上々作。国宝はなく、その記録は重要文化財の一口、すなわち東京国立博物館蔵の刀、特別重要刀剣の脇指、戦前に大阪の柏原仁兵衛が蔵した重要美術品の刀、そして十四口ほどの重要刀剣を通じ、うち一口は薩摩鹿児島藩主島津家に伝来する。説明書はその最上作を国広の傑作に比肩するものとし、第一回の一口を「国広の傑作に比肩する出来映えで、同作中傑出した一口である」[[c:6]]と称える。有銘の作が極めて少なく、指定刀の多くは秘蔵されて世に出ぬため、在銘の国安が現れることは稀であり、私蔵の一口は収集家にとって注目すべきもの、しかも世上では国広その人の有銘作のうちに潜む手であるという、いま一つの妙味を帯びる。
國安の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
新刀 · 山城
現在79点販売中
堀川派は、山城国京都の一条堀川を本拠として、十六世紀末から十七世紀初頭にかけて成立した新刀期の一門である。祖の堀川国広はもと日向飫肥の城主伊東家に仕えた武士で、主家没落の後は諸国を遍歴して鍛刀の技を磨き、足利学校打や美濃大道との合作などにその足跡を銘文へ残した。慶長四年(一五九九)以後は京一条堀川に定住し、多くの俊秀を糾合してこれを育てた。その門からは出羽大掾国路、和泉守国貞(親国貞)、河内守国助、越後守国儔、大隅掾正弘、堀川国安らが輩出する。国広以前の関や末相州の作風を経て、定住後の一門は相州伝、就中、志津や貞宗、左文字の復興を共通の理想に掲げた。慶長新刀の姿に南北朝期の大太刀を磨上げた趣を写し、明寿と並んで新刀の創始を称えられる祖を戴いて、この派は京の鍛冶を改めた起点に立つ。 一門の作風は、地鉄にまず標識を持つ。板目に杢や大板目を交えて肌立つ、いわゆる「ザングリとした」枯れた肌合を呈し、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入る。区際より斜めに立つ水影は国広自身の手癖で、正弘や国安、国正にも伝わる。刃は浅いのたれを基調に互の目や尖り刃を交えて沸厚く、金筋や砂流しがかかり、処々に湯走りや飛焼を見せ、匂口が沈みごころとなるのが一派に通じる癖である。刃区を深く焼き込む態も国広に始まり門弟へ及ぶ。この共通の地刃の上に、各工は己の差を置く。国路は肌立ちザングリと枯れた地に厚く荒い沸の志津写しを焼き、浅くのたれ込んで先の尖る三品帽子を見せて、一門中随一の器用人と称された。国安は受領銘を用いず必ず二字に切り、左利きゆえに逆筋違の鑢目を切る唯一の工で、その手は最も祖に近い。正弘は大乱れを焼かず、焼を低く刃取りを抑えて目立つ杢を交え、作風も銘字の藤原の二字に至るまで祖に酷似する。国儔はかえって末関に向かい、頭の丸い互の目と締った匂口に兼之を思わせる美濃の一脈を担った。弘幸は一門ただ一人切り鑢を用い、黒みをおびた鉄に古作大和を想わせる直刃を本領とした。 蒐集家が堀川派を求める理由は、鑑定の勘所と、祖と高弟の格にある。在銘作を主体とし、慶長打は太鏨肩落の大振り二字銘や、日州古屋住から洛陽一条堀川住に至る受領銘を交えるため、銘そのものが工と時を定める手懸りとなる。国広の刀は、ザングリの地、斜めの水影、沈む匂口という手癖を写し物の中にすら宿し、相州伝復興の理想を最も高く体現する。高弟もまた、それぞれの極めの言うところで分かたれる。国路の三品帽子と長い金筋、国安の二字銘と逆鑢、正弘の抑えた焼と目立つ杢、国儔の頭の丸い互の目、弘幸の切り鑢と黒い鉄は、いずれも対手から借りた特徴ではなく己の地刃から引かれた標識である。代表作には伝後水尾天皇御寄進の拵を具して幡枝八幡宮に伝わる奉納太刀があり、伝来は日向伊東家、岡山藩家老伊木家、土佐山内家、大島津家、豊臣秀頼、皇室に及ぶ。最晩年の国広作は弟子の代作代銘と読まれるが、師の監督は厳重で偽物とは全く異なる。そして親国貞と河内守国助は国儔に学んで大坂へ下り、大坂新刀の草創に立った。国貞の嗣は井上真改として、その名を一層名高い世代へと継ぐ。京の堀川に始まった相州伝復興の手は、かくして後世の新刀へと流れていった。 詳しく見る →
京 新刀の源流
新刀の時代は、その大部分が京都で発明された。埋忠明寿の工房が運動を育て、堀川国広が一世代を鍛え、鎚を持たぬ本阿弥家が名刀の意味を司った。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトお客様都合による返品は作品到着後二日以内にお申し出ください。※お品物に手を加えた物等は対応できません※返品送料はお客様のご負担となります※お品代以外の費用(振込手数料、代引手数料等)は返金できません。※お届け先が海外の場合は返品や返金は出来ません
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