三人の天下人が戦国の世紀を終わらせ、刀は新しい秩序の道具となった。1588年の刀狩は刀を武士の標章とし、名刀は条約のごとく家々の間を行き交い、鑑定は以後この境で古刀と新刀を分かつ。
骨董日本刀 大小 同田貫正国・奥州会津兼定(NTHK鑑定書付) 【解説】 ■刀 本作は、天正年間(1573-1592:安土桃山時代)に肥後国(現在の熊本県)で活躍した同田貫正国(どうたぬき まさくに)と極められた一振りです。同田貫は正国を祖とする流派であり、彼は肥後領主・加藤清正に仕えました。 正国は、鎌倉末期から南北朝時代にかけて菊池氏の抱え鍛冶として栄えた延寿派の末流と伝えられています。室町末期に菊池氏が衰退するとともに延寿派も勢いを失いましたが、その一族である藤原国勝・信賀兄弟が「同田貫」の地に移り住み、流派を再興しました。彼らの技量は戦国屈指の武将である加藤清正に認められ、清正の「清」と「正」の一字をそれぞれ賜りました。これにより信賀は正国、兄の国勝は清国と名を改め、加藤家の庇護のもと同田貫派を確立したのです。 ※切先付近の棟および鎬地に、目立つ疵(きず)がございます。該当箇所の写真を掲載しておりますのでご確認ください。別角度からの詳細な写真をご希望の場合は、お申し付けいただければ撮影いたします。 ■脇差 本作は、天保年間(1831-1845:江戸時代後期)に奥州(現在の福島県)で活躍した奥州会津兼定(おうしゅう あいづ かねさだ)の作と極められています。NTHK(日本刀剣保存会)の鑑定に基づき、会津兼定十代の作と推守されます。なお、その息子は幕末の名工として名高い和泉守兼定(十一代)です。 会津兼定派は、慶長年間(1596-1615)まで美濃国(現在の岐阜県)で打っていた兼定を始祖とします。この兼定は、美濃の名工・濃州和泉守兼定(之定)の孫にあたります。兼定は織田信長に仕えた有力大名・蒲生氏郷に召し抱えられて美濃から会津へ移り、同地で会津兼定派を興しました。以来、幕末の十一代まで連綿と続き、代々会津藩の御用鍛冶として刀を打ち続けました。 ■大小(だいしょう)とは 大小とは、武士が帯刀した二本一組の刀剣を指します。江戸時代、公の場で大小を差すことは武士の身分象徴であり、幕府の法(武家諸法度等)によっても義務付けられていました。「大」は打刀(刀)、「小」は脇差を意味します。 ■彫物 刀・脇差ともに彫物が施されています。 刀の片面には「南無阿弥陀仏」の銘が彫られています。これは仏への祈りの言葉であり、浄土宗の教えにおいて、この念仏を唱えることで極楽浄土へ往生できると信じられてきました。当時の所持者の深い信仰心が伺えます。 もう一方の面には、人間の髑髏(どくろ)が彫られています。これは「野晒し(のざらし)」と呼ばれる意匠で、野に晒され風雨に洗われた骨を指します。野晒しの図は古来より好まれた画題ですが、そこには常に死と隣り合わせであった戦国武士の死生観や、厳しい時代背景が反映されていると言えるでしょう。 歴史に名を残す名将だけでなく、記録にすら残らなかった名もなき戦士たちにも、それぞれの生きた証がありました。しかし、ひとたび命を落とせば、その骸は等しく野に晒されます。この彫物は、無常観とともに、武士としての覚悟を象徴しているのかもしれません。
無銘 · Dotanuki & Aizu Kanesada · 新刀 · 長さ 60.5cm · 反り 0.8cm








































備前伝 · 肥後 · 1573-1592頃
現在1点販売中
正國の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
備前伝 · 肥後
現在16点販売中
同田貫は肥後国の菊池に室町末期から興り、新刀期に及んで活躍した一派である。説示は本派を九州肥後を代表する流派として位置づけ、その一門に正国・上野介・又八(又八左衛門)・正広・兵部・左馬介・国勝らの工があったことを伝える。年紀を備えた遺例には天正から慶長に跨がる作が見られ、上野介には慶長九年・慶長十六年八月吉日の銘があって、新古を跨ぐ形でこの工が活躍したことが知られる。正国の薙刀は桃山時代の製作と鑑せられ、刀身とほぼ同時期に誂えられた拵を伴う例もある。説示の伝える工と年紀からは、戦国末から江戸初頭にかけての肥後にあって、実用の需に応えた工房の姿がうかがえる。 作風は、身幅広く重ね厚く平肉の豊かな豪壮な造込みを基調とする。