肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
日本刀 脇差 銘 近江守忠吉(五代) 特別貴重刀剣認定書付 【解説】 概要 本作は「近江守忠吉」と銘が切られた一振りです。受領銘である「近江守」を冠していることから、江戸時代中期に肥前国(現在の佐賀県)で活躍した五代忠吉の手によるものと推測されます。五代忠吉は、寛延から宝暦年間(1748-1764年)にかけて精力的に作刀を行いました。 「忠吉」の名は、安土桃山時代から江戸時代末期(1572-1868年)にかけて九代まで続いた名門です。江戸期を通じて、肥前国を治めた佐賀藩主・鍋島家の御用鍛冶として重用されました。 初代忠吉について 初代忠吉は佐賀藩に生まれ、慶長元年(1596年)、藩命により京都の埋忠明寿(江戸初期を代表する名工)の門を叩き、作刀技術を学びました。二年の修行を経て慶長三年(1598年)に帰国。その腕を高く評価した初代藩主・鍋島勝茂公により御抱え鍛冶に任じられ、佐賀城下に居を構えました。以来、江戸時代を通じて百名を超える門下生を輩出する「肥前忠吉家」の礎を築き、幕末まで代々藩に仕えました。 五代忠吉について 五代忠吉は元禄九年(1696年)、四代忠吉の嫡男として生まれました。寛延三年(1750年)、55歳の時に「近江守」を受領。父の存命中は「忠広」と銘じていましたが、延享四年(1747年)の父没後に「忠吉」を襲名しました。本作は「近江守忠吉」と銘があることから、受領後の1750年以降に制作された晩年作であることが分かります。享年80歳で没するまで、その卓越した技量は愛刀家の間で高く評価されてきました。 肥前国について 肥前国の刀工たちは、忠吉家を中心に鍋島藩の厚い庇護の下で作刀に励みました。長崎という土地柄、海外との交易が盛んであったことから、西洋鉄(南蛮鉄)をいち早く取り入れ、和鉄と組み合わせることで「肥前刀」特有の美しい肌合い(小糠肌)を生み出すことに成功しました。 【刀身】 長さ(Nagasa):31.7 cm 反り(Sori):0.3 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃先に現れる結晶構造 地鉄(Jihada):折り返し鍛錬によって現れる鋼の表面模様 茎(Nakago):刀身の柄に収まる部分。 日本の刀工は、柄内部での赤錆を防ぐために意図的に「黒錆」を残します。この茎の錆色は時の経過とともに変化し、専門家が制作年代を鑑定する際の重要な指標となります。 【外装】 拵(Koshirae):鞘、柄、鍔など、刀身を収めるための装具一式。 縁頭(Fuchi-Kashira):柄の両端を保護し、装飾を兼ねる一対の金具。 本作の縁頭には「桐紋」が施されています。黒味を帯びた地金に金の色絵が映え、気品あるコントラストを描いています。桐紋は三本の直立する花序と三枚の葉から構成され、花の数によって格付けがなされます。本作に用いられている「五三の桐」は、かつて皇室や時の権力者によって使用された由緒ある文様であり、現在も広く親しまれています。




















新刀 · 肥前 · 1748-1751頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位49%
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新刀 · 肥前
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肥前派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。 詳しく見る →
肥前 藩営の刀
肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
本作はNBTHKの旧鑑定書(貴重・特別貴重)を有しますが、これらは現在発行されておらず、信頼性に欠けるとされています。極めを確認するには、公的な鑑定機関(NBTHK・NTHKなど)への再提出による現代の鑑定をご検討いただけます。
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