説示はこれを武骨な姿とも記し、鎬造の刀のほかに大身槍や大振りの薙刀の作例も数多く経眼されると述べる。鍛えは板目肌で、処々に流れ肌や杢目を交え、やや肌立ちごころとなり、地沸がつく。刃文はのたれを基調に小互の目・小丁子・小尖り刃などが交じり、足・葉がよく入り、匂口は締りがちで叢沸となり、飛焼や棟焼を見せ、金筋・砂流しの細かにかかる作がある。互の目乱れを主とする例や、正広の薙刀のように直刃を焼いて匂口の沈む作も伝えられ、一派のうちに振幅のあることが説示から読み取れる。見分けに当たっては、頑健な姿態と、匂口の締まった乱刃に叢沸・飛焼・棟焼の交じる地刃の様相が手がかりとなる。 伝承の面では、説示はこの派の刀の鋭利さが古くから賞讃され、実用刀として知られてきたことを繰り返し記す。代表工とされる上野介には、常に見る同派の作域よりも変化に富み野趣の感じられる作があり、沈みごころの地刃に渋い味わいの醸される一口が同工および同派を代表する出来として挙げられている。正国の薙刀は、地沸の微塵に厚くついた鍛えと、同派の常以上に明るく沸づいて刃中の頻りに働く刃文をもって秀作と評され、黒漆金蒔絵柄鞘薙刀拵を附帯する。又八の薙刀には匂口の締まった作に沸のつく一派の特色がよく示され、黒塗薙刀拵を伴う。資料は僅少ながら、これらの遺例は、肥後にあって頑健と切れ味を旨とした同田貫の性格を、刀・薙刀の双方に即して伝えるものといえる。 詳しく見る →
三人の天下人が戦国の世紀を終わらせ、刀は新しい秩序の道具となった。1588年の刀狩は刀を武士の標章とし、名刀は条約のごとく家々の間を行き交い、鑑定は以後この境で古刀と新刀を分かつ。
NTHKの中心的な鑑定書で、相応の出来を備えた作に発行されます。在銘作は銘の正真を、無銘作は審査員による刀工・流派の極めを示します。点数を記す詳細な審査表が付されます。
NTHK(日本刀剣保存会)は、NBTHK(1948年設立)に先立つ1910年に創立された、日本で最も古い刀剣鑑定団体です。長く会を率いた会長の没後、NTHKとNTHK-NPOの二つに分かれ、いずれも審査を続けています。NTHKの鑑定書は、点数と審査員の所見を併記する詳細な審査表が特徴で、特に無銘作の極めに定評があります。
Returns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.
骨董日本刀 大小 同田貫正国・奥州会津兼定(NTHK鑑定書付) 【解説】 ■刀 本作は、天正年間(1573-1592:安土桃山時代)に肥後国(現在の熊本県)で活躍した同田貫正国(どうたぬき まさくに)と極められた一振りです。同田貫は正国を祖とする流派であり、彼は肥後領主・加藤清正に仕えました。 正国は、鎌倉末期から南北朝時代にかけて菊池氏の抱え鍛冶として栄えた延寿派の末流と伝えられています。室町末期に菊池氏が衰退するとともに延寿派も勢いを失いましたが、その一族である藤原国勝・信賀兄弟が「同田貫」の地に移り住み、流派を再興しました。彼らの技量は戦国屈指の武将である加藤清正に認められ、清正の「清」と「正」の一字をそれぞれ賜りました。これにより信賀は正国、兄の国勝は清国と名を改め、加藤家の庇護のもと同田貫派を確立したのです。 ※切先付近の棟および鎬地に、目立つ疵(きず)がございます。該当箇所の写真を掲載しておりますのでご確認ください。別角度からの詳細な写真をご希望の場合は、お申し付けいただければ撮影いたします。 ■脇差 本作は、天保年間(1831-1845:江戸時代後期)に奥州(現在の福島県)で活躍した奥州会津兼定(おうしゅう あいづ かねさだ)の作と極められています。NTHK(日本刀剣保存会)の鑑定に基づき、会津兼定十代の作と推守されます。なお、その息子は幕末の名工として名高い和泉守兼定(十一代)です。 会津兼定派は、慶長年間(1596-1615)まで美濃国(現在の岐阜県)で打っていた兼定を始祖とします。この兼定は、美濃の名工・濃州和泉守兼定(之定)の孫にあたります。兼定は織田信長に仕えた有力大名・蒲生氏郷に召し抱えられて美濃から会津へ移り、同地で会津兼定派を興しました。以来、幕末の十一代まで連綿と続き、代々会津藩の御用鍛冶として刀を打ち続けました。 ■大小(だいしょう)とは 大小とは、武士が帯刀した二本一組の刀剣を指します。江戸時代、公の場で大小を差すことは武士の身分象徴であり、幕府の法(武家諸法度等)によっても義務付けられていました。「大」は打刀(刀)、「小」は脇差を意味します。 ■彫物 刀・脇差ともに彫物が施されています。 刀の片面には「南無阿弥陀仏」の銘が彫られています。これは仏への祈りの言葉であり、浄土宗の教えにおいて、この念仏を唱えることで極楽浄土へ往生できると信じられてきました。当時の所持者の深い信仰心が伺えます。 もう一方の面には、人間の髑髏(どくろ)が彫られています。これは「野晒し(のざらし)」と呼ばれる意匠で、野に晒され風雨に洗われた骨を指します。野晒しの図は古来より好まれた画題ですが、そこには常に死と隣り合わせであった戦国武士の死生観や、厳しい時代背景が反映されていると言えるでしょう。 歴史に名を残す名将だけでなく、記録にすら残らなかった名もなき戦士たちにも、それぞれの生きた証がありました。しかし、ひとたび命を落とせば、その骸は等しく野に晒されます。この彫物は、無常観とともに、武士としての覚悟を象徴しているのかもしれません。
無銘 · Dotanuki & Aizu Kanesada · 新刀 · 長さ 60.5cm · 反り 0.8cm








































備前伝 · 肥後 · 1573-1592頃
現在1点販売中
正國の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
備前伝 · 肥後
現在16点販売中
同田貫は肥後国の菊池に室町末期から興り、新刀期に及んで活躍した一派である。説示は本派を九州肥後を代表する流派として位置づけ、その一門に正国・上野介・又八(又八左衛門)・正広・兵部・左馬介・国勝らの工があったことを伝える。年紀を備えた遺例には天正から慶長に跨がる作が見られ、上野介には慶長九年・慶長十六年八月吉日の銘があって、新古を跨ぐ形でこの工が活躍したことが知られる。正国の薙刀は桃山時代の製作と鑑せられ、刀身とほぼ同時期に誂えられた拵を伴う例もある。説示の伝える工と年紀からは、戦国末から江戸初頭にかけての肥後にあって、実用の需に応えた工房の姿がうかがえる。 作風は、身幅広く重ね厚く平肉の豊かな豪壮な造込みを基調とする。説示はこれを武骨な姿とも記し、鎬造の刀のほかに大身槍や大振りの薙刀の作例も数多く経眼されると述べる。鍛えは板目肌で、処々に流れ肌や杢目を交え、やや肌立ちごころとなり、地沸がつく。刃文はのたれを基調に小互の目・小丁子・小尖り刃などが交じり、足・葉がよく入り、匂口は締りがちで叢沸となり、飛焼や棟焼を見せ、金筋・砂流しの細かにかかる作がある。互の目乱れを主とする例や、正広の薙刀のように直刃を焼いて匂口の沈む作も伝えられ、一派のうちに振幅のあることが説示から読み取れる。見分けに当たっては、頑健な姿態と、匂口の締まった乱刃に叢沸・飛焼・棟焼の交じる地刃の様相が手がかりとなる。 伝承の面では、説示はこの派の刀の鋭利さが古くから賞讃され、実用刀として知られてきたことを繰り返し記す。代表工とされる上野介には、常に見る同派の作域よりも変化に富み野趣の感じられる作があり、沈みごころの地刃に渋い味わいの醸される一口が同工および同派を代表する出来として挙げられている。正国の薙刀は、地沸の微塵に厚くついた鍛えと、同派の常以上に明るく沸づいて刃中の頻りに働く刃文をもって秀作と評され、黒漆金蒔絵柄鞘薙刀拵を附帯する。又八の薙刀には匂口の締まった作に沸のつく一派の特色がよく示され、黒塗薙刀拵を伴う。資料は僅少ながら、これらの遺例は、肥後にあって頑健と切れ味を旨とした同田貫の性格を、刀・薙刀の双方に即して伝えるものといえる。 詳しく見る →
三人の天下人が戦国の世紀を終わらせ、刀は新しい秩序の道具となった。1588年の刀狩は刀を武士の標章とし、名刀は条約のごとく家々の間を行き交い、鑑定は以後この境で古刀と新刀を分かつ。
NTHKの中心的な鑑定書で、相応の出来を備えた作に発行されます。在銘作は銘の正真を、無銘作は審査員による刀工・流派の極めを示します。点数を記す詳細な審査表が付されます。
NTHK(日本刀剣保存会)は、NBTHK(1948年設立)に先立つ1910年に創立された、日本で最も古い刀剣鑑定団体です。長く会を率いた会長の没後、NTHKとNTHK-NPOの二つに分かれ、いずれも審査を続けています。NTHKの鑑定書は、点数と審査員の所見を併記する詳細な審査表が特徴で、特に無銘作の極めに定評があります。
